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読書日記 | 4/29〜5/5

4/29(月)
9時にアラームで起床した。「岸政彦の20分休み」を聴きながら支度をする。
数駅離れた駅中のStarbucksで作業をはじめた。読書日記を書く。今日はなんだか書き心地がいい。体調が良く、気分が落ち着いているときは、文字も綺麗にかけるように思う。
日記を書き終え、noteへも文章をいくらか書き込んだ。少し前に考えていたことを思い出して文章に書いたり、読書日記をnoteへ編集する行為は、自分の中のカオスを構造化できるみたいで、すっきりとした気分になる。13時少し前まで作業をして移動する。

「Sakamoto Ryuichi Opus」を観るために新宿へ向かう。移動中の電車で「デザイン学 思索のコンステレーション」を読んだ。

aからzまで、アルファベット二十六文字の——それぞれの音韻を頭音とする——私の主なデザイン・ボキャブラリーの語群の星座から一語ずつ選んで、それらのことばや概念との出会いやそれらの意味の世界を語っていくことで、私のデザイン学思索の風景が描ければと希って、その表題としたものです。しかし本書では「アルファベット」を省略し、「デザイン学」を直截に「思索のコンステレーション」へとつなげて表題としました。

デザイン学 思索のコンステレーション』(P3、向井周太郎著、武蔵野美術大学出版局)

私はまず「あ」の発声をもって、デザインという行為の学の呼吸を開いていきたいと思います。
 その発話はアブダクション(abduction)です。生成の根原へ、あるいは制作の地層へ、ポイエーシスの源泉へといった思考の源への遡行を表わす語として、デザイン学の発声にふさわしいと思います。このアブダクションという概念は、思考過程ないし推論の方法の一つとして一般的に仮説形成とか仮説的推論と訳されているからです。(…)推論の方法について、伝統的な論理学における「演繹」や「帰納」という推論の二分法に対して、パースはアブダクションという過程を加え、これを第一に位置づけて三分法としました。アブダクションは発見の論理とも創造の論理とも呼ばれています。

『デザイン学 思索のコンステレーション』(P20〜21、向井周太郎著、武蔵野美術大学出版局)

この後にすぐにパースの記号論、ソシュールの記号論話と話が続く。記号論の話から武蔵野美術大学にある基礎デザイン学科の学科名にもなっている「基礎デザイン」について、その関係性の説明が続く。

基礎デザイン学科では、記号論のような学問をなぜ重要視したのかということにも少しふれておきましょう。それは職能的に細分化したデザインの在り方やデザイン教育の変革をめざして、デザインを横断的な知の観点から新たに建て直そうと考えた「基礎デザイン学」というその教育構想と深く関係しています。この「基礎」という概念で志向する領域横断性のためには、芸術・デザインと科学の間、デザイン諸領域の間、実践的行為と理論的思考との間、それらの間を自在に交通可能な方法論としての統合的な「言語」が必要であると考えました。(…)これは「基礎デザイン学」の「領域の否定」という構想の根底を支える、実は生命的な知の源泉だといえます。

『デザイン学 思索のコンステレーション』(P22〜23、向井周太郎著、武蔵野美術大学出版局)

初めて新宿シネマズプレミアム109へ来たけど、音響も、ポップコーンの味も 素晴らしい。友人と映画を観るなら次からここにしたいと思う。
肝心の映画もとてもよかった。途中、Bibono Aozoraを演奏しているときに何度も躓いて弾き直す。躓いている部分も編集されず、そのまま上映されている。坂本さん亡くなってからも映像や音楽、本など、いくらか出している。だから亡くなった実感がなかった。
映画を観ていると確かにもういないということが、分かっていく感覚があった、僕はそれをなんとか受け入れることしかなかった。

映画館を出てから、新大久保まで散歩をした。新宿や新大久保は、人が若々しく、生々としていて、それぞれが剥き出しのセックスアピールを振り撒いているように見える。なんだかこういう場所に居るとただひたすらにさびしく感じる。

