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泉川尚進の自己紹介①(幼少期〜高校編)

はじめまして、泉川尚進(いずみかわひさし)です。

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私は現在、福岡県で複数の企業を経営している経営者です。

今回私は自分の過去を大いに語ろうと思っています。

私のことを既に知っていていただいている方には意外な面が、
この記事を通して初めて知っていただける方には興味を持ってもらえる面が、
あるのではないかと思います。

よく人生を語る前の言葉としてはありきたりな言葉になってしまいますが、
私の人生は順風満帆ではありませんでした。

真面目に学校に通いながら、勉強も運動もできない劣等生だった私。
様々な葛藤を通して、今の私を形成しています。
少し長くなりますが、少し一人の人生に目を向けてみませんか?

大きく3部構成です。

1部 劣等生期(0歳〜高校卒業まで)

2部 飛躍期 (専門学校〜サラリーマン時代)

3部 飛躍期 (独立〜現在)

この記事を一番見てもらいたい方がいます。
それは
「30歳の時の自分」
鳥取県と福岡を夜行バスで往復して、明治乳業の販売店である「宅配の宗像屋」の創業準備をしていた何も知らない自分。

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結論から言うと私の創業は失敗をしました。

今の私であれば当時のような失敗をしない自信があります。
当時はとにかく何も知りませんでした。

私は人生は積み重ねであり、今成功をしている人も失敗しなかったことが0の方はいないと思っています。私は今でも失敗はしています。しかし同じような失敗は基本的にはしません。失敗から学んだことを経験として積み重ねていっているからです。

希望や情熱だけでは会社経営は成せません。同じように今このタイミングで、
創業を考えていたり、創業したばかりの方もいると思います。
私はそのような方への応援と過去の自分への戒めも含めてこの記事を書くことにしました。

まずは私の根幹である学生時代からお話したいなと思います。

1部 劣等生期(0歳〜高校卒業まで)

家族構成
生まれ:広島県安芸郡熊野町 
父:大阪出身 大工
母:広島出身 訪販

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大工で大阪出身の父と、セールスレディだった母親の元、
筆の町、広島県安芸郡熊野町に生まれました。
有名人には芸人の有吉弘行などがいる、小さな町。
家賃4万円のアパート。
裕福な家庭ではなかったが両親は「一人っ子」だった自分に投資をしてくれました。
無口で堅実な父と、浪費も激しいが自由で勢いのある母親でした。
母親と行動することが多く、母親の価値観をより濃く受け継いでいると自負しています。

幼稚園時代

幼稚園はよくあるキリスト教系のところに通っていました。
(キリスト教に特に意味はなく、恐らく近いからという理由かと)

私は恐らく子ども中では「変わりもの」の部類にいたと思います。
常に直面する場面に対して、違う角度で物事を見て、たくさんのことを感じており、今思うと幼稚園からそれは始まっていました。

幼稚園は楽しかったが、ある日幼稚園に行きたくないと思うようになりました。
私はとにかく人と同じことが嫌。それを貫きすぎるが故に、隣の男の子に毎日泣かされていました。

少し幼稚園でも問題になり、いじめっ子が先生に促されて謝ってきたことを覚えています。

「ごめんなさい」

唐突に謝られたが、一言で許されることじゃないと子どもながら思いました。
やられた方はひどく傷ついています。
しかし「謝ったから良いだろうという」大人たちの空気を読んで、許さざるを得ないことが不満でした。

どこか「世の中は大人が理不尽に決めている」
子ども心ながら嫌な気持ちになったことを今でも覚えています。


小学校時代

になり、学級委員長になりたいと思って立候補しましたがなれませんでした。
クラスの「長」になりたいと思っていました。

そんなある日、ふと気づいた。
「あれ勉強についていけない」「みんなとの外遊びについていけない」

勉強も運動もできない自分を知りました。
ある日、遊びに入れてもらえなかった。理由は自分がチームが入るとそのチームが負けてしまうから。教室で遊んでいると他の子だけ誘われて一人になることもあった。小学校に行くことがとても嫌になっていきました。

勉強も運動もだめという劣等感。できない自分はいじめられる。
しかし学級委員長になれば役職で自分の存在意義ができる。
「長」には劣等感を隠せる魅力がありました。

小学生は良いことがありませんでした。
(暗い話ばかりですみません! 今は明るく生きてますよ!笑)

中学、高校時代

中学生になる時には運動も勉強もできないとわかっていました。
部活に入るのは強制的だったので、当時一番楽で練習時間の短い柔道部に入りました。
気づけば中学生の自分は、「自分より弱いやつをいじめてしまう自分」になっていました。
教科書を隠したり、戦いごっこ的な時に痛いパンチを繰り出したりしていた。
最低だ。そう思いつつもやられるより居心地は良く感じていた。

勉強面ではとにかくずっとテストの点数が悪かった。
一種の多動症なので授業を静かに落ち着いて聞くことが何よりも苦手でした。
(今の新しいものが好きな経営スタイルに好影響を与えていると思う)

中学校に入ってからも学級委員長は続けていました。
中2になり先生から「生徒会長にならないか?」と話があって、生徒会長になりました。
「長」になって、全校生徒の前で話したりするのは好きでした。
緊張はするが、嫌ではありませんでした。

高校生は猛勉強して進学校に受かることができました。
入学することが目的だったので、入学後は授業に集中することができませんでした。
クラブ活動で放送部に入りました。
県下随一の特殊なクラブ。
顧問が映像制作が好きな先生で、学校の予算で高価な機材をたくさん購入していた。
ショートムービーの全国大会で渋谷のNHKホールに行きました。
(今の映像制作に影響を与えています)

テレビゲームやアニメにどはまりして、その為に学校を休むことが何度もありました。
小さい頃から「やってはいけないこと」より、「やりたい」が勝ってしまう自分。

そんなある日、パソコンを買ってもらって、インターネットにハマりました。
当時はウィンドウズ98の出始めであり、世の中では爆発的にインターネットが普及していっていた時期。

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そこで人生で初めてビジネスに出会うことになりました。
自分にできることを見つけ月10万稼ぐ月もありました。かなり没頭し学校には更に行かない日が増えた。

しかしあっという間に高校3年生を迎え、気づけば受験シーズン。もちろん勉強もしていない。
センター試験を受けに行ったが問題が全然分からない。
試験途中で退席して、母が作ってくれた弁当を食べました。

その中に母親から手紙が。

「いつまでも味方だよ」

と書いていて情けない気持ちになりました。もちろん大学は全部落ちた。
俺の人生このままで良いのか?とさすがにこの時ばかりはへこみました。


親の勧めで会計学院という専門学校に行くことに。
(甘えてばかりだった。親には心から感謝しています)


■高校時代までのまとめ


とにかく生きづらかった。

学校という仕組みについていけなかった学生時代でした。
決められた時間に決められた場所に行くことが苦痛。興味の無いものに長時間縛られることがとても苦痛。わがままで尖っていた。必要の感じないもの、興味のないことはしない。勉強することの必要性が分かりませんでした。
学生時代は時間の無駄遣いだったと思っています。授業中もほとんど寝ていたので恐ろしい長さの睡眠時間に変えていました笑

とてももったいなかった時期。
しかし没頭すればすごい才能を光らすこともあったので、仕組みについていけないだけで、すごい才能を持っている子どもはたくさんいるんだろうと思う。
私はその埋もれる才能にこれから貢献をしていきたいと思っています。今活動している、青年会議所(通称JCI)ではそれを体現できる団体だともこの振り返りの中で気づくことができました。


最後までお読みいただきありがとうございました!


専門学校からは次の記事をご覧ください!
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