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魯迅『故郷』教材雑感①

なんで今、教室で『故郷』を読むの?

 正直、20世紀前半に中国で書かれたこの物語が、現代の国語の教科書に掲載され続けている意義がよくわからなかった。学校図書の教科書のねらいには「他者と共有し得る未来への願いを考える」とあるが、このねらいを達成するフィクションは他にもあるのではないか?と考えていた。
 1920年代の中国という非常に特殊な時代状況の中で、魯迅という多様な背景を持つ作家によって書かれたこの物語を、現代の生徒にどう繋げるべきなのか。国語の教材を「べき」論で語っていいかはわからないが、とにかく接続の方法に苦慮した。

 でも、読み込んでいくと、『故郷』が孕んでいる特殊性と普遍性というのは均衡が取れるものなのかもしれないと思うようになってきた。もちろん、当時の時代背景を調べる取り組みはするが、時代背景の知識に大きく依存しなくても、この物語の「本質」めいたものにたどり着けるのではないか。ちょっとそんなことをつらつら書いてみたい。なお、引用する日本語訳は竹内好のものによる。

 「私」は理想と現実の間を彷徨する存在なのだ。

理想を語る「私」、現実を見る「私」

 「私」は冒頭から現実の風景に「寂寥の感」を覚える。「私」の記憶の中に広がっていた「美しさ」を持つ「故郷」は消え失せ、「わびしい村々が、いささかの活気もなく、あちこちと横たわっていた」だけだった。この時点で、早くも「私」は理想としての「故郷」と現実としての「故郷」の乖離に悩まされる。

 その直後、寂寥感を払拭するように、「私」は閏土と過ごした「三十年近い昔」の風景に没入する。その中の閏土は「艶のいい丸顔で、小さな毛織の帽子をかぶり、きらきら光る銀の首輪をはめていた」。生命力と活力に溢れている理想の少年として「私」の記憶(幻想)の中に現れる。
 この回想はただの回想ではない。先ほども述べた通り、あまりにもわびしい故郷の風景から来る寂寥感を忘れるためのものに思える。現実から逃れるために回想に自分の身を投じている。

 その後の楊おばさんとの会話も「私」の理想への求心力を高めていくきっかけになる。「豆腐屋小町」と呼ばれいた楊おばさんとの交流によって、時間が孕む残酷さや、楊おばさんとの階級の違いという現実に否応無く直面させられる。「そんなわけじゃないよ」、「僕は金持ちじゃないよ」と、「私」(楊おばさんに対するセリフの中では「僕」という訳語が使われている)は言葉によって目の前にいる現実(楊おばさんの言葉)を否定しようとするも、おばさんに全て反論され、ついには「返事のしようがない」と、現実を受け入れざるを得ない状況までに追い詰められる。
 寂寥感から逃げるために理想に没頭した「私」だったが、また現実の光景に引き戻される。そして、現実を目の当たりにすればするほど理想(閏土との過去)を希求する。その結果が、閏土が家を訪ねてきたとき「思わずあっと声がでかかった」という反応である。叫び出しそうになるくらいに「私」は閏土を望んでいた。

 しかし、そこにもまた「現実」が立ち尽くしていた。
 目の前にいる閏土の様子を「昔の艶のいい丸顔は、今では黄ばんだ色に変わり、しかも深いしわが畳まれていた」と、理想の中の閏土とわざわざ対比するような形で語っている。ただ、容貌の変化は重要ではない。対比のあとにも「私は感激で胸がいっぱいになり」というように、「私」は閏土との再会を喜んでいる=理想に固執している。
 その理想を打ち砕いたのは閏土の「旦那様!」という言葉だった。その言葉によって、楊おばさんとの会話以上に「悲しむべき厚い壁が二人の間を隔てて」いることを実感する。
 ここで言われる「悲しむべき厚い壁」が何かということは一言で定義するのは難しい。単純に「身分」と説明してもよいのだが、だとするならばはっきりとそう語ってもいいものだ。しかし、ここではあえて比喩によって「私」と閏土の隔絶を表現している。

 そこからは、現実を実感する場面が続く。閏土は子どもである水生(シュイション)に叩頭することを促す。竹内の訳では「お辞儀」となっているが、ここでは単に会釈をすることではなく、跪き、額を床に当てる「叩頭」である(藤井省三の解説より)。
 そして閏土の口から直接現在の窮状が語られ、さらには母が客人である閏土に「自分で台所へ行って、飯をいためて食べるように勧め」る。閏土は客であっても、「私」や「私」の母とは身分が違う。歓待される者ではあり得ず、どこまでいっても「仕える者」である。
 極め付けは、閏土が料理している間に母と閏土が当時の中国で置かれている状況を語り合う。いかに多くのものから閏土は苦しめられているか。ここには、ありし日の閏土はもういないのである。