新大久保から朝に寄った北千住のStarbucksへ向かう。移動中に「デザイン学 思索のコンステレーション」を読んだ。
スタバで2時間くらいnoteの執筆を進めた。(執筆というほど大したものでもないけれど)何だか今は日常のすべてがぼんやりしているような気がしてい 自分が何を考えているかも、何の本を読みたいのかもわからない。



4/30(火)
日が落ち始める頃に布団から身体を起こし、お風呂を沸かす。湯船に浸かりながら「センスの哲学」を読んだ。 外に出る頃には、辺りはすっかり暗くなり、空気が澄んと落ちていて、少し肌寒かった。
二駅離れたスターバックスで作業をはじめ、日記を書き、noteの執筆を少しばかり行った。ようやく1日が始まる気がした。

自宅に帰るときの電車で「デザイン学 思索のコンステレーション」を読んだ。

今日、デザイン方法論として、より視覚的、空間的な喚起力をもった新たな図的デザイン言語の拡張が求められていますが、それは、このアブダクションの力の発動とつながっています。ダイヤグラムをはじめさまざまなノーテーション(記譜化)やメンタル・マップ、イメージ・マップ、概念、記憶、行為、運動、時間、リズム、音、聴覚、触覚、嗅覚などの地図化の試みへの関心。これはデザインの課題が生成と変化のプロセスの設計へと転換してきたからですが、現代デザインにおけるプレ・デザインの重要性、アブダクションの重要性をものがたっています。(…)創造活動にとって、これまで述べてきましたような意味で行為が直観であり、直観が行為であるような活動が第一の前提であり根原的であると思います。ですから、直接的に対象や世界を見ながら、あるいは触りながら考えるという全身体的な諸感覚の統合による制作行為(ポイエーシス)がもっとも根本的で大切であるといえます。
 しかし、一方、誤解のないようにひと言つけ加えておきたいと思いますが、ここで、アブダクションという仮説形成のプロセスと直観の重要性を強調したからといって、ロゴス的、論理的な思考を否定しているわけではありません。パースの記号論自体、パースの鋭い感性と強靭なロゴス的思考とによって構築されています。どちらかというと、概念的な思考になじまない日本人の思考構築力の性向や現代日本における画像文化の氾濫に流されている状況とを思い合わせますと、ここでは、同時に、ロゴス的、論理的な思考の構築力の重要性も強調しておく必要があるかもしれません。

『デザイン学 思索のコンステレーション』(P42〜43、向井周太郎著、武蔵野美術大学出版局)

一言でまとめてしまうこと自体がここで向井さんがおしゃっていることを否定することになりかねないので、それは避けたい。ただやはりバランスはとても大切で。ポスト構造主義の表面的な解釈として、「ツリー < リゾーム」的な解釈があるように思う。もちろん構造(=ツリー)を破壊して、千葉雅也がいう、”無意味的切断”も蔑ろにしないで、よりリゾーム(カオス)的に物事を捉えることは現実を直視するという意味では大切に思う。ただロゴス(ツリー)的な解釈もやはり蔑ろにしてはいけない。ここで向井さんがいうように、むしろ「全身体的な諸感覚の統合による制作行為(ポイエーシス)」やリゾーム的、カオス的思考の根源を司どると、言語的表現をされているわけであるから、支えているのはロゴス的、論理的な思考の構築力が源、土台となっているように思う。

日記を書くようになり、5年ほど経つ。今さらになって、1日のどこかで日記を書くだけで夜気持ちよく眠れることがわかった気がする。喉のすぐ下くらいに痞えているものがすっと消えてく気がした。


