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【引っ越しエッセイ】長い旅の終わりの一日

まだ雪は残っているだろうか。

相当に年季の入ったビジネスホテルの一室で、朝起きた瞬間ふと残雪のことが気になった。バスルームから流れてくるカビの臭いで、だんだん夢の世界から現実に引き戻される。どうやら換気扇が壊れているようで、湿気のたまった部屋の窓は水滴でびっしょりしている。

「もうすこし寝ておこうかな?」

隣で目覚めた妻が尋ねてきた。ビジネスホテルのパジャマ姿がどうにも間抜けな感じで愛らしいけど、朝からそれを伝える気分にはならない。

「いや、もう起きようかな。朝食に間に合わなくなる」

妻への返事を合図にベッドから起き上がり、間抜けなパジャマを脱いでバスルームへと向かう。ふだんは朝シャワーなんて浴びないのだけど、どうにもビジネスホテルに泊まると贅沢がしたくなるようだ。

春から北東北のとある町で、古い戸建てを借りることになった。

住む場所探しという名目で一年半のあいだ無職で旅をし続けた僕たちにも、ついに年貢の納め時がやってきた。目減りする貯金口座の額が決断を後押ししたことも事実だけど、腰を据えてなにかを始めたいという心境の変化が旅を終わらせる決め手だった。

「あんなに自由であることに憧れていたのにな」

年中人手不足の職場を強引に辞めて、終わりの定めなき旅へ出ることに無限の期待を膨らませていた頃の記憶が頭に蘇ってきた。「旅に出ます」と言い残して辞めていった僕のことを、職場の同僚はどのように思っただろう。どうやら辞める直前に仕事を引き継いだ新人はすぐに辞めてしまったらしい。旅の終わりを報告しに職場へ立ち寄った時、見ず知らずの人ばかりで驚いてしまった。世の中は淀みなく進んでいて、旅という名の停滞をしていた自分はひどくこの時代に合わない生き物のような気がしてしまう。

洗う必要のない身体の表面を困ったように流れるシャワーの水を見て、思い出に浸っている場合ではないことに気がつく。慌てて身体を拭いて服をかぶり、とっくに準備し終わって待っている妻を誘って朝食の会場へと急ぐ。行き交う車のエンジン音が、西向きのホテルに朝を知らせていた。


エレベーターで一階へ下ると、会場には僕たちの他に中年の男がひとりだけ。閑散としたビュッフェ会場に、テレビの雑音が小さく流れている。一番乗りを逃した僕らは、テレビの見えない窓際の席に向かい合って座った。

「せっかくならビュッフェが食べたい」

ホテルを予約する際にそう提案すると、妻はケラケラと笑ってウンウンと頷いた。長い旅のあいだ、僕たちは車中泊ですべてを済ませる生活をしていた。三度の食事、睡眠、その他のあらゆる行為が軽バンの荷台で営まれる暮らしは、娯楽旅行に興じているというより家を失った夫婦が車で日本中を徘徊しているという表現が正しかっただろう。僕たちは出発する際、住んでいた家すら手放してしまったからだ。

しかし今回は車中泊をするわけにもいかない。この旅の目的は新しい家へ向かうことで、引っ越しの荷物をいっぱいに積んだ荷台に僕たちの寝場所は見当たらない。仕方なく安いホテルを探して予約することにしたのだけど、どうせならビュッフェが食べたいと思いついたのだ。長らくの節約生活のリバウンドかもしれない。

卵焼きとポテトサラダをせっせと頬張る妻を眺めながら、名物だというカレーを二杯おかわりする。ビュッフェという響きに惹かれてつい予約してしまったけれど、実情はそんなに豪勢なもんじゃない。寂れたホテルの内観がいっそう身の丈に合わないことをしているように感じさせる。