「私」は理想としての「故郷」も、理想としての「閏土」も喪失した。何も残されていないと考えていた「私」に、新しい理想を与えたのが甥である宏児(ホンル)の言葉だった。家に帰りたいという宏児に理由を訪ねたところ「だって、水生が僕に、家へ遊びに来いって」と無邪気に述べる。この言葉に「私」と母が「はっと胸をつかれた」。「私」は宏児と水生の間にありし日の「私」と閏土の純粋な友情を投影したことであろう。
 その感動もつかの間、母の口からは閏土の窃盗まがいの行為や、楊おばさんに閏土の行為を明らかにした報酬を求められたエピソードが語られ、また現実に引き戻される。そうして現実に侵された「私」の心情は「名残惜しい気はしない」というものだった。
 そして、その現実をまたもや振り払うかごとく、宏児と水生という「若い世代」への希望を語り始める。

希望を言えば、彼らは新しい生活を持たなくてはならない。私たちの経験しなかった新しい生活を。

 ここで終われば、これまで抱いていた理想は失ったものの、その代替として、若い世代に理想を託すという道を見出した、という非常に前向きな終結を迎えることができた。
 しかし、この理想としての「希望」も「私」は否定しなければならなくなる
 香炉や燭台という仏具に固執する閏土を「相変わらずの偶像崇拝だな」と軽蔑しながら、自分が抱いている「希望」も、「手製の偶像」、つまり実態のない信仰の対象に過ぎないという認識に至る。再度理想の中に自己を浸そうとしても、その自己は現実の光景によって理想からまたもや引っ張り上げられる。

 最後の段では、「思うに希望とは、もともとあるものとも言えぬし、ないものとも言えない」が、「歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」という境地にたどり着く。この一節からは様々な心情が読み取れることができる。諦念、渇望、決意…。
 理想にも現実にも身を投じることができない「私」は半ば宙ぶらりの存在として自己を規定し、語りは閉じられる。

「語ること」が孕む葛藤

 以上のように「私」は、ただ旧友との友情を喪失するという体験ではなく、様々な理想に没入しようとしても、その度に現実によって引き戻されるという苦痛を経験している。
 理想に近づこうと思えば思うほど、その理想は反比例的に遠ざかっていくという逆説の中に「私」はいるのである。まるで、亀に追いつくことができないアキレスのように、「私」は理想に追いつくことはできない。
 
これは「語ること」の苦しみに他ならない。自分の抱いている理想を精密に語れば語るほど、今おかれている現実がありありと見えてくる。これは20世紀の中国に生きた「私」だけではなく、どの時代の人間でも味わう語りの苦痛だ。自己推薦文や志望理由書を書く受験生も、この苦しみを味わっているのかもしれない。

 私が思い至るのは『枕草子』における清少納言である。
 彼女は没落していく定子との思い出を美しいものとして保存するために『枕草子』を執筆した。そこには悲しみは描かれない。しかし、定子との輝かしい生活を緻密に描けば描くほど、現実を目の当たりにしたはずだ。清少納言は、あの随筆を心から楽しみながら書いたのだろうか。それとも、苦しみながら書いたのだろうか。想像の域を出ないが、彼女の心中を察すると胸が痛む。

『こころ』や『舞姫』や『少年の日の思い出』など、教科書に掲載される名作も優れた語りの形式を取っているが、いずれも語る者のスタンスが語る前から決定している。いずれも、罪を背負った(背負わされた)自己をひたすらに語っている。語られている過去の自己は確かに様々な苦しみ、葛藤を抱いているが、語っている現在の自己には葛藤は少ない。罪を負った自己を語ることに徹している。理想と現実を彷徨しながら語る『故郷』の「私」の立場とは異なる。どちらかと言えば小林秀雄の『無常といふ事』が孕む飛躍に近いかもしれない。

 このように、語ることで生じる葛藤、苦痛を見るには『故郷』は絶好の教材であり、これは他の教材にはない特徴である。時代背景を詳しく調べなくとも、テクストの論理を辿っていけば「私」の葛藤に触れることができる。
 自分を語るという経験が浅い中学生にとって、「私」の「語る苦しみ」がどこまで近しいものと感じられるかはわからない。しかし、人は人である限り、いつか自分を語るときは来る。そのときのためにも、自己を語ること、理想を語ることは、自家撞着に陥り、現実の自己や現状と乖離していく可能性を孕んでいるということを学ぶことは有意義に違いない。。

長くなったな〜。

本当は、時代背景と『故郷』の関係とか、藤井省三との翻訳の比較もするつもりだったんだけど、もう字数が半端ないからやめます。続きは②で!(本当に書くのか?)

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