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発達障害を持つ親とのつき合い方を今更ながら振り返ってみる

以前、親の家を片付けるという内容で備忘録を書いた。早いもので、あれは2020年12月から2021年初頭にかけてのことで、もう1年以上が経ちゃった。

相手のためを思って、息子と一緒に行った片付けだったけれど、その後、私は結構危うい感じになり、長い間体調不良を引きずることになった。まいどのことなので今更驚かないけれど、親子関係で体調を崩すのは子供のほうが多いって、いったい何なのかなーって思う。

関わる分だけ、戻るものも大きい

関われば、それだけ戻ってくるものも大きく、長年受け止めきれずに堆積したものが重なったところに、ドドドっと負荷の高いものがなだれ込むと、保っていたバランスが崩れる。
親の元を離れて、なんとか平和を取り戻して自分の人生として得た時間の中に、再び意味不明の秩序を乱す何かが乱入してくるというのは、なんともやるせないものだなあ、と思う。

ほんでもって、都度そうやって体調崩したり、どうしたもんかと逡巡してしまう私をはげましてくれる友人たちはいて。で、その中でたまに言われるのだけれど
「相手はもう86歳で昔の母親とは違う。なのになぜ、いつまでも同じ場所に囚われ続けてしまうの?」
ということ。そうなのよ、いいかげん自由になれよ、と自分に対して心底思うのだけれど、囚われ続けてしまう。で、そこを突かれると、自分が本当に情けなく、いつまでも子供時代を引きずるダメな人間に思えて凹む。いったいお前はいくつなんだよ、いま。いまさらもういいじゃん。

それについて、今日お風呂に入りながらつらつらと思いついたことがあったので、書き留めておこうと思う。それはつまり

成長期に作られた思考パターンにとらわれる

ってことなのかもしれない。
私の母親は、ADHD的傾向を持つ発達障害の一種だ。ちゃんと仕事もして、家庭も築いて、社交的にも問題なく生きてきているけれど、おそらく本人も生きづらさを抱えてきたのではないかと思う。

でも、子供にとっては親は絶大で、特に郊外のサラリーマン家庭で一人っ子で近所付き合いもほとんどないという状態では、親は世界になるわけで。そこでのやりとりは思考パターンに大きな影響を与えるように思う。
私はかなり大人になって、「あ、そうか。この人、ADHDなんだ」と思えるようになってから、いろんなことが合点がいくようになったけど、それまでの間は、日常が??マークに満ちていて苦しかった。
時代的にも、そういう認識がほとんどない時代だった。

どういうことかというと、だいたいこういう感じのことが延々と続くわけ。1+2は3というのはあくまで例えであって、ここにいろんな内容のことが入る。

ある日
私:ママ、1+2は3だよね
母:は? 何言ってるの、1+2は5 でしょ。
私:え? ママもこないだは3って言ったよね
母:そんなこと言ってない。(ぷい)

別の日
私:ママ、やっぱり1+2は3だと思うの、5じゃなくて。
母:なにそれ、私が間違ってるって言いたいの? 
私:そうじゃなくて、私は3だと思うし。。。。
母:あんたってほんとに頑固で自分勝手ね。もういい!

ここで、母親の機嫌が最大限に悪くなって非難が続くことがわかるので、私は頭の中を??でいっぱいにしながら、そうか、5ということにしておけば平和なんだな、と思い始める。ほんで

また別の日
私:ママ、1+2は5だよね
母:寝ぼけてるの? 1+2は3でしょ。

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成長するとここで娘は理論で負かそうとして、こういうことになっていく。

私:前にさ、ママは私に1+3は5だって何度も言ったよね。あれ、違うよね。
母:なんでも私が悪いの? 私のせいだっていうの?
私:そうじゃなくて、ただなんでも私が言うことを否定しないでほしい。間違ったことで否定されると悲しい。
母:あんたってほんと、そういう些細なことをいつまでも覚えていて私を責めるのね。これまで育ててやっていい思い出だってあるはずなのに、嫌なことだけ覚えていて、ほんとやな子。謝ればいいわけ?
私:違うよ、責めてるわけじゃなくて、ただ否定されて悲しかったという気持ちを今伝えている。謝れなんて言ってない、ママにもいろんな気持ちがあったのはわかる。ただそうか、あの時悲しかったんだねと共感してほしいだけ。否定しないで認めてほしい。
母:ほんとにめんどくさい子。もういい!