5/1(水)
昨日から日記の書き方を少しばかり変えた。
fuzkueの店主である阿久津陸さんの読書日記を眺めていると短いのに面白い。それに対して僕の日記は時系列を追って、書きすぎている気がした。もっと言えば、ただ淡々と記述があり、書いている人(僕)がどう思っているのか、何を考えているのか、自分で読み返してみてもあまり面白くなかった。自分の文章を読み返したくなる、自分のツボにハマる文章にはいつも、どうでもいい心情が多く書いてあった。
無意識のうちにただ心に残ったことを記したいと思う。時間という時間という秩序に沿って記すより、無秩序に心にあることを記す方が今の僕には魅力的に見える。なんだか少しだけ肩の力が抜けた気がする。気づかないうちに力んでいたのかもしれない。


5/2(木)
8時には自宅を出て、新宿御苑に向かう。
移動中の電車の中で「デザイン学 思索のコンステレーション」を読んだ。

開園時間の9時ちょうどくらいに千駄ヶ谷門前に着いた。約2年ぶりくらいに きた。天気が良く、一面緑色の芝が見渡せるのは気持ちがいい。園内を歩いていると緑の勾いが感じられ、後ろを振り向くとドコモタワーが見える。園内にあるStarbucksへ行き、作業を進める。日記を書いて、noteへ約1ヵ月前の読書日記を書いていく。文章を青きながら「水中の哲学者たち」を少しばかり読み返していた。

GWは、最近ずっと胸の中にあった考え事、モヤモヤを見えるようにしたい、言葉にしたいと思っているけれど、その足掛かりすら掴めていない。ただずっと胸に引っかかる感覚だけが残って反響している。
気づくと店内は人で溢れかえっていた。どこかの学校の先生と生徒がたくさん来ており、店内の7割くらいを埋め尽くしていた。彼ら(彼女ら)は、何か作文のような課題を進めており、写真を撮りあったりしていた。
作業を終えて、園内を1時間くらい歩いた。新海誠監督の映画「言の葉の庭」の舞台である。東屋へ寄ると外国人が集まって、「Wow」と声に出して言っていて、日本人の友人に熱くなにかを語っているようだった。少し時間がすぎると若い女性2人が東屋に腰掛け、楽しげに話をしていた。ここへ寄る人が皆、作品を知るわけではないけど、皆知っているような気がして、嬉しくなる。なにかをきっかけに拠り所ができるということは、それを目撃するだけで嬉しい気持ちになる。

僕は時々、逃げたくなる。すべて投げ出して、ふと、飛び出したくなる。
そういうときは決まって、暗がりに足が嵌っている感覚がある。脱出しようと試みるとき、光がある方へ向かってみるけれど、ビル同士が反響しあっているギラギラした輝きは、目にするだけで余計に疲れてしまい、そのままコンクリートに沈んでしまいたくなる。自然の緑や、海の青さを通して目にと飛び込んでくる光は、どこか力が抜けていて、気づくと背筋をピンとしている。だから時々、こうして、緑や青のある木々や海に触れたくなる。そういう行為が無理して生きないためのチューニングに必要なのだと思う。また来たい。靴のつま先にほんの少しついた土を眺めながら思う。
夕方になる頃に、千駄ヶ谷駅から空いている総武線に乗り、乗り換えを一度して自宅へ向かった。

帰りの電車で「デザイン学 思索のコンステレーション」を読んだ。

バウハウスの基礎教育課程というのはそうした生成の根源的な媒介者と類比可能な、つねに越境性を孕んだ多義の生成装置であり、それ自体が絶えず世界を更新していく役割、絶えず日常性を非日常性に媒介しながらまた再生を果たすという生成的な役割を担っていたのだといえます。それが、あるいは専門性を解体して、非専門性へと溶解し新たな専門性を誕生させる、あるいは日常性の秩序を無秩序へ、混沌へと遡行させ、新たな秩序を回生させる、という媒介者としても類比可能であることは言うまでもありません。

『デザイン学 思索のコンステレーション』(P62〜63、向井周太郎著、武蔵野美術大学出版局)

