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嵯峨野の月#103 祝宴

第5章 凌雲1

祝宴

弘仁二年秋、

空海から依頼された密教法具の制作を全て終え、褒美を荷車に積んで胡人の鋳造師田辺一族と手伝いの秦一族が奈良から引き揚げようとしていたその時である。

「この中に田辺牟良人たなべのむらとどのはおられるかっ」

と年の頃30半ばの色白で痩せた男が金髪に青い目の男たちを見回しながら声を張り上げた。

白い直垂姿ひたたれすがたからして彼は職人なのだろう。「それは私のことですが何か」と牟良人が進み出ると男はいきなり彼の両肩を掴み、

「俺の名は椿井双つばいのならぶ。田辺牟良人どのよ、あなたの細工の繊細さに俺は惚れた。このまま奈良で仏師として仕えてみないか?」

という興福寺の仏師、椿井双直々の勧誘を受けたのだ。

俺が仏師に?

いきなりなんて事言うんだ、と最初牟良人は戸惑ったが兄の波瑠玖や仲間の胡人までもが、

椿井双だって!?おい、あのお方が椿井双だよ…思っていたよりずっとお若い方じゃないか。まさかご本人に会えるだなんて!

と職人なら知らぬ者の無いこの国一番の仏師を尊敬と感動の目で見ているではないか!

牟良人の背後から進み出た波瑠玖はるくが「私は牟良人の兄ですが…仏師という直接国に仕えるお役目我が愚弟に務まりましょうや?」

と真剣な顔で尋ねると双は自信たっぷりに「この天下に双ぶ者無き椿井双が三年で一人前にしてみせます」と不敵に笑って宣言した。

牟良人抜きに波瑠玖と双は顔寄せ合い、急に声をひそめた。

「…して、食封じきふ(給料)は如何ほど?」
「そうですね、国に仕える仕事ですから一年でこれぐらい支給されます」
「なんと!」

故郷での稼ぎより遥かに高い食封と待遇の良さに断る理由が無かった。
二人の職人は暗黙の了解で頷き合い、波瑠玖は弟の肩を強く叩いて、

「立派な仏師になるんだぞ」
と笑顔で言ってその場で牟良人を双に弟子入りさせて奈良に置いて行ってしまった。

それから二年後、興福寺。

兄の波瑠玖からの急ぎの文を開き、その内容に驚いた牟良人はすぐ師匠の双に、

「妹の婚儀に参加するため七日ほどおいとまをいただきたいのですが」

と伺いを立てると、
「それはめでたい!七日と云わず半月程休みをやるから帰って家族を喜ばせてやれ」

と休みの許可を取り、故郷の高野山までなるだけ急ぎで馬を走らせ、家族が住まう高野山の麓の天野の里に着いたのは…

賀茂騒速かものそはやとシリンが名乗りを交わして六日後の夕方であった。

妹の部屋に入るなり「兄さま、遅い!」
とむくれた妹に綿の詰まった絹の枕を投げつけられ、ちょうど顔面に当たった。

「だってここから報せが届くまで三日、支度して奈良からここまで三日かかるんだよ」

しかし六日も初夜を待たされているシリンの我慢は限界だったろう、当然だ。

牟良人は烏帽子を取り、汗と砂ぼこりにまみれた金髪の頭を掻いた。

しかし手紙の内容には驚いた。この国の人が普段やってる名乗り合って閨を共にすれば結婚が成立する妻問婚じゃなくて、

「まさか正式な拝火教(ゾロアスター教)の結婚式をするだなんてなあ…ソハヤが拝火教徒になってくれる事も秦一族も参加するって事も未だに信じられない」

「その秦一族が是非見たい、って言い出したのよ」

「何だって!?」

声を上げると頭がくらくらする。ほとんど休みなしでここまで来たんだものな。ひとまずは、寝よう。

「とにかく、結婚おめでとうシリン」
「ありがとう兄さま」

拝火教徒のしきたりに従って婚約していた時期もあった兄妹は、

ああこれでやっと普通の兄妹に戻れる…

という安堵の思いで見つめ合った。そして兄の部屋で荷をほどいて絨毯の上で横になると、
ええっ、お師匠と兄弟子の皆さんからこんなにお祝いを?