ADHD的な人がどういう傾向かがわかっていれば、こんな不毛な会話にならなかったことは、今ならよくわかる。「共感」することが最も苦手な人に、それを求めても仕方ないし、何かを指摘すればそれはすべて「責められている」と感じてしまうのだから、会話の工夫は必要なのだと思う。
ある意味、本人もとても生きるのは大変だと思う。

でも、私はまだまだずっと、子供でそんなことは何もしらなかった。


結局、日常に安定した「事実」や「解釈」が存在せず、それを検証するための平常な会話が成立しないので、やがて私は話し合うのをやめる。

でも、日常は常に、1+2が5であったり、春の次には秋が来るといったような(極端だけど>笑)、普通のプロセスで考えていけば決してそうならないだろう? というような論理で埋め尽くされているので、いつの間にか1人のとき、道を歩いているとき、寝入り端のときなどに、私は頭の中で順序立てて「あれがこうなったから、こうなって、だからこうなるはずだ。どう考えても春の次は夏だ」というようなことを考え続けている。

そういう思考パターンが出来上がってしまっているので、いまだに意味不明な親の言動があると、次々と思考が展開してしまうのだろうと思う。

自分の正しさを守るために、ぐるぐるとずっと考え続けていたことで、私は自分を守ってきたけれど、結局ぐるぐる考えることが、自分を苦しませていたりもするわけで、悩ましい。

未解決の問題に子供を埋もれさせないことの大切さ

結局、私の人生にはいまだまったく解決できていない多くの??マークがたくさん埋もれているわけです。
それは10歳のときのあの会話であったり、20歳のときに受けた言葉の暴力とか、30歳のときに台無しにされた自分の大切な体験とか、過去にさかのぼった??マークの形で、心のどこかに残されたままになっている。
それ、みっともないよ、もう忘れたら? って思うんだけど、でもあまりにも理不尽で理解できない、受け止めきれないことがそのままの形で遮断されていくと、記憶の中でそれはいつまでも消えずに生き残り続ける。そして、その数が、あまりにも、あまりにも多すぎるので、関連した刺激を受けると飛び出してきて、思考がぐるぐるする。

そういう未解決の問題のようなものは、子供時代に残してはいけないものだな、と心からいま思います。親として、大人として。

私の場合は、残念なことに父親が母以上に暴力を含む問題を抱える人だったので(苦笑)、??マークを修正してくれる人も、受け止めてくれる人も、共感してくれる人もまわりにおらず、変な形で??マークが残っちゃった。大変なお母さんを持った友人もまわりにいるけれど、お父さんの存在でなんとか生き延びてきたという人もいて、両方行き止まりな感じはなかなかしんどい。配偶者に問題がある場合、母親の場合は娘を救い出すよりも、娘を同化して同じ被害者にして、共犯体制を作る傾向もあるのかもしれない。

ほんとめんどくさくて嫌だけど、「もう自由になっていいんじゃない?」と簡単には切り離せないパターンができあがっているので、この未解決??マークから距離を置くためには、せめてその本人から距離を置く必要があるということを、昨年の片付け問題で強く思いました。

ま、一人娘で高齢の母だから、完全に離れられないんだけど、それでも自分を守るために距離を置く。それ、大事なんだなと思います。


私の友人には、母親がおそらくアスペルガーだろうと思えるようになってから、本当に楽になったという子もいて。
そうか、自分がおかしいわけじゃなかった。私は正しかった、このままでいいんだと思えるようになってから、霧が晴れたと言っていました。

理屈が通らない親と付き合っていくのは大変だけれど、それでも唯一の親なわけで。子供に未解決の??マークの置き土産をしてしまわないためにも、周囲にちゃんと理解してくれる大人と、共感してくれる誰かがいてほしいなと切に思います。そしてそれは、常に、力で対話を遮断して、自分が誰かに未解決の問題を残してはいけない、という自戒を込めて。

というわけで、今朝つらつら考えたこと。
こんなことを書いている時点で、いまだ囚われているってことになるので>笑、このへんでもうやめよう。

私は私。しあわせに生きる。


追記:それでもそんな自分を愛して、認めて、前に進む


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追記:

上の内容を下書きで書いて、ご飯の支度をしてたら、体調がめちゃめちゃ悪くなっていくのが手に取るようにわかりましたー。びっくりしたー。
思いついたから気軽に書いた、ぐらいのつもりだったけど、深く根付いた問題に触れてしまったのだなと思います。

以前、母との話を別のブログに書いたら、「その年になってまだ、ママとの確執ですか、みっともないですね」みたいな(もう表現は忘れちゃった、忘れたかったから)コメントもらったことあるんですが、一見ささいなことに見える内容も、当事者にとっては「あのときのあのこと」だけに止まらない、人生を構成している大きな要素の一部分であったりします。
それは単に相手との関係ではなく、自分自身との確執であったり、人生を構成する大切なパーツの一部分であって、それを整理しながら生きている。決して「親」を弾劾したいわけでも、責めたいわけでもないのですよね。

一見さっくりと書いているように見えることも、精神的、身体的負荷がとてつもなく大きいこともあります。もし、まわりに似たような状況の人がいたら、「そんなささいなことで」みたいに思わないであげてください。
みっともないのは自分でもわかってる。でも、それでもそんな自分を愛して、認めて、前に進むしかないんですよね。

さて、ケーキ買いに行きます!


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