自宅に着いて、すぐに食事とお風呂をすませ、19時すぎにはパジャマになり、布団に腰を下ろしていた。今日撮影した写真を眺めてぼんやり過ごす。
日付が変わる前に眠りについた。


5/3(金)
目を覚ますと、身体が熱く、倦怠感がある。
どうやら体調が悪いようなので自宅で過ごす。
何度寝ただろう。毛布と掛け布団をかぶり必死に眠った。


5/4(土)
無事体調は回復した。ただ昨日眠りすぎてなのか、身体が重い。
本を読みたい気分になれず、文章を書きたくないと思うとき、絶望の深い溝に嵌ってしまう感覚に襲われる。

今僕は、自動車を持っていない。車を所持していたとき、目的もなくただ車を走らせるときがあった。主体的に動かせる乗り物があることは、身軽さを意味する。電車や飛行機では得られない。制限があるから遠くへ行けるけれど、制限があるから気軽さはそこにはない気がして、足踏みするきっかけになりうる。ああ、僕はどこに行きたいんだっけ。


5/5(日)
7:00のアラームを起床し、下度をはじめる。
銀座CIRCLESのStarbucksへ向かう。移動中の電車で「デザイン学 思索のコンステレーション」を読んだ。

カオス(混沌)からコスモスへ、無秩序から秩序へという宇宙進化の生成プロセスと対応した自然哲学的な生成観があります。そして、パースはその進化的な生成を逆行して、秩序から無秩序へ、コスモスからカオスへと遡行するプロセスをディジェネレイションと呼んでいるのです。
 この語は、「世代」の意味と同時に「生成」や「発生」を意味するジェネレイション(generation)という語の頭に「悪化、低下」や「否定、逆転」の意味へと転化する「de」という接頭辞が付いているのです。ですから、ディジェネレイションという語の一般的な意味は「堕落、退廃、退歩」などと、決してポジティヴとはいえず、きわめてネガティヴなのです。(…)六十七ページの「d」の語群のなかには、ジャック・デリダの思考とその実践を特徴づける脱構築(déconstruction)という概念も見えます。これは、ハイデッガーの「解体(Destruktion)」 に対応するフランス語として使用された語で、この訳語の「脱構築」は一九八○年代の日本の思想界などで流行語のようにもなりました。しかし、重要なことは、「de」という概念装置による根原への遡行的生成の思考の実践的行為であることです。「de」と「sign」の結合で成立すると見ることも可能な「design」という概念も、こうした観点から脱構築してその再定義ができるのですが、 ここでは、その問題に立ち入らず、テーマとしてのみ提示しておきたいと思います。

『デザイン学 思索のコンステレーション』(P69〜70、向井周太郎著、武蔵野美術大学出版局)

最近考えでいたことの輪郭がぼんやりと朧げに見えてきた気がする。あらゆる事物、思考体系などの生成プロセスと破壊プロセスについてよく知りたいと思っていた。その足掛かりになるものとして、ドゥルーズ=ガタリのリゾームであったり、デリダの脱構築について知ろうとしていたように思う。
正午すぎまでnoteへ読書日記を書いた。

今日は午後14時〜と夜の18時〜、夜更かしの読み明かしのイベントに参加する。イベントは渋谷のLOFT9 shibuyaで行われる。そういうわけでこれから渋谷へ向かう。移動の電車で「デザイン学 思索のコンステレーション」を読んだ。

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イベントでは、ゲスト(昼の部:まるまる青木理、夜の部:チキ荻上チキ)の選書した本のシークレット読書会と哲学対話を行った。

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イベントを経て、自分でも読者会を行いたい、また参加したいと思った。感じたことも、参加しているときに考えていたことも多くあるはずなのに、なんだか今日はうまく言葉にできない。疲れてしまったからだろうか。自宅に着いてからはすぐに布団の寝転がり、気づくと眠っていた。

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