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AI-愛-で紡ぐ現代架空魔術目録 本編後日譚第4集その2『移り変わる景色』

 翌朝早く、隣室の気配に気づいてアイラは目覚めた。あたりはうっすらと白んでいたが、それでもまだ十分に暗い。寝床から起き出して隣の部屋を見やると、そこに一心に魔法書に向き合うリアンの姿があった。アイラはゆっくりとそこに近づいて行く。
「リアン、おはよう。今朝はずいぶん早いのですね。」
 それを聞いてリアンは本から目を上げ、声の方を向いていった。
「おはよう、アイラ。ごめんなさい、起こしてしまいましたか?」
「いえ、そういうわけではありません。大丈夫ですよ。ずいぶん熱心ですね。お勉強ですか?」
 リアンの手元に広げられた魔法書を覗き込みながらアイラが言った。
「はいなのです。少しでもカレンに近づきたくて、ガブリエルを勉強しているですよ。」
 そう言う彼女の手元では、生命と霊性の安定を司るという大天使ガブリエルの術式に関するページが開かれていた。看護科を正科とし、ダークプリーストとして回復や治癒の勉学に励んでいたカレンの後ろ姿を、リアンは必死に追っているようだ。ページには様々な書き込みがなされており、その熱心さが伝わってくる。

まだ暗い明け方に独りで勉学に励むリアン。

「お茶でも淹れましょう。あまり無理をなさってはいけませんよ。」
 そう言って、アイラは急須に茶葉を入れ、そこに湯を注いでいく。シーファはまだ夢の中にいるようだ。
「どうぞ。」
 差し出されたコップに手を伸ばして、リアンはページをめくる手を止めた。
「おいしい。あなたはお茶を淹れるのが上手ですね。」
 そう言いながら、リアンはコップをゆっくりと傾けた。
「小さい時から、お店で仕込まれてきましたから…。」
 遠い記憶に思いを馳せるようにして答えるアイラ。その瞳は何か複雑な色をたたえていた。
「ガブリエルは独学だと難しくありませんか?」
「確かに、難しいのです。でも…。」
 言いよどむリアン。
「カレンさんとのつながりを感じるのですね?」
 その優しい言葉に、リアンは小さく頷いて答えた。夜明け前の夏の気配が二人を包んでいる。コップを脇に置くとリアンはまた魔法書のページを繰り始めた。手にしたペンでところどころに書き込みを施していく。お茶を傾けながら、その仕草をアイラが見守っていた。窓の外では、少しずつ空がその色を薄めていく。しばらくしてシーファも起き出してきた。

* * *

「おはよう。二人ともずいぶん早起きね。」
 寝巻のまま、あくびと伸びを同時にするシーファ。彼女もリアンのいる部屋へとゆっくり入ってきた。
「おはよう、シーファ。」
「おはようございます。」
 三人はめいめいに朝の挨拶を交わした。窓の外は一層白み、外から山鳥のさえずりが聞こえてくる。まもなく夜が明けるようだ。

「リアン、熱心なのはいいけど、今日は忙しくなるからほどほどにね。」
 そう言うと、シーファはシャワー室に入っていった。その後ろ姿を一瞥しながら、なおリアンの青い瞳は魔法書のページに注がれていく。早朝の静寂を彩る小鳥の声に、ページをめくる音がアクセントを加えていった。

 それから1時間ほどしたであろうか、室内には朝日が差し込み始め、あたりはすっかり明るくなった。蝉の声が聞こえ始める。リアンはなおも読書に没頭していた。
「まだ少し早いですけど、朝食をお願いしてきますね。」
 そう言って立ち上がるアイラ。
「昨日はあまり食がすすまなかったようですが、今日は森に入りますから、朝はしっかり食べてくださいね。どんなものがいいですか?」
「そうですね。あっさりした、汁物がいいですよ。」
 アイラの気遣いに、リアンが申し訳なさそうに答えた。
「汁物ですね。わかりました。ここにはとびきりのがあるんですよ。」
 そう言うと、彼女は魔術式の通信装置のある部屋へと移っていく。そこで、宿に朝食を注文しているようだ。その声の上に、ゆっくりとページをめくる音が重なっていた。