と義姉の寿々香すずかが包みを開いて驚いている声を聞きながら卒倒する勢いで眠った。

翌朝、宴のためにこしらえたあげはり(テント)の中で待っていた秦真比人はたのまひとは、子供の頃より親しくしていた牟良人が入って来ると、

「やっと来たか、お前の帰りを今か今かと待っていたんだぞ」

といつもの仏頂面をほころばせて彼を抱き寄せた。

「それより真比人さん、あんたら秦氏は日頃から拝火教徒のことを
『兄や妹父や娘母と息子で平気で結婚するなんて気持ち悪い』
っ言ってたくせにどういう心境の変化?」

そうなのだ、牟良人は麓の秦一族に近視婚への忌避感を植え付けられて許嫁のシリンとの婚儀直前に山を降りて逃げ出したのである。

「近視婚は嫌だが別に拝火教は嫌ってないよ」
真比人の口から意外な答えが返ってきた。

「お前から聞かされた教義は仏教や産土神の教えと似たようなもんだと思う。
そりゃ昔は丹の取り分でいがみ合ってたけど…

一緒に暮らさないと解らないこともあるもんだな、お前ら拝火教徒他はどの氏族よりも大人しくて礼儀正しいじゃないか」

それにな、と兄の波瑠玖が話に入ってきた。

「この二年で秦氏と胡人が三組結婚した。
…好き合った男女の事は仕方ないが、生まれた子供は拝火教徒にはなれない。このままでは拝火教徒がいなくなってしまう事態を俺は憂慮した」

七日前の夕方、名乗りを交わして抱き合うソハヤとシリンを覗き見ていた波瑠玖は喜びのまま、

「今宵こそシリンの婚儀だあーっ!」と叫んだ直後に「憂慮する事態」に気付き、

「ちょっと待ったあー!」と口づけしようとする二人の間に強引に割って入った。

「ソハヤ…お前仏教や産土神を信じてるか?」
と青い目に最大限の不安を浮かべて妹の許嫁に尋ねてみた、

「俺はエミシの俘囚の子だから元より神も仏も何の教えも信じてない」

とソハヤがあっけらかんと言うので「…じゃあお前、拝火教徒になってくれるか?」
と聞くと「いいよ」と快諾してくれたではないか。

「ならば正式な婚儀になるのでムラートも呼ばねばならないし準備が色々ある」

それまで初夜はお預け。ソハヤとシリンは引き離されて暮らしている。

とまで聞かされ…なんとむごいことを。

と牟良人は思ったが今日の儀式さえ滞りなく行えれば二人は晴れて夫婦だ。

「お役人が任期交替で不在な今こそ異国風の婚儀と宴を行う好機ではないか!」

と真比人が普段細い目をかっと見開いて童のように夢中になって喋るので、牟良人は、

ああ、秦の人達は働いて租税を納めて生きるだけの暮らしに倦んで華やかな西国の宴を楽しみにしている。

つまりは里の皆が娯楽に飢えているのだな。

と納得した…

お昼過ぎ、高野山中腹の開けたところ草を刈り取って正方形に石を敷き詰めただけの秘密の祭殿で婚礼は行われた。

先祖代々燃やし続けて来た「神聖なる火」の火種を金属の壺に入れて祭殿の中央で火を起こすのは胡人の長老、来留須くるす(クリシュ)。

その格好は首元から足元まで全身をゆったりと覆う白衣と頭には白い帽子という拝火教の祭祀、マギの正装。

そしてシリンの兄、波瑠玖と牟良人、波瑠玖の妻、寿々香をはじめとする胡人たちが拝火教の最大吉数である7人揃い、長老と同じ格好で儀式を見守る。

聖火の前に並んで立ったソハヤとシリンは長老の、

「賀茂騒速と丹生志厘媛にうのしりんひめ。あなた方は病め時も、健やかなる時も、富める時も、貧しき時も、妻として愛し、敬い、
慈しむ事を誓うか?」

という問いかけに「誓います」とはっきりと答えた。

「では指輪の交換を」
と波瑠玖が二人の指に合わせて作った銀の指輪を差し出し、ソハヤとシリンは相手の指輪を取って互いの左手薬指にはめてあげる。

シリンの作り物のような細く華奢な指に指輪をはめる時にソハヤは目頭が熱くなり、俺はこの瞬間を一生忘れないぞ!とシリンの左手薬指の指輪をしっかり目に焼き付けた。

長老が胡語で祝福の言葉を述べて厳粛な結婚式は終了した。

高野山の日没は早い。一行はすぐさま白衣を取って麓の天野の里へ戻った。

ちょうど日が沈む頃に夫婦の御披露目の宴が始まり、秋の草花で作った花輪を首に掛けたソハヤと曾祖母の代から伝わる全身に唐草模様の刺繍をあしらった白い花嫁衣装を纏ったシリンが並んで座ると宴が一気に盛り上がり、

