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伊予吉田伊達騒動ゆかりの寺と紅葉

愛媛県宇和島市の吉田町立間に大乗寺という妙心寺派の名刹がある。碧巌録を提唱していると門前に掲げる。藩政期の伊予吉田藩主の菩提寺である。墓所には仙台の伊達兵部の長男の妻女と男子たちが伊達騒動の後、はるか南国の小藩に縁あって配流、幽閉の後死までを過ごして葬られた墓もある。

伊達騒動は万治3年(1660年)、幕府が仙台伊達62万石の藩主綱宗を突然隠居させ、2歳の亀千代(後の綱村)に家督を継がせたことに端を発する。幕府は、老中酒井忠清と姻戚関係にある伊達政宗の五男、伊達兵部宗勝と田村右京宗良に3万石ずつ分封させて後見としたが、次第に家老の原田甲斐宗輔と結んで藩政を主導する伊達兵部と反対派の伊達安芸宗重らの対立が昂じて来た。騒動は寛文11年(1671年)当時の幕政を専断していた大老酒井忠清邸で行われた両派の訴訟審問の場で、原田甲斐が伊達安芸を斬殺し、自らも斬られて死ぬという惨劇によってクライマックスを迎える。事件の結果、伊達兵部は、改易。本人は土佐藩に預けられ、長男の東市正宗興は豊前の小倉藩に預けられた。原田甲斐は家名断絶、当歳の孫にいたるまで男子はことごとく死罪。逆臣として処断された。
 吉田藩が預かったのは、兵部の長男、東市正宗興(いちのかみむねおき)の正室と3人の子供たちである。宗興の正室は、伊達騒動の幕府側の仕掛け人とも目される大老酒井忠清の養女であった。実は、彼女は酒井忠清の正室の妹であり、姉妹は姉小路大納言の娘であった。そのゆえに、酒井忠清の養女となって、兵部の嫡子宗興に嫁いだのである。
 仙台藩の伊達兵部と、人々に「下馬将軍」と呼ばれて権勢を誇った幕府の大老酒井忠清の、この姻戚関係が兵部の野心を強め、騒動を助長させた一因になったとされる。
 伊達騒動の後、吉田藩はこの兵部の縁者たちを、すすんで幕府に出願して預かった。それは、宇和島伊達藩10万石から初代吉田藩主となった宗純への3万石分知が伊達兵部の力添えによって実現したことに対する「恩返し」ともいわれ、また一説では、大老酒井雅楽頭忠清の妻の妹とその子供たちへの心配りともいわれる。

 吉田藩の思惑がいずれにあったにせよ、突然、南国僻遠の地吉田に夫宗興と引き離されて預けられた妻と幼い子供たちの暮らしは、心安らぐものではなかったであろう。 宗興夫人と兄弟の4基の墓は、本堂の左脇を抜けてすぐ右手にある。ちょうど庭にある経堂の左手の方にあたる。「吉田町指定史跡伊達兵部一族の墓」という御影石に刻んだ票示がある。墓の方は表面の法号が年を経て風化し、中には読みづらいものもある。仙台から奥方と子供たちを送り届けてきた武藤新左衛門と付人の小岩仙左右衛門の永代塔が四基の墓石のうしろ側にあると「吉田町誌」に見える。

宗興夫人は、預けられて10年後の延宝9年(1681年)8月12日に持病に食あたりを併発して亡くなっている。法号は「天祐院殿正林貞眼大姉」。3人の子供たちは母の死後、9年の後、元禄3年(1690年)4月にお預けを解かれたが、そのまま吉田にとどまった。元禄7年(1694)7月13日、吉田に来た時に4歳であった千勝が、27歳で病死、「真霊院殿湛源全性大禅定門」。翌、元禄8年(1695)年3月20日に、6歳で吉田に来た千之助が30歳で病死、「即心院殿万夢一如大居士」。2歳で吉田に来た末弟の右近は、さらに12年を1人で生き、宝永四年(1707)4月22日に病を得て38歳で逝った。彼らの誰にも1人の後嗣もなかったと言われる。

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傑作山本周五郎の「樅の木は残った」の他にも鷗外の短編「椙原品」など仙台の騒動を題とした佳品は少なくない。

本堂の前の紅葉の庭をみようと思い立ち、久しぶりに大乗寺に出かけた。西日本豪雨災害で被害を受けたがほとんど復興されていたのはいつか見た。自転車を止めようと車止めで降りると、たくさん車が止まり、肩にデジタル一眼レフをかけて、参道の脇の苔を踏みつけて紅葉に突進する初老のカメラマンが目についた。山門を潜ると、庫裡の前に和服姿の老女が立っている。茶事の集まりという。紅葉は色づいて美しいが、庭の前は騒々しいカメラマンに踏み荒らされている。ファインダーを覗いたかと思うと、苔を踏みつけて紅葉に近づき枝を引きちぎろうとしている。あまりのことに、コラッと声をかけると、住職に許可を得ているという。許可を得たら何をしてもよいということはなかろうと話したが、言うも愚かなことであった。宇和島市から来た学校の教師上がりの集まりのようだ。何を余計なことをという。たしかに話すだけ無駄な輩である。自分の鼻毛でも写していればよいと思うしかない。墓を見る気も失せて三間に向けて門を出た。

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