 そうこうしているうちに、シーファがシャワー室から出てきた。熱いお湯を浴びてすっかり目が覚めたようで、はつらつとした表情をしている。
「気持ちいわよ。リアン、あなたも浴びてきたら?」
 そう言いながら、その美しいブロンドを手拭いで乾かしている。
「そうですね。そうするのですよ。」
 手を止めて本を閉じ、立ち上がるとリアンはシャワー室へと入って行った。扉が閉まり、湯あみの音がこぼれて来る。

 アイラがこちらに戻ってきた。
「ありがとう、アイラ。いろいろ気を使わせてごめんなさいね。」
「いえ、お気になさらないでください。全てカリーナ様の御心遣いですから。なによりリアンさんには元気になって欲しいですし。」
 アイラはシーファのためにお茶を入れながらそう答えた。
「そう言えば、あなたはハルトマン家の養女なのに、カリーナさんのことを『カリーナ様』と呼ぶのね?」
 そのシーファの言葉に、アイラは一瞬給湯の手を止めた。
「はい、まだハルトマン家に入ってから1年余りですし、何より奉公人として勤めていた時期が長かったものですから、なかなか慣れなくて。」
 そう言って再び手を動かし始めるアイラ。その横顔の翳りが何となくシーファの心をとらえていた。
「どうぞ。」
「ありがとう。」
 アイラから受け取ったコップをゆっくりとシーファが傾ける。
「昨日も言ったけれど、私たちはもう友達なんだから、気なんて使わなくていいのよ。もっと気楽に接してくれて全然かまわないんだから。」
 お茶を口に含みながら言うシーファ。
「ありがとうございます。」
 少し気恥しそうに目を伏せてアイラはそれに応えた。

 穏やかな時間がゆっくりと流れていく。しかし、夕方はやけにゆっくりの夏の陽は、朝はせっかちのようで、その高さをみるみる高くし、あたりを光と熱気に包んでいた。上気した身体をタオルに包んだリアンがシャワー室から戻って来る。

「朝のシャワーは心地よいですね。あなたもどうですか、アイラ?」
「ありがとう、リアン。でも今朝は大丈夫です。それよりそろそろ準備を始めましょう。今日は忙しくなります。」
 そう言うとアイラは立ち上がって、着替えを始めた。それに促されて、シーファとリアンもまだ湯気の冷めやらない身体の上に衣類をまとっていった。

 それから15分もしたであろうか、昨晩と同じように女給の声が外から聞こえた。アイラが扉を開けて彼女たちを向か入れる。朝食を載せた盆を持って給仕たちが部屋に入って来た。今朝は炊いた米にいくばくかの山菜と焼き魚、それに旨そうな汁物を添えた薬膳のようなメニューだった。寝室の一つ手前の部屋に、朝食が設えられていく。食事の香りが室内の空気を華やかにした。

* * *

アイラが選んでくれた朝食。

「この『メバラ』の汁物は絶品ですよ。今日は忙しくなりますから、しっかり食べて元気を出してくださいね。」
 そう言って、アイラが二人に食事を勧めた。
「ありがとう、アイラ。」
「いただきますなのですよ。」
 女給たちが部屋を後にした後で、三人は揃って食事を始めた。起き抜けの空腹にあたたかい食材の香りが染みていく。昨晩はあまり進まなかったリアンの匙も、カレンを見つけるためには英気を養わなければいけないという決意からか、今朝は幾分か力強いものとなっていた。

 出汁のよくきいた『メバラ』の汁物は実に深い味わいで、特にシーファの舌を満足させていた。添えられた『シュバルツ・ブリーム』という名の焼き魚料理はアイラの好物のようで、それもまた『メバラ』と並ぶタマン地区の名物なのだと教えてくれた。

 食事を済ませた三人は、めいめいに荷物を整理すると、それをしょって宿を後にした。まだずいぶんと朝早い時間ではあったが、既に太陽は天頂めがけて空を駆け上っていた。風はあるが、それは湿気でなまめいており、ローブの上からは暑く感じられたが、三人はそれをものともせずに、『ダイアニンストの森』に向けてずんずんとルート35を南下して行った。

