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築地本願寺、飛行機からの景色、とんかつ食べたい

 早めにホテルをチェックアウトして、歩いて築地本願寺に向かった。
本堂には程よく人がいて、香の素晴らしい匂いに包まれている。

 皆静かに、かといって重苦しくなく思い思い過ごしていて、心地好い空気の中で椅子に座って瞑想をするともなく目を瞑ると、呼吸が整い体の各所がひとつずつ脱力していくのが分かる。
もう瞑想はやるものではなくなってきている。
その世界に入る、自然と導かれる、そういう感覚に近い。
やめようという気もなく、ふと目が開く。

 黄金色の仏壇の前では法要が始まっていて、黒いスーツの人たちが横一列に並んで座っていた。
その金と黒のコントラストは美しく、経の内容から察するに何周忌法要を迎える各ご家族は故人を想い、あるいは何も思わずに静かに退屈して仏壇や僧侶を眺めていたはずだ。
経の響く本堂をあとにする時に、目線の高さに香の煙が漂っていて、名残惜しい気持ちと、さようならを言う気持ちとをそれぞれ置いて出たように思う。

 本願寺近くでベトナムフォー、歌舞伎座前のルノアールを堪能して、モノレールに乗り、澄みきった東京の景色を眺め続けた。

 空港を数時間徘徊し飛行機に乗り、飛び立つ前に寝てしまい、何かの夢の途中にふと目が覚めて、窓の外を見ると雪が降り積もった高い山の頂、まばらな雲に斜陽があたり、オレンジ色と影のところはやや緑がかったり紫にも見え、窓枠の向こうは全体的に薄靄がかりまるで美しい浮世絵のグラデーションのようだった。
巨大な虹の中にいるとも言えそうだった。
あまりの景色に、国際線でどこか知らない国の上を飛んでいるような気がした。
もちろん寝ぼけているのだが。

 雪をかぶっていない山々は暗く、人々が切り開いてきたであろう平地は雪が積もって平らに光輝いている。
眺めるうちに雲は様々に変化して、時折細長いリュウグウノツカイのようにも見えるし、果てしなく広がる羊毛にも見える、牛もしくはゴジラの顔が並んでいるようにも見えるが、ほとんどの形が何と例えることのできない自然の抽象性はそれそのままで美しい。
彼方の水平線は空との境目が、燃えるように赤く、地上の手応えのある青と空のどこまでも軽い透明な青を曖昧に分けていた。

 飛行機は羽田を16時に出て、西に向かって飛び続けている。
飛行機から見える景色はずっと夕暮れの美しさを保っていて、普段あっという間に通り過ぎてしまうあの新鮮でいつまでも見飽きない色彩のグラデーションが絶え間ない変化の中で続いていて、好きな時間は飽きるまで引き伸ばすことができるのだと知った。
桃源郷の景色とはこういうものだろうか。

 実際には非常にゆっくりと日が暮れていって、当たり前だが私の乗る飛行機より地球の自転は速いのだということがよく分かる。
私は宇宙に浮かぶ巨大な球体の皮一枚浮かんだところで、綺麗な翼を持つ乗り物に座り、その大いなる天体の運動をも見ているのだ。
地形も雲も日の光も刻々と変化し、そのうち海が何色、山が何色などと言い表すのが馬鹿らしくなってくるほど圧倒的な表現力の世界だった。
神よあんたはめちゃすごい。

 福岡空港に着く頃には海と空は雲を媒介に混ざりあってしまっていて、主翼の向こうには青く果てしない乳海が広がっていた。
自分が空腹なことが分かり、飛行機に乗る前にとんかつを食べたいと思っていた気持ちがそのままだったので、空港に着いたらとんかつを食べようと思った。

 東京行の間よく歩いたが、うまく整った時には自分の中に言葉がなく、私は私と対話しておらず、ただ世界をあるがままに受け止めて、静かで快適だった。
人にはあまり会わず、さほど展覧会やお店にも行かずに、多くの時間景色を眺めて歩いた。
あるいはホテルで好きなだけ映画やドラマを見た。
旅に出て、何も土産物を買わず、帰りの荷物が増えなかったのは初めてだ。

 初日、ホテルの部屋で倒立してみた。
今までどうしても出来なかった倒立だが、その日は上半身がびくともせず、安定してすっと足が上がってしまった。
家に帰り着いたらまたやってみよう。

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