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ごっこ遊びと文学 ~そこにないものを立ち上がらせる

 さっき、子どもたちと風呂に入ってるときに改めて思ったのですが、子どもたちの生活の中で、最も活発に言語を弄する瞬間って「ごっこ遊び」の中なんですよね。

「ごっこ遊び」と「自分の言葉」

 ごっこ遊びをするには大きく二つ条件があります。
①自分の異なるアイデンティティを演じる
②言葉によってそこにないものを出現させる
①はおままごともそうですが、簡単に言えば「自分ではないものを演じる」ということです。戦隊ヒーローでもいいですし、プリキュアでもいいですし、うちの子どもたちはこの記事の写真にもなっているカービィでしたが、とにかく自分ではないものになりきることが一つ条件。

 そしてもう一つは「言葉によってそこにあるはずのないものを出現させる」という条件です。この条件が、活発な、そして豊かな言語活動を促進させています。
 最たるものが「セリフ」です。おままごとで言えば、普段は自分が使っていない言葉遣いを使用することで、自分ではないアイデンティティを出現させる。人形を使ったごっこ遊びだと、本来は喋らないはずの人形のセリフを言葉で出現させる、ということになります。
 うちの子どもたちは前述の通り、さっきガチャポンであたったカービィの人形を使ってごっこ遊びをひたすら繰り広げていたのですが、写真の右のカービィに関しては、スリープのコピー能力を使っているので、ずっと寝ているんですよね。このスリープカービィが、起きて何かをしゃべっているということ自体、起こり得ないことなんですよね。その起こり得ないことを、子どもたちは言葉を使うことで可能にしている。

 そして、ごっこ遊びで使用する言葉って、やっぱり日常言語とは少し違っている。口調だったり、声色だったり、普段自分が使っているものとは差異をつけて使用しています。それだけではなく、語彙すらも微妙に異なります。親と、クラスメイトと会話で使うものとは違う言葉を引っ張り出さなければならない。それだけ語彙を駆使しないと、その場にないものを表現することは困難なのでしょう。子どもたちは生活の中で見かけたり収集した語彙を総動員して、喋らない人形に喋らせ、存在しない武器を使い、ありもしない人間(人形)関係を顕現させる

 じゃあ、そこで使われる言葉って、子どもたち自身の言葉じゃないかっていうと、決してそんなことはない。むしろ「自分ではないものを演じる中で、自分の言葉が引きずり出されてくる」とも言えます。より複雑で、より論理的で、より表現豊かな言語群は、他の誰かを演じるからこそ生まれてくる。そして、その多様な言語群は、他者を演じる中だけではなく、今度は日常生活にも影響を与える。演技と日常は、もちろん異なるものですが、断絶はされていない。演じる中で自分の喉を通して、声として紡ぎ出された言葉は、そのまま日常言語としても定着していく。こうして、ごっこ遊びの中で繰り広げられる言語活動は、子どもたちの日常生活の言語活動(他者とのコミュニケーション)の豊かさにも繋がってくるのです。

 これはロールプレイングとして教育現場でも多くの蓄積がある分野です。でも、あらためて子どもたちの遊びの中に豊かな言語活動があり、子どもたちが使用する言葉をより多様化させる鍵がある、と実感しました。

「ごっこ遊び」と古典文学

 これも言わずもがなですが、言語による「ごっこ遊び」を突き詰めていったところに「文学」があります。ここでいう「文学」は文字媒体によるものだけではなく、「言葉によってそこにないものを立ち上がらせたもの」の総体を指します。つまり、ごっこ遊びの条件②を突き詰めたものということです。

 このごっこ遊びとしての文学の究極が紀貫之『土佐日記』にあります。つまり、「男が女を演じる」というごっこ遊びです。
 しかし、このごっこ遊びはただのごっこ遊びではない。先ほど書いたように、貫之は、ごっこ遊びをしたからこそ、女を演じたからこそ、娘との別れの深い悲しみを描くことができたのです。そこにないものを演じ、自分ではない言葉を紡いだことで、自分の悲しみを克明に描きだすことができたのです。まさしく、自分の言葉ではないからこそ、自分の言葉を紡ぐことができる、という逆説がここにあります。

 古典文学はこの「ごっこ遊び」の要素を多く含んでいます。『源氏物語』もその究極の一つです。。一人の女房に過ぎない紫式部が、物語文学というごっこ遊びを通じることで、天皇を、中宮を、因果応報に捉えられる悲劇の主人公を、男によって翻弄されるあまたの女性を演じることができ、そしてその立場ごとに優れた和歌を描くことができる。『源氏』というごっこ遊びがなければ、紫式部は中宮が詠んだ和歌を詠むことはできません。

『枕草子』もそうですね。清少納言は定子を「ごっこ遊び」の中で演じる。しかし、定子を演じることで、もう永遠に喪われてしまった定子という女性を、そこにはもうなくなってしまった敬愛すべき一人の女性を立ち上がらせるのです。『枕草子』は随筆ですが、その中にある書き手の演技性は看過できないものだと思います。

 自分の経験を基にして書かれている日記文学にも、この「ごっこ遊び」の要素は認められます。『和泉式部日記』は「女」という、書き手ではない第三者を演じているし、『蜻蛉日記』では、道綱母が兼家の言葉を自分で紡いでいます。日記文学でも、他者を演じることで、もう喪われてしまった在りし日の記憶を立ち上がらせているのです。

「文学はごっこ遊びではない」というスローガンをかかげたのが、近代文学の最大の特徴です。ここに描かれているのは、ほかならぬ「私」という実存である、ということを標榜することで、近代文学は発展(?)していきます。しかし、近代文学もやはり「ごっこ遊び」のバリエーションの一つでしかないのではないでしょうか。その辺りはまた別の記事で論じたいと思います。

 こう考えれば、子どもたちが夏休みの間、家の中でぎゃーぎゃー騒ぎながらごっこ遊びをしていても、「これは大切な言語活動の一つなんだ…!」と思いながら、混ざれるかもしれませんね。夏休みの子どもたちに幸あれ!

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