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泉川尚進の自己紹介③(起業〜現在編)

はじめまして、泉川尚進(いずみかわひさし)です。
今回は自己紹介の第3部です。
前回までの分は上記のリンクからお読みください。


3部 飛躍期 (独立〜現在)
2016年3月末 明治乳業退職
辞めるのは2015年の春には伝えていました。その時にはもう「明治の牛乳屋として独立したいこと」を伝えていて、明治公認で出店準備をさせてもらっていました。
(本当にいい会社だと思います。今でも大変感謝しています。)
当時鳥取県の米子市に住んでいました。実家は広島、そんな自分が福岡の宗像市で起業をしようと思ったのかを少しお伝えできればと思います。
どうして宗像だったのか?
一番に「明治乳業の代理店としての成功条件」があったからです。
一番の条件は「商圏人口が10万人」でした。
条件に見合う土地は全国でなんと栃木と滋賀、福岡(宗像)だけでした。
ただ条件が合っていても、その土地に有力な販売店がある場合は、創業の出店は認められないことがほとんどで、出店計画が無かったのは宗像だけでした。
Q:なぜ全国で宗像だけが出店計画が無かったのか?
①福岡に出店をし続けている会社がなかった。
②以前牛乳屋があったが、廃業していた。
(結果的に失敗をする訳なので、さすがの目利きです、、)
○創業準備

起業の相談をお客様にした時に、「地元では無いところで創業するのなら地元の商工会に頼ると良いよ」と教えてもらいました。
すぐに会社から宗像の商工会に「起業について相談させてほしい」と電話をしました。
(業務中に会社でやってしまう所が僕らしいです、、、笑)
ドキドキの中、電話をかけると「泉さん」という方が対応してくれた。
○2015年の8月
夜行バスで鳥取から福岡に向いました。天神にバスが到着して、そこから宗像に向かいました。
その時の心境は期待より不安の方が多かったです。
泉さんに初めて会って、まず宗像市内を案内してくれました。
なんとお昼ごはんもご馳走してくれました。
その時に食事したフランス屋の方とは今でも繋がりがあり、自分にとって繋がっていた方が良い方を紹介してくれたのだと思います。
しかし、別れ際に泉川さんから「縁がない土地で創業することをよく考えてください」と言われました。
どこか反対されているような感じを受けてしまいました。しかしもう覚悟はできていたので、今更やらないという選択肢はありませんでした。
そこから毎月宗像に通いました。
倉庫が決まり、事業計画も完成。
○2015年10月
政策金融公庫さんとの面談をして、600万借りることになりました。事業をする上で初の融資。改めて覚悟が決まりました。
準備中ではあるものの、明治にはまだ在籍中です。明治は大幅な有給消化をさせてくれて、2015年4月の開業に向けて、2月の中旬から休ませてくれました。
これからもうこんなにまとまった休みをとることはないだろうと思い、妻の実家の能登半島で2週間ほど過ごし、パソコン一台でできる限りのことをしました。
最初に購入したのは2台の車。陸送費用がもったいないので、広島から自分と友達で運びました。
その運転中になんだか感傷的な気持ちになり、「広島を捨てる」ような感覚に襲われたことを覚えています。
1年目〜2年目

○2016年4月3日 

無事オープンの日を迎え、さっそく営業活動を開始しました。牛乳配達は知識はあるが実務はしたことがなかったので、とにかく毎日疲れていました。
早速1ヶ月目で壁にぶつかり、月の目標が100件だったが40件ほどで終わった。もっとやれると思っていました。
手元の運転資金はオープン当初600万あったが、1ヶ月で100万減り、焦りました。
本当は400件が損益分岐点なのでまだまだ営業活動が必要でした。
ただその時にはまだいけると思って、もっとお金を突っ込みました。
しかし、2ヶ月目も100万減ることに。
なんと、
それは半年間続き、創業資金の600万はあっという間になくなりました。創業するというのは本当に厳しいことですね。
創業して、半年。事務所も借り、車も揃え、お客様もいる。まだまだ諦めのきかない時期です。
銀行からなんとかしてもう300万を借りましたが、これも3ヶ月でなくなりました。
(営業活動に苦戦をしました。この時はほんとにしんどかったです)
お金がなくなった私は最後の手段で、友達から200万を借りることになりました。
この時に初めて
「経営者は勝たなくても良いが、生き残ることが重要」だと心から思いました。
社内ではクーデターが起き、パートさんも辞めていきました。
妻と二人で沢山配達することになり、時には21時まで配達して、罵倒されることもありました。
しかし
「夫婦で配達している」と伝えると、
「いつまでも待てるよ」と言ってくれて、嬉しさと悔しさを感じながら事務所に帰ったことを覚えています。
そこから立て直して、600件までいきました。月に50万は確実に残るようになり、なんとか最後の200万で踏みとどまることができました。
気づけば創業して2年が経っていました。
ここから守りに入ってしまった。
600件いた顧客は300件ほどにあっという間になった。
600件に到達した時に起こったことは、営業で獲得していく数字と、解約件数が同じになっていました。獲得しても獲得しても解約されていき、営業マンを採用して育成していく必要がありましたが、自分がそれまで感覚的に仕事を続けていたこともあり、営業マンを育成することがまったくできませんでした。
■3年目