 やがて、道路の舗装が途絶え、土道になり、主要幹線道路だったそれは細い獣道へと姿を変えていった。はじめ土は乾いていたが、森に差し掛かるにつれて湿った黒いものに変わり、うっそうとした木々が三人の頭上に深い影を落とし始めた。お馴染みの森に足を踏み込んだのである。

お馴染み『ダイアニンストの森』。

 進むほどに、森は深くなり、獣道を覆う木々の影であたりは昼間に似つかわしくない怪しい暗さを醸し出していた。ざくざくと土を踏みしめる音を奏でながら、三人は奥へと進んで行った。途中の木々には、かつてカレンが道に迷わないようにと刻んだ目印がまだ残されており、リアンはそれを愛おしそうに指でなぞっていた。

 いよいよあたりは暗くなり、木々と草花だけで造型された景色は、三人の方向感覚を失わせていった。ただ、『ディバイン・クライム山』へとつながる獣道だけが、行くべき先を示している。

* * *

「このあたりのはずだけど…。」
 かつて巨人カリギュラを討伐し、初めてユーティ・ディーマーと邂逅したあたりまで来てシーファが言った。
「これからどうするかが問題よね。」
 その通りだった。ユーティとはこれまでこの森で2度出会ったが、いずれも彼女の方から突然に姿を現したのであり、こちらから接触を試みるとうののはこれが初めてのことなのだ。周囲を見回してみても、四方八方同じような景色が延々と広がっている。
「少々困りましたね。」
 そう言いながら、アイラがあちこちに視線を巡らせていた。
「とりあえず、このまままっすぐ行ったのでは森を抜けてしまいますから、他に人の通る形跡のありそうな場所を探しましょう。」
 少し小高くなっているところからあたりを見回しつつ、アイラがそう言った。
「そうね。同感だわ。とにかく、落ち葉や苔のない土の露出したところを中心に見て回りましょう。」
 その土手を下りながら、シーファもアイラに同意した。低地に出てから、しばらく行くと、道というほどではないが、しかし土が露わになった一筋の通りが目の前に現れた。それは森の奥深くへと続いている。
「とりあえず、ここを行ってみましょう。」
 そう言うシーファの後にリアンとアイラはついて行った。その先は思った以上に森が深く、昼間とは思えない不気味な暗さと静けさが広がっていた。土を踏みしめる足音の他には、蝉時雨が聞こえるばかりである。しばらく進んでいくと、突然に視界が開け、陽の差す場所に出た。脇には、清水が流れている。更に行くと、三人の視界に小さなあばら家がとらえられた。
「あれを見て。」
 それを指してシーファが言った。
「こんな森の深いところに人の住まいがあるなんて。」
「とにかく、たずねてみるですよ。」
 言うが早いか、リアンは小道を駆け下りてそのあばらやの入り口に取り付いた。朽ちかけた古い建物ではあったが、周囲の手入れは行き届いており、何者かがそこで生活を営んでいるのであろうことはすぐに分かった。入り口には、ぼんやりした魔法光がたたえられている。

森のあばら家。

「待って、リアン。」
 シーファとアイラも追いついてきた。古い木戸は閉ざされている。リアンはその戸をおもむろにノックした。
「こんにちは。どなたかいらっしゃらないですか?」
 呼びかける声に呼応するかのように、内側からドアが開いた。

「こんなところまで、どなたかしら?」
 中から聞こえるその声は、紛れもない、神秘の裏口の魔法使いユーティー・ディーマーのものであった。互いに見知った顔に出会って、思わず目が丸くなる。
「まぁ、あなたたちだったの。こんなところでどうしたのかしら?」
 ユーティーが三人に語り掛けた。探し求めたその人の姿を見て、リアンはすっかり気がせいてしまったようだ。
「ユーティーさん、あなたに会いに来たのですよ!」
 まるでとびかかるようにして、その声は言った。
「あらあら、こんな森の奥に訪ねて来るなんて、どうしたのかしら?」
「『アーカム』のことを教えて欲しいのです。どうしたらそこに行けますか?」
 リアンの興奮は収まらない。その必死な瞳を受け止めるように表情をやわらげてユーティーが言った。
「まぁまぁ、落ち着いて。せっかくですからおあがりなさいな。」
 そう言うと、木戸を大きく開いて、小さな旅人三人をあばら家の中に案内してくれた。そこは小さく狭い場所であったが、香が炊かれ、暗い室内を複雑な魔法光が彩る神秘的な空間であった。奥、というほどでもない場所にある一室のテーブルにかけるように、ユーティーは三人に促した。その招きに従って、それぞれ席に着く。少し咳を誘うような独特の香のかおりが鼻腔を抜けていった。

