曖昧な I MY ME
生来、向いていないことを
頑張らなくてもいいのではないかと思ってきた。
ミーハーだし、飽きっぽい。
熱しやすく、冷めやすい。
好き嫌いも、激しいと思っても、
スキでも、嫌いでもない。
思考は刹那的だと思う。
そもそも、しおらしいタイプでもないのに、
一歩後ろにさがり、御膳立てすることが
今の会社では好まれる。
少しでも自分の意見を言おうものなら、
メッタ刺しに遭う。
プライドだけの生産性のない会話には辟易するのだ。
勤続年数が上がれば上がるほど、
私の年齢も上がれば上がるほど、
だんだん疲れてくる。
会社でも大して、
昇級もしなければ、
昇給もない。
人生のレベルも、
パートナーを得るでも、
新たな、my new life を得る訳でもない。
でも、
はたと思った。
そもそも、そういうものを求めている人間だったのか?
『自分らしさ』
『独自性』
中学の国語の授業では、そんなことばかり
作文してた。
大いなる反抗期、むき出しに。
就職活動も
(自分の足跡が)『社会に残る仕事』が軸だったし、
今もそんな仕事をしている。
いつだって、『私』が中心だった。
でも、
社会人になって、結婚適齢期を迎え、
大衆的な人生の流れに、初めて乗れなくなった。
大学生の頃も、社会人3年目くらいまでは、
大いに順調だった。
何だか、すべてにおいて『私』が間違っている気がした。
『私』を消して、社会に順応することが
正解な気がした。
たぶん、今でも正解だとは思う。
しばらくすると、
会社に『令和の世代』が入ってきた。
彼らは、「自分が中心」の考え。
自分の成長を感じれられないから、次の道へ進む。
優良企業も、もはや「ゆるブラック」。
自分のエンゲージメント向上が図れないのも、
なぜか、会社や職場の責任。
「自分の非」について考えることは、ないのだろうか
彼らは…
と思ったのだけど
しおらしく、反省しても、
誰も救ってくれたり、手を差し伸べくれる訳でもない。
そうであれば、
人にどう思われるか気にせず、「我を貫く」。
あぁ。そういうことなのか、
あぁ。それが思考の果てなれば、
それならば、一理あるのかもしれない。
私も、得体の知れない何かに、
抑圧されて、こんなにも苛立っていたのであれば、
なんとなく、
波に合わせて、揺蕩っていたのが、
愚かに思えてきた。
無駄に思えてきた。
振り返ってみて、
生来、
何かに合わせることに、
何かを気遣うことに、きっと向いていない。
「私」を主張すること、「私」を貫くことが
好きだったのだから。
潮流に乗ることを、
求められる何かになることを
頑張らなくてもいいのではないか。
この先も相も変わらず
独りで過ごすことになっても、
老いが、私の背中を包んでも
誇らしくありたい。
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