件数も落ち、心が折れかけていました。
「俺は何がしたいのか?」と思うようになっていました。
そんな時奥さんが二人目を妊娠しました。
「子どもができた」と聞いた時に、正直喜べない自分が先に出てきた。
「牛乳屋はどうするんだ?」
妻が配達ができなければ仕事としてもう無理な状態になっていました。

しかしすぐ吹っ切れて、結果牛乳屋を辞める決断をすることになりました。
○2019年の10月
ここからはどうせ辞めるのなら、経営的に「良い辞め方をしよう」と決めました。
この時に備品をヤフーオークションに出して日銭を稼ぐしかありませんでした。
ある日「骨密度測定器」という機械を売ろうとSNSを活用していたところ、有明乳業という佐賀の企業から問い合わせがありました。これはチャンスかもしれないと思い、「お店ごと購入しませんか?」とお伝えしました。社長と専務がすぐに会社に来て下さり、直接お話をしました。
結果的に2ヶ月後の12月末にはもう牛乳屋の売却が決まりました。
印刷会社買収

牛乳屋を辞めた後の選択肢は大きく2つありました。
A:借金と譲渡額を相殺してマイナス500万で広島に帰る
B:宗像に残る
結果、2020年の1月には、宗像にて500万で印刷屋を購入するという決断をしました。
この時に思ったのは「やっぱりだめだったので、広島に帰ります」と言えない自分がいました。JCを通して、住んでいる人、地域が好きになっている自分がいました。
広島は故郷であって、宗像が地元になっている自分に気づきました。
しかし事業承継後、印刷屋は言われていた売上が立たないことがわかりました。
まさに、失敗です。
その時にコロナがきて、コロナ融資で生き繋いでいきました。
印刷屋は大規模な設備が無い限り、淘汰されるとわかって、絶望していました。そんな時、YouTubeの撮影をしたいと言っている方に出会って、動画制作で売上ができるようになっていきました。
動画制作の営業戦略を考えている時に、人気ユーチューバーの企画で、「わちゃめちゃ号を買いませんか?」という企画に応募して、わちゃめちゃ号を買い取ることになりました。正直チャンスだと思いました。自分のチャンネルもあったので、登録者数が増えるのはもちろんでしたが、
なにより10万人のチャンネル登録者数がいる人たちからユーチューブのやり方などの情報を得ることができました。
そこで学んでいたことで、YouTubeの営業の際に抑えるべきポイントが分かるようになっていきました。




補足
印刷屋はその時に戻れるならば確実に買いません。地元に根付いているがほっとけば売上が下がる事業だったからです。購入直後にコロナが流行ったこともあり、すぐに赤字に転落しました。80万〜90万の固定費。
そもそも個人事業は事業主がプレイヤーでやって、ようやく黒字くらいの事業になっていることがほとんどなので、自分がプレイヤーにならない限り赤字になることは決まっていることでした。この時の苦い経験が今の事業承継をする判断基準に大きく影響しています。
自動車整備工場買収
印刷と動画制作で何とか生活をしていた時に、山田自動車という福岡県嘉麻市の自動車整備工場の事業承継の話がきました。

詳しい話はここでは割愛しますが、この挑戦は大きな転換期になりました。
牛乳屋→印刷屋→YouTube→自動車
と異業種への挑戦になったが、この山田自動車はハード面がしっかりしているからこそ、印刷屋での苦労が活き、今では順調に経営をすることができ、今後の成長も見据えることができています。
本当に紆余曲折ありましたが、なんとか今経営者として生きています。
人生チャレンジすれば失敗もありますが、死ぬことはありません。
■独立後のまとめです
「一歩でも足を止めたら終わっていた」
この一言に尽きます。
経営者は常に選択を迫られています。
A 楽な道
B 辛い道
牛乳屋が失敗した時の選択として、広島に帰る選択は楽な道でした。選択を迫られた時に自分はこれまで辛い道を選んできています。今回で言うと印刷屋の事業承継です、
辛い道はその時には辛いが、乗り越えるとその後にはその「道」は辛くなくなっています。
これからも辛い道を選んでいきたいし、読者様にもそう伝えたいです。
(ただそれでも印刷屋は買いませんが笑)
最後に、泉川の今後

人材育成ができるようにならないといけないと思っています。
事業には人がつきものなので、結果の出せる人を育成していきたいです。
ヒト・モノ・カネ
で言うと、カネのことは経営者としてある程度分かってきましたが、
ヒトの部分がまだまだ課題になっています。
人を育て、もっと大きなお金を動かしていける会社を作っていきたいです。
せっかく経営をしているのであれば、少なくとも10億にびびらない自分になっていきたいです。今はせいぜい1億にはびびらなくなった程度です。
最後に
このnote3部作を書いてみて、自分の人生と深く向き合うきっかけになりました。経営者になり、色んな失敗もありますが何もない人生より100倍楽しいです。ただ妻には迷惑をかけてばかりです。もっと妻の幸せ、子ども達の幸せのためにもこれからも止まらずに「辛い道」を選び、幸せな人生を送っていきたいと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。

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