* * *

「ここに人が訪ねて来るなんて何年ぶりかしら。」
 古びたポットから三人の珍客に薬茶を差しいれながら神秘の魔法使いはそう言った。カップから薬香と湯気が揺蕩っている。
「あの、『アーカム』に、どうやったら『アーカム』に行けるですか?」
 前のめりのリアンが入り口のときと同じ問いを繰り返した。ユーティーは目元を細めてそれに応える。
「あなたたちは『アーカム』に行きたいのね?」
 頷く三人。
「でも、また急にどうして?」
 その問いにシーファが応えた。
「実はあの晩、ユーティーさんと、それからキャサリンさんに助けていただいた後に色々ありまして、この子の、いえ、私たちの大切な友達が天使になって姿を消してしまったんです。」
「そうだったの。それで、『アーカム』に何か手がかりがあるのでは、とそう考えたわけね?」
 ユーティは優しく応じた。
「そうなんです。以前、あなたから荷物を預かった時、あなたはそれを『アーカム』に届けて欲しいと言いました。その荷は天使をかたどったものでしたし、その友達と一緒に姿を消した先生方も『アーカム』に心当たりがあるようでした。だから、もしかしてと思って…。」
「そう。よくわかったわ。」
 カップの薬茶を一口はこんでから、ユーティーはシーファの説明に静かに応えた。
「あなたたちの言う通りよ。彼女たちはいま『アーカム』にいるわ。」
 その言葉に、リアンの瞳はいよいよ輝きを昂(たかぶ)らせる。
「それは、それは本当なのですか!?」
「ええ。今回の一件では、天使としての彼女たちの姿が多くの人たちの目に触れてしまいましたから、こちらに戻るに戻れなくなってしまったようで、それで『アーカム』に姿を隠しているのよ。」
 そう言って、ユーティーはもう一口薬茶を傾けた。薬茶と香のかおりが入り混じり、あたりには複雑な香りが広がっていく。

「『アーカム』にはどうすれば行けますか?」
 リアンが同じ質問を繰り返す。ユーティーは目元を少し細めてから静かに話し始めた。
「いなくなったお友達は、あなたにとって、とても大切な人なのね。」
 リアンは大きく頷いて答えた。
「そう…。ちょっと困ったわね。」
 声のトーンを少し落としてユーティーは続けた。
「あなたの気持ちはよくわかるのだけれど、古い約束があって『アーカム』に至る方法を口伝することはできないのよ。」
 その言葉にリアンの唇が震える。
「困ったわね。あなたたちに応えてあげたいのだけれど…。」
 そう言うとユーティーは席を立って、奥の戸棚から1冊の古い日記帳のようなものを取り出し、それをパラパラとめくって、あるページに目を落とした。
「ここまで来たあなたたちにこのまま帰れと言うのも酷なことだし…。」
 そう言いながら、ページに書かれた文字列を追っていく。しばらくの沈黙があたりを緊張させた。リアンは今にも泣き出しそうだ。
「そうね…。じゃあ、こうしましょう。」
 手にした書物を棚に戻すと、ユーティーは再び席に着いた。その一連に、リアンは固唾を飲んで見入っている。
「タマン地区の沿岸地域にあるとある別荘に、ハッカー侯爵というお酒が大好きな貴族が逗留しています。その彼から『ハッカーの密造酒』をもらってきてください。それと引き換えに『アーカム』に至るための道順暗号を教えましょう。」
 ユーティーはそう言った。
「それを、それを持ってきたら教えてくれるですか!?」
「ええ、約束します。」
 そう聞いて、リアンの瞳に俄かに輝きが戻った。
「ごめんなさいね。本当はこんな面倒なことを言わないで教えてあげるべきなんでしょうけれど。これはとても大切な約束だから…。」
 そう語るユーティーに、
「大丈夫なのですよ。機会をいただけて嬉しいのです。その『ハッカーの密造酒』は必ず持ってきますから、そのときはきっと教えてくださいなのです。」
 リアンの興奮は収まらない。
「ええ、もちろんです。」
 ユーティーのその言葉に、シーファとアイラも安堵したようである。しかし、その時はまだ、その密造酒を得るのがどれほど骨が折れることであるか、彼女たちには想像も及んでいなかった。

