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長編小説 『蓮 月』 その六

 数日が経った。仕事が立て込んでいたこともあったが、唯のことを考えると暫く無でありたいと願う自分がいることに静一は気がついた。
愛しさが募ると想っていたが・・・夢の世界と現実の世界との虚実が入り交じって・・・ほんとうは無縁の人、いやいや唯ほど素晴らしい人はいない・・・夢の中で抱いて、現実では拒んだ。その両極に情が縮れて、何処へも着地出来ずに日が経った。もう出さなければと、想い余って手紙は短歌参首を詠み送ることにした。書は苦手であったが、墨を摺り、真っ白い和紙に書き上げた。

    唯へ 愛心焦 参首 献上

☆立ち出でて蓮の海辺を歩みたり彷徨よえる日々愛を刻みて

☆溶けゆく雲を掠めて撓みゆく弓張り月は何をや射ると

☆指文字で汝の背中に伝えしは揺らぐ愛を契りて永遠に

 歌のみで後は何も書かずに蓮月さま宛てに速達で出した。

 翌日唯から電話があった。「もう、ちっとも連絡してくれはれんから、痺れ切らして 恥ずかしおますけど唯から電話しました」
「御免なさい、あれから仕事が立て込んでしまい、徹夜しても追いつけないので、ほとほと疲れ切っています」それは嘘だった。仕事は急ぎが多くて、そこそこだったが、先の展望は決して明るいものではなかった。こゝろ此処に非ずで仕事が捗らなかったというのがほんとうだ。
「そうどうすか、そんな折に何ですが家に息抜きに来はりまへんか
 ?・・・ 祇園さんが近づいて来て美味しい鱧を貰いましてなぁ
 ・・・お母はんと二人でも食べきれんから、誰かお人を呼ぼうかってなりましてなぁ。それで静一さんのことを話したら、お母はんがそれやったら来て貰いというふうになりましてなぁ。そんな訳でどうでしゃろぅ 来はりまへんか?」
 畳みかけるような息せき切った言い方だったが、こゝろが和んだ静一は、「お申し出ありがとうございます。出来るだけ早くお伺いしますが、明日になります。お昼・夕方どちらがいいですか?」
「そらぁ、涼しい夕方が良いと思いますけど・・・」
「わかりました。では明日の夕方、北山の駅に着いたら電話入れます。よろしくお願いいたします。お母さんにも宜しくお伝え下さい」
「ほなら、明日お待ちしてます」
静一は唯の言葉を反芻して微笑み喜びが込み上げて来た。
鱧の話はほんとうだろうけど・・・逢いたいという唯の気持ちがほんとうに嬉しかった。 だが、電話での様子ではまだ歌を視ていないみたいに感じていた。

 翌日、日中の気温は三十五度を超えて猛暑となったが、陽が沈み始める頃には、涼しい風も吹きほっとした。この夕なずむこの時刻は誰もが好きな時刻ではないだろうかと感じながら、静一は訪問の合図の小さな魚鼓を叩いた。唯が和やかな微笑みで戸を開けてくれた。
「ようこそ、来てくれはったわ、おおきに」
「いいえ、お招きに預かりありがとうございます」
1週間の沈黙は嘘のように溶解して二人は視つめあい・・・その磁力をそれぞれに感じ入った。和座敷の紫壇の机の中央に母親が居住まいを正して静一を視つめた。日本舞踊のお師匠さんという雰囲気はなく、洒脱な小母さんと見受けた静一だが、この母親が後に、夢の裡で自分を追い込むことになるとはこの時は思いもせずにいた。

「静一さんどすか、初めまして、唯の母親で鹿海初音と申します。
どうぞよろしゅうに」
「上元静一です。百合さんの紹介で・・・」何故か後の言葉が続かず、おもわず唯の方を向いた。唯が助け船で「アート・デザイン関係のプランナーで秋の個展の案内状をお願いしています」
「そうどすか・・・まあまあそれは置いといて、暑気払いには何と言っても鱧が一番、さあさあと」上座の席をすすめられて、そこに落ち着いた。そこでやっと為すべき事がわかって「挨拶遅れました上元静一です」と名刺を渡した。
「はいはい、おおきに、良いお名前ですなぁ・・・失礼ですがお歳は?
 」
「四拾参歳になります」
「ほうほう、すると唯とは丁度一回りですな・・・同じ辰年 う~ん良いときはこの上なく良いが、ひょいと背中合わせになると・・・」
「お母はん、初めてお会いした人に、あれこれ勝手なことを言わんといて」
「あれあれ、はいはい、これは失礼致しました。ごめんなさいね」