「いよいよ旅が終わるんだよね」

車内ですでに何度も語り合った言葉を、僕は確認するように呟いた。妻はわざと真剣そうな顔をしてウンウンと頷いている。

節目というのは、つい感慨に浸りたくなるものだ。慣れ親しんだ生活が終わることを寂しがり、新しい生活に期待を膨らませる。人生に幾度とない貴重な節目を味わうため、僕は旅が終わるという事実を何度も言葉にした。でもどういうわけが、あまり実感が湧かない。僕はまるで生まれ育った土地に帰るかのような当たり前の感覚で、新しい家へ向かっている。

「終わっちゃうよ、旅」

朝食を食べ終えて満足そうな妻が面白そうに呟き返した。ホテルから新しい家まで下道で五時間。たったそれだけで、一年半の旅が終わってしまう。終わってしまうのだけどそれがどういうことなのか、僕にはまだかわかっていない。


最上川を渡り、鳥海山を横目に秋田県境へ差し掛かる頃、道路脇の残雪が目に付くようになった。所々に泥が混じる白茶色の物体は決して美しいとはいえないけど、まだ雪があってくれたということにホっと胸を撫で下ろす。

一昨日まで神奈川県で過ごしていた。桜の開花はさすがにもう少し先だったものの、種蒔桜と呼ばれるコブシの花が満開に咲く光景は確実に春の到来を告げていた。菜の花の黄色を筆頭に、土のあるところにはタンポポ、ヒメオドリコソウなど色とりどりの草花が顔を出していた。それを見て僕は、早く東北へ向かわなければと気持ちがはやるのだった。

春とともに新生活を始めることは、僕にとって根拠なく重要なことだ。僕がこれから住む町はどうだろう。雪は待っていてくれるだろうか。

助手席の妻はいつの間にか寝息を立てている。僕はspotifyでランダムに流れる音楽を聞きながら、残雪のある風景を熱心に眺めた。僕たちは雪の降る町で暮らしたことがない。だから東北の地で暮らしている実感は、きっと雪と共に訪れる。今年の初雪が降る頃、僕たちは新しい町でちゃんとやれているだろうか。幸せに暮らせているだろうか。

秋田県から巣郷峠を超えて、ついに僕たちは新しい家のある岩手県に入った。なにかを感じたのか、県境を超えた瞬間に妻が目覚めた。


僕たちが新しく住む町は、早池峰山の麓にある。岩手県を南北に貫く北上山地の最高峰であり、僕たちを岩手県へ導いてくれた山でもある。だから雪に覆われた真っ白な早池峰山が行く手に現れた時、僕たちは新生活が始まることをようやく悟った。

一日の終わりを告げる西日に照らされながら、長い旅のあいだ家になってくれた軽バンと共に僕たちは新しい町に到着した。あたりの雪はすっかり溶けていて、土があらわになった田んぼが一年の始まりを告げていた。四月からお世話になる農園主が迎えてくれた。

「つい昨日まで寒かったのに、今日から一気に暖かくなったよ」

農園主の声はどこか春の到来を楽しむような響きがあった。岩手県にも確実に春は到来していた。畑の上に雪が積もる風景は、どうやら来年までお預けのようだ。残雪は僕らより一足先に、春の住処へと旅立っていた。

「夜は冷え込むから、薪ストーブを使ってね」

その言葉を聞いた時、春を迎え入れる町のなかで続いていた冬を見つけた。春の用意が間に合わない僕らの仲間は、どうやら他にもいるようだった。

たとえばコブシの花も、岩手県ではまだ蕾のままだ。落葉広葉樹の森が一斉に芽吹いて青色に染まる姿もまた、僕たちに東北で暮らし始めたことを実感させてくれるだろう。他にもきっと、たくさん。

「いよいよ始まるね」

「うん。そうだね」

季節の移り変わりと新しい生活。

僕たちはここで、生きていこうと思っている。


p.s. 翌日にまた雪が降って、あたり一面真っ白になりました。

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