めでたい、やれめでたや!ソハヤよくやった!シリン、おめでとう!と宴席のあちこちから掛け声が上がった。

客全員に山葡萄酒入りの杯やキャバーブ(肉の串焼き)、木の実と干し果物を粉と合わせて麦の粉焼いた菓子など、この国の素材で工夫して拵えた胡の料理がふるまわれた。

秦一族の男は濃い味付けの肉にかぶりつき、女子供は菓子をかじって「何これ?あ、まーい!」と始めての食感に目を輝かせる。

やがて、酒で盛り上がった胡人の男達は両手を蝶の羽根のように広げながら旋回する舞いであるクチャ(胡蝶の舞)を踊り始め、

秦一族も彼らの踊りを真似して万葉の昔、男と女が逢い引きする際に交わし合った子供には解らぬ際どい内容の相問歌を声張り上げて歌い出す。

中央の焚き火を巡って氏族も性別も大人も子供も関係なく手を取り合って踊り歌う宴もたけなわ

松明の灯りに照らされたシリンの顔は化粧をしているせいか同い年の自分よりも大人びて見える。

象牙色の肌に睫毛まで金色のシリンの女神のような美しさにソハヤは見とれた。

宴の最後、花婿の家に花嫁が入る儀式では神聖な火の色である赤い敷き布団の上にシリンが座り、その両端を兄の波瑠玖と牟良人が掴んで持ち上げる。

そして布団に乗った花嫁を小さな焚き火の上で三度回転させた時、

washamusi、washamusi!
(ワッシャームス、ワッシャームス!)

と胡人の村人たち全員の大気を震わせる程の掛け声が上がった。

秦の人たちは呆気に取られて「あの掛け声は何なんだ?」と聞くと隣に居た顎髭の長老、来留須が答えた。

「あれはわしらの先祖が大陸の西と東の境目(ウイグル)にいた頃からの掛け声(ソグド人の方言、サカ語)だ。皆で重い荷物を運ぶ時やこうして祭りで盛り上がると自然と口をついて出てくる」

「して、その意味は?」

と聞かれた来留須は満点の星が輝く夜空を見上げてから、

「意味なんて考えたこともないよ」と肩をすくめて笑った。

布団から降りた花嫁が花婿の家の敷居にまで敷かれた赤い布を踏んで歩き、新居に入って入口が閉じられた。

ワッシャームス!!!

歌と拍手と口笛で新婚夫婦を祝い宴の最後に花嫁が踏んだ赤い布を参加者が両側から力任せに引っ張り、びりびりに破きながら、

「ワッシャームス、ワッシャームス!」

と胡人が叫ぶとそれを真似て秦一族も、

「わーっしょい、わーっしょい!」

と奪い合うようにして布を裂き、結婚式最後の儀式を羽目を外して楽しんだ。

もう渡来人だの倭人だの、仏教徒だの拝火教徒だの儀式の意味だの、どうでもいい。

祭りはめでたくて楽しければ、それでいいのだ! 

「そーれ、わーっしょい!わっしょい!」

赤い端切れと糸屑が飛び散る中、秦真比人は何かを吹っ切った。


ワッシャームス!ワッシャームス!
わーっしょい、わーっしょい!

外での歓声をよそにソハヤは寝室の赤い布団の上に座ってうつむくシリンに「もっと顔を見せて」と声をかけるとシリンは頭に掛けていた白い更紗を取って顔を上げた。

腰まで届くうねりのある金髪に晴れた空のような青い瞳。室内の灯火のわずかな光の中で彼女全体が輝いて見える。

ああ…この眼だ。初めて会った時から俺はこの、何の翳りもないこの眼の青さに惹かれてしまったのだ。

新しく夫婦になった二人は小鳥がついばむような口づけを何度か交わすと7日ぶりの再会に焦れて互いの婚礼衣装を脱がせ、折り重なって床の上に倒れた。

真夜中の里では赤い糸屑にまみれた里の人たちが子供、女たち、男たちの順に騒ぎ疲れて家の中で眠りこけている。

あげはりの絨毯に並んで寝そべるのは二つの部族の長の波瑠玖と真比人。

二人とも宴の勢いに任せて互いの衣服まで裂き合ってしまい、酔いが醒めると上半身裸だという事に気付いて何だか気まずそうに沈黙している…

「な、なんか羽目を外し過ぎてしまったようで済まない…」

先に口を開いたのは真比人の方で、

「お祝いで謝る事はない」
金色の胸毛をさらして息を付く波瑠玖はきっぱりと言い切った。

「こうやって時々羽目をはずさないと人生やってらんないよ!って」

ここで感極まって「うぅシリン、幸せにな~…」と泣き出す波瑠玖に

「泣くの遅すぎないか?」と真比人は返した。

全ては後の聖地、高野山の麓の里で行われた夢のような宴の一夜であった。

後記
この結婚式が祭りの掛け声「わっしょい」の起源になったかどうかは、別の話。










































































































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