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夏の予感について想う

セミの声が聞こえる。夏が来た。

ところで、夏はいつからはじまるのだろう。自分が小さい頃は梅雨が終わると夏になるものだと思っていた。それはそのとおり、いまでも間違いではない。

でも、いまは梅雨明けは7月下旬。え? 7月は梅雨の月ってこと?

子どもの頃は『6月が梅雨の時期。7月に入ったら夏』。そういう季節感があったような気がする。しかし実際には、先に書いたとおり。

夏のはじまりが7月というのは自分の思いこみなのだろうか。それとも年々夏が来るのが遅くなってきている?

正直、自分はこの状況に困惑している。なぜなら自分にとっては7月こそが『夏』だから。

8月はもう『夏のおわり』でしかなく、たとえ燦々と照りつける太陽がジリジリと肌を焼こうとも、アブラゼミが鼓膜も破けよとばかりに大合唱をしていようとも、所詮それは夏の残照でしかない。

7月のイメージは、透き通った透明な光のそれであるのに対し、8月のイメージは、やや黄色みを帯びた力強いしかし重みのある光で、そこにはなにか終わりゆく季節への手向けのような感じが漂っている。

軽やかでどこへでも行けそうな、そんな軽やかな気分を持った7月こそが自分にとっての『夏』のイメージなのだ。

同じことを『朝』にも感じている。

「朝、昼、夜どれが好きか」ときかれれば、自分は「朝」と答える。

「朝」が好き。それも「早朝」がいい。

寝汚い自分は放っておけば昼近くまで寝ているくせに、早朝の清々しさを何よりも気に入っている。そして自分にとって『朝』のイメージは『7月』のイメージとかなり近しい。

また、曜日でいえば『土曜日』だろう。休日である日曜日よりも土曜日の方が(もちろん土曜も休日だが、仮に休みでなかったとしても)好きなのは土曜日だ。
だから。自分にとって楽しい休日とは「土曜日から日曜日の午前中」である。

と、そんな話を知人に話したところ、

「それは予感が好きということだね」

といわれた。

なるほど、いわれてみればそのとおりかもしれない。なにかいいことが起こりそうな感じ。これから楽しいことが待っているような予感。それを『朝』に、『土曜日』に、そして『7月の夏』に、感じていた。

たぶんそれは学園祭の前日のワクワク感ということもできるだろう。祭りの当日ではなく、祭りの前にこそが至高。そういうことだ。

このような感情/感覚は、結局、オトナになりきれていない大人の感傷にすぎないのかもしれない。しかしそれでも構わないとも思う。楽しい明日を夢見ることこそが一番の夢であるならば、それはそれで悪くない。

そんな気がする。

初出タイトル「それは感傷でしかないのだけれど」99年7月18日 初出
24年7月6日 改稿


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