「期限は特にありません。とにかく密造酒が手に入ったら、それをここに持ってきてくださいな。そのときには約束を果たしましょう。ただ、くれぐれも気を付けて。命を賭けるような無茶だけはしないように。」
 意味深なことをユーティーは言ったが、カレンに会える道筋にもうすぐ手が届くかもしれないという昂(たか)ぶりが、その言葉の意味を曖昧にしてた。
「帰り道は分かるかしら?」
「はい、ここまで目印をつけてきたので大丈夫です。」
「そう。では気を付けてね。吉報を待っているわ。」
 そう言うと、ユーティーは三人を戸口まで送って行った。何度も念を押すリアンの手を引くようにして、シーファとアイラはその場を後にした。

 夏の陽はちょうど天頂あたりに位置していたが、深い深い森の中でその位置を確かに知るのは困難だった。ただ、この時期特有の異様な暑さと湿度だけが、朧気に時間を伝えている。

* * *

 ユーティーの隠れ家を後にしてから、三人はまっすぐにタマン地区に戻った。シーファは一度宿に戻ろうと提案したが、希望に胸を焦がしているリアンは、すぐに沿岸地域に行くと言ってきかなかった。そこに行くためには森と繋がるルート35を、デイ・コンパリソン通りとの交差点まで引き返す必要があるため、そこそこの移動距離になるわけであるが、火のついたリアンを止める術はシーファにもアイラにもなかった。仕方なく彼女の言うままに三人は今、デイ・コンパリソン通りを沿岸部に向かって南下している。それはかつて、カレンと三人で海水浴に訪れたのと同じ道でもあった。追憶をたどるように、リアンの足は自然と速くなる。

「ユーティーさんのお話では、ハッカー侯爵の別荘は、沿岸地域のベイ・フォーエリアにあるようですね。」
 街の案内掲示板を見ながらアイラが言った。
「そうね。ベイ・フォーといえばこの辺りだけれど、さすがは一級観光地。それらしい建物ばかりで、どれがハッカー侯爵の別荘なんだか見当もつかないわ。」
 あたりを目で追いながらシーファが言う。アイラはなおも案内掲示板を注視していた。
「ああ、ありました。この地図の差す場所ですから…。」
 街並みと地図を見比べていくアイラ。
「あそこですね!」
 そう言って彼女が指さした先は、小高い丘の上に立ち並ぶ別荘街の一角だ。
「急いでいくですよ!」
 そう言うが早いか、リアンはもう丘に向かって駆け出していた。二人は急いでその後を追う。ハッカー侯爵の別荘は海を臨む丘のちょうど頂上付近にあり、美しいタマンの海を一望できる素晴らしいロケーションであった。入り口に近づくと『ハッカーの密造所』という標識を見つけた。密造所に『密造』という看板を下げているその滑稽をおかしく感じながら、シーファはその大きな入り口を叩く。すると、その門が開いて中から執事らしき男が姿を現した。

「あの、突然に申し訳ありません。ハッカー侯爵にお取次ぎ願いたいのですが。」
 シーファがその男に声をかけた。男は憮然とした表情をしている。
「どういった御用か存じませんが、旦那様はたいそう忙しくしておいでで、この時期にはどなたにもお会いになりません。」
 そう言って、門を閉めようとする男に食いついたのはリアンだ。
「待ってくださいなのです!どうしても『ハッカーの密造酒』がいるのですよ。お願いですから侯爵様に合わせてください!」
 男もその剣幕にずいぶん驚いている。
「これ、お静かに。外でそんなに大きな声で密造酒のことをおっしゃってはいけません。なにせあれは密造酒なのですから。」
 男は慌てているが、『密造所』と書かれた看板を改めて見て、アイラは苦笑いをしている。
「とにかく、そのお酒がいるのです。どうしてもいるのですよ。侯爵様に会えるまではここを動かないのです!」
 いよいよリアンが執事に食って掛かっていると、奥から声が聞こえた。