 それからは、鱧鍋を囲んで鱧にちなんだ話を初音が得意げにしゃべり続けての独演会となったが二人ともその方が助かった。
話の切りが良い処で、初音は「明日、朝が早いのでこれでお暇します。静一さん、またゆっくりと・・・これにこりんと来ておくれやっしゃ・・・ほな、後は二人でお楽しみやす」と言い残して初音が辞去した。

 二人の間にほっとした空気が流れた。
「御免なさいね、母が色々不躾なことを申しまして・・・」
「いいえ、歯に衣󠄂に着せずでさっぱりとしていて良かったです」
「改めて誕生日が同じとは・・・」「ほんま奇遇ですなぁ」静一は一五夜・お月さん・竹取物語・満月など二人を結びつける何か決定的な言葉を探したが、すぐにそれはどうでもよくなり、同じ誕生月と日に強い磁力が働いているのだ・・・逃れられない不思議な運命が・・・と二人は強く思った。そしてこの時二人は何故か確信した・・・誕生日に必ず結ばれることを・・・其れまでの間二人は想いと沈黙のあわいを揺れ動きながら、少しずつその距離をじりじりと詰めていくのだと・・・。
唯は手早く鍋を片付けて、しばらく、お勝手に引き込んでいたが、お盆に料理を載せて帰って来た。
「これはあるお店で教えて貰ったレシピーをちょっとアレンジして作りました。締めのトマト素麺どす。お召し上がりください。音楽も掛けますわ」三味線のソロであるが韻律はジャズぽくて哀愁の響きがあるものだった。トマト素麺は甘いミニトマトが湯剥きされ、大葉の千切り・茗荷・干し椎茸の煮物と鶉の卵の彩りで絶品だった。
「しかし、創作活動される方は皆さん料理がお上手だ。このトマト素麺も京の味がします。ごちそうさまでした」
そうして、冷えた秋鹿の純米酒をグラスに満たして二人は無言で杯を合わせた。静一は何処かで現実に戻らなければと思い「案内状は、今までの処で発注されたらどうですか?そんなに気を遣われなくても」
「いいえ、折角百合が推薦したizumiさんに、どうしてもお頼みしたいんどす。あきまへんか?」
「いいえ、ありがたくお引き受けさせて頂きます」
前回、前々回の案内状を見せて貰い、一週間後にプレゼンすることとして話は終わった。ふと、庭を視ていると静一は不思議なことに気がついた。この庭はよく視ると山の方向に繋がる道があるのではないかと感じて、そのことを述べると・・・。
「はぁい、そのとおりだす、よう気がつき張りましたなぁ・・・その小道を歩き続けると細い渓流がありましてなぁ・・・小さな朱色の橋を渡りきると・・・」少し間をおいて「明日の朝、一緒に行きましょうか? 夜はちょっと怖いし・・・明日の朝・・・」それは、この間お約束したから、今日は泊まって行きはるでしょうと・・・・・・自然な唯の問いかけだった。その橋を渡れば夢の秘密がはっきりとわかるかも知れないと想った静一には断る理由がなかった。
「でも、ほんとうにいいんですか?」
「ご心配なく、迷惑やおまへんさかいに」
「わかりました、では遠慮無くお言葉に甘えます」
「ノラジョーンズのピアノ弾き語りのCD持って来たので、聴きませんか?」
「是非、是非」と言ってすぐにCDをセットすると『サマータイム』が流れてきた。唯が踊りませんかと言って静かに立ち上がった。それに応じるように静一も立ち上がり、唯の手と肩に手を預け二人は踊り出したがすぐに唯がクスクスと笑い出した。
「何か御人形さんと踊ってるみたい。静一さんは初心というか奥手というか真面目というか・・・ますます好きになりますわ」
「大人をそんなにからかっちゃいけません・・・確かに少し緊張タイプではありますが・・・」だが、それで肩の力が抜けた、自然と優しくなれた。呼吸が合った。それでも二人は抱きしめ合うこともなく、口吻を交わすことなく踊り続けた。唯もまだ、その時ではないよねという感じで、微妙なこの感覚を楽しんでいた。曲が終わると、予め用意されていたのか「そしたら、これ浴衣と歯磨きセットとバスタオルとフェイスタオルです。二階のゲストルームでシャワー浴びられますさかい・・・明日の朝に備えて早う休みましょうか」「はい、そうしましょう」
ゲストルームまで案内し唯は「明日五時に起きてくれえはったら丁度良い感じと思います。ではお休みなさい」
「では、明日の朝。お休みなさい」静一はシャワーを浴び着替えてベッドに横たわると・・・明日の朝、橋を渡るとその先に何があるのかが明らかになると想うと、すぐには寝付けなかったが・・・この一週間の疲れが溜まっていたのかウトウトしだすと一気に深い眠りに落ちた。    
                         その七に続く


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