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働きたくない人間が、「働く」について学んでみた

私は基本的には働きたくない人間だ。
一生いきていけるだけのお金が手に入ったら、今している仕事は即やめてしまうと思う。
最近は、あまりにも働きたくなさすぎて、そもそも「働く」っていったいなんだったっけ、と思いを巡らすことも増えてきた。

そこで、「働く」ということについて、どう捉えるべきなのか知りたいと思い、本を読んでみた。

結果的に、「働く」とはなんなのかいまいちよくわからないままだけれど、学びは確かにあったので、ここにとりまとめておきたい。


「働く」は単純にポジティブorネガティブに捉えられるものではない

まずはじめに、タイトルで興味を持って手に取ったのが、こちらの本。

鷲田清一著『だれのための仕事 -労働vs余暇を超えて-』

タイトルにもある通り、「労働」と「余暇」を対比させる考え方に疑問を呈している。

仕事と遊びは、内容的に区別されるものではなく、時間的にたがいに分離されるものでもない。同じことをやっていても、労働にもなれば愉しみにもなる。

鷲田清一著『だれのための仕事 -労働vs余暇を超えて-』

当たり前のように、自分の過ごす時間を「労働」と「余暇」の2つに区分して、「労働」=仕方なく過ごす時間、「余暇」=好きに過ごせる時間、と思っていた私にとっては、目から鱗が落ちる考え方だった。

ただしこの本は、現代において「仕事」に「遊び」の要素が必ず含まれていると説くものではない。著者は、近代以降の労働は、「遊び」を欠いているのではないか、という主張もしている。

〈遊び〉という間を欠いた仕事(work)が、労働(labor)、つまり「労苦」としての近代的労働なのではないか。

鷲田清一著『だれのための仕事 -労働vs余暇を超えて-』

またこの本の中では、現代においては、仕事に意味を見出すことが難しくなっていること、仕事をしているひとの顔が見えにくくなっていることなど、いくつか問題点も指摘されているが、ここでは割愛する。


「働く」は色んな人が色んな捉え方をしている概念である

次に、もっと複数の人々が「働く」についてどう考えているかを知りたいと思い、手に取ったのがこちらの本。

中山哲著『労働の思想史:労働者は働くことをどう考えてきたのか』

この本では、たくさんの哲学者が登場し、それぞれの哲学者が「働く」をどう理解していたか、もしくは積極的に定義していたか、おおむね時代の流れに沿って整理されている。

読んでわかったのは、とにかくほんっとうに色んな考え方があるんだな、ということ。
単純には語れない考えが多く、ここで全て紹介することはできないが(それをするぐらいなら実際に本を読んでいただいた方がよっぽどよい)、私が特になるほどなあと思った考えを簡単に列挙する。

  • 古代ギリシア語では、「労働」=「厳しいこと、苦しむこと」であり、「仕事」=「何かを遂行すること、作り上げること」であると区別されていた。

  • ハンナ・アレントは上記の「労働」「仕事」のほかに「活動」という区分を提唱した(「活動」=「公的な場において自分の思想と行動の独自性を発揮しようとするもの」)。

  • ユダヤ・キリスト教においては本来、「労働とは神の力によって人間に課せられた〈罰〉」である。

  • 宗教改革ののちのヨーロッパでは、労働は道徳化され、「働くことがそれだけで善であると全ての市民に信じさせること」が試みられた。

  • デイヴィッド・ヒュームは、そもそもさまざまな生物のうちで人間だけが労働する必要があるのは、「人間だけが欲望の大きさや種類と、身体にそなわる能力が不釣り合いで不自然」だからだと考えた。

  • イマヌエル・カントは、人間が「尊厳ある存在として生きるためには、労働という辛い活動のうちでみずからを規律と訓練によって鍛えながら、みずからの自然の素質を最大限に発揮すべき」と考えた。

  • マルクスとエンゲルスは、「自分の手で何かを作り出す労働は、もともとは喜びを伴うものだった」が、「資本主義的な生産様式における機械化と分業が、その喜びを奪った」と考えた。

  • ロバート・オーウェンは、「肉体労働は~中略~健康で愉快な楽しい職業に変わるだろうし、他方で、各個人は、知的発展と社会的享受のための十分な閑暇をえるであろう」と労働を構想した。

  • ポール・ラファルグは、「労働を賛美するのは、労働の成果を享受する人々、すなわちブルジョワジーと商人たちであって、自分の身体を使って苦しく辛い労働を強いられるプロレタリアートは、ブルジョワジーの労働賛歌にごまかされてはならない」と訴えた。

  • ジークムント・フロイトは、労働について「人間の欲望の充足を断念するためにやむをえず採用する迂回的な手段」だと考えた。

ここに書いただけでも、「働く」の捉え方はかなり幅広いものであるとご理解いただけると思う(しかもこれは一部の抜粋であって、本にはもっとたくさんの哲学者とその考え方が取り上げられていた)。


「働く」は「働く」以外のこととあまりにも関係しすぎている

『労働の思想史』を読んでいてもう一つ感じたのは、「働く」という概念の意味や意義を定義しようとした際、かならず社会や宗教、経済といった領域の他の動きが関係してきてしまうということだ。

どんな社会の中で、どんな宗教が主として信仰されているコミュニティの中で、どんな経済形態の中で、といった要素は、「働く」を考えるにあたって絶対に無視できない。

つまり、現代に生きる私が、現代社会の中で自分自身が「働く」ことと向き合うときには、かならず現代の社会その他諸々の要素を前提とする必要がある。
それはすなわち、私は過去の哲学者や思想家が提唱してきたすべての考え方から、自由に自分のスタンスを選び取ることができないことを意味する。

あくまでも、「現代社会の中で」、国内にとどまるなら「この日本という国の中で」という前提を置いて「働く」と向き合っていくしかない。

もちろん過去の知の蓄積から必ずヒントはもらえるものと思っている。
けれど、時代は進んでいくものだから、過去の知の蓄積のどこかに答えがある、もしくはどこかから答えを選び取ればよい、というわけではなく、やはり自分自身が考え続ける必要があるのだと理解した。

ちなみに、『労働の思想史』の中にも、現代における労働について言及している章があり、「シャドウワーク」「感情労働」「依存労働」「承認労働」「市民労働」など、気になるキーワードについてそれぞれ述べられているが、これもここでは割愛する。


「働く」についてこれからも考え続ける

これからも、自分の頭で考え続ける必要があることが分かったところで、そうであれば、もう少し色んな過去の知からヒントをもらいたくなった。

そこで追加で手に取ったのがこちらの本。

市野川容孝・渋谷望編著『労働と思想』

一部、『労働の思想史』と重複する部分もあるかもしれないが、これから読んで知識を深めていく。



以上。
もし、他におすすめの本がある方がいらっしゃれば、ぜひコメント欄で教えてください。








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