「おやおや、そこまであれを所望してもらえるとは何とも嬉しい限りですな。」
 そう語るのは、豊かなひげを蓄えたもうずいぶん高齢の、高貴な身なりの老人だった。
「旦那様。騒がしくしてしまって申し訳ありません。すぐに追い返しますので。」
 どうやらその老人が件のハッカー侯爵のようだ。

声をかけてきた老紳士。おそらくハッカー侯爵なのであろう。

「侯爵様!お願いなのです。どうか『ハッカーの密造酒』をゆずってください。」
 出会ったばかりで懇願するリアンを、その老人は穏やかなまなざしで迎え入れていた。
「お嬢さん。あれのことをどこでお聞きになったか知りませんが、そのご様子ではよほどの事情がおありのようですな。ここではなんですから、どうぞお入りなさい。」
 そう言うと、侯爵は執事に、三人を客間に通すように指示した。それは執事にとっては面倒ごとであるように感じられるのか、あまり気が進まないという面持ちをしながら、仕方なさそうに三人を屋敷の中に案内した。その後ろを侯爵がゆっくりとついてくる。

* * *

 通された客間はタマンの海を一望できるオーシャンビューの見事な部屋で、ハッカー侯爵が並々ならぬ富豪であることをうかがわせていた。

タマンの海を一望できるハッカー侯爵の別荘の客間。

「どうぞおかけください。」
 執事の促しに従って、三人はおそるおそる席に着いた。豪華な設えでやけにクッションの効いたソファがかえって落ち着かない。そうこうしているうちに、後から部屋に入ってきた侯爵が三人の前にどかっと腰かけた。

「いやいや、まさかあれを求めてここを訪ねてくる方がおいでになるとは思ってもみませんでした。」
 そう言って、侯爵は三人に微笑みかける。リアンはどんどん前のめりになっていった。
「侯爵様、おねがいなのです。『ハッカーの密造酒』がどうしてもいるのですよ!」
「まぁまぁ、お嬢さん。少し落ち着いて。」
 老成した穏やかな声がその興奮を諫める。
「あれはわしの生涯をかけた自信作でしてな。そんなに所望していただけるというのは、わしとしても嬉しい限りですぞ。」
 そう言うと、ひげの下の表情をやさしく緩めた。
「あの、先ほどから失礼ばかりですみません。」
 シーファが話始める。
「実は、事情がありまして、どうしても『ハッカーの密造酒』が欲しいのです。お譲りいただくことはできないでしょうか?」
 それを聞いて侯爵の表情が僅かに曇った。
「ふむ。そこまであれを欲しいと言ってくれるお嬢さんたちにお譲りするのはやぶさかではなのですがな。しかし、あれの在庫はすでになくなってしまっておりまして、どうしてもいうことであれば材料から仕込まねばなりませぬ。」
 侯爵はそう言うと、たばこに火をつけて一服くゆらせた。磯の香りが急にけむく彩られていく。
「それは難しいことなのですか?」
 シーファが問うた。
「いや、酒の醸造自体は難しいことはないのですよ。ただ、材料の入手が少々難儀でしてな。」
 侯爵は少しもったいぶった。
「どのようなものが必要なのですか?」
 そうアイラが問うと、
「あれを始めて作ったのはわしが30のときでした。あの時は若く、力もありましてな。今となっては無謀ともいうのかもしれませんが、とにかくも材料を集めることができておりました。しかし、今となってはそれもかなわないでしょうな。」
 と言って、侯爵はため息とともに煙を吐いた。
「その材料について詳しく教えていただくことはできませんか?」
「そうですな…。」
 そう言うと侯爵は執事に合図した。執事は手にしている書類束の中から、1枚の紙を取り出し、それを侯爵に渡した。どうやらそれは密造酒のレシピのようである。
「あれを作るには、これらを揃えねばならんのだよ。」
 そう言って差し出された紙を見て、三人の少女たちの表情は一気に曇った。


この上なき美酒の材料

1 にんにく
2 とりかぶと
3 マンドレイクの根
4 魔法鷹の爪
5 メドゥーサの頭蛇
6 手長翼竜の眼
7 オグの糖蜜


 にんにく、とりかぶとはまあよい。マンドレイクの根と魔法鷹の爪も、魔法具店で大枚をはたけば手に入れることはできるだろう。しかし困るのはその次だ。メドゥーサの頭蛇に手長翼竜の眼、更には隠者オグが秘密裏に創り出すと言われるオグの糖蜜まで要るという。それらを集めるには、途方もない困難が予想された。

「あの…。」
 シーファが話そうとすると、
「驚かれましたかな?」
 侯爵がそれを静かに遮った。
「はい。侯爵様はこれをおひとりで集められたのですか?」
「あのころは実に若くてですな。無茶をしたものですぞ。困難よりも好奇心の方が遥かに勝っておりました。先ほど無謀と申し上げましたが、文字どおりでしたな。」
 密造酒の話をしたとき、執事がずいぶんと渋い顔をしたのも頷ける。これは大ごとになりそうだ。
「もし、これらを私たちが集めてくることができたら、お酒を醸造していただくことは可能ですか?」
 おそるおそる、半信半疑でシーファが訊ねると、
「それはもちろん。なんせあの酒を造るための最難関は材料集めですからな。それを集めてくれるというのなら喜んで作りましょうぞ。」
 心なしか興奮の色を載せて侯爵が応えた。おそらく侯爵もその酒を造りたくてたまらないが、材料集めの大変さのゆえに長く断念していたのであろう。そのように感じられる返事であった。

* * *

「あの、この最後の『オグの糖蜜』だけは無し、というわけにはいきませんか?他の材料はなんとかできると思いますので。」
 アイラが口を開いた。
「ほほほ。残念ながら、『オグの糖蜜』こそこの酒の最大の決め手でしてな。絶妙の甘みを付加するだけでなく、極上の醸造を成し遂げるためにどうしても欠かせない材料なのです。これなしで『ハッカーの密造酒』をつくることはできませぬな。」
「そうですか…。」
 侯爵の返答を聞いてアイラはうなだれた。それもそのはずである。この糖蜜の生みの親であるオグは魔法社会でも有名な隠者であり、その居場所も知られてはいるが、その人物は実に非情な難物で、訪問客に無理難題をふっかけては弄び、場合によっては手にかけてしまうことすらあるという文字通りの困り者だったのだ。そのことは、少女たちも当然に知っていて、それでアイラは先の質問を発した訳であった。

 美しい海を覆う空の彼方に、この時期独特の黒い積乱雲が渦巻いているのが見える。どうやら夕立になりそうだ。目の前に差し出された材料一覧を前に、しばらく重い沈黙がその場を支配した。ハッカー侯爵は、さもありなんという表情でたばこをくゆらせている。

「絶対に全部集めてくるです!ですから、全部揃ったら、お酒を造ってもらえますか?」
 意を決してリアンが声を上げた。シーファとアイラはその横顔を見入っている。その声の真剣さに感じ入ってか、侯爵はたばこを灰皿において言った。
「約束しましょう。小さな方よ。あなた方が勇気を見せてくれたならば、このおいぼれもきっと最善を尽くしましょう。しかし、生半可なことではいけませんぞ。」
 毛深いまゆに隠れたその瞳がまっすぐにリアンを見つめる。
「約束なのです。私は必ずここに帰ってきますから。」
「心強いことですな。まさかわしもこの年になってふたたびあの酒の夢を見られるとは思ってもみませんでした。きっと約束ですぞ。」
 そう言うと侯爵はしわしわの大きな手を差し出した。リアンはその手をとって固く握手を交わした。
「それでは、行ってきますです。」

 執事が供してくれたお茶とケーキをしばらく楽しんだ後で、三人は侯爵の別荘を後にした。始終執事は面倒ごとはごめんだという顔をしていたが、彼女たちが帰る時には、門まで送ってくれた。

 夏の陽が、ゆっくりと西に傾いていく。海上に広がっていた積乱雲はいよいよ陸地に近づき、あたりは俄かに暗さを増していた。まもなく雨が落ちてきそうだ。三人は、宿に向かって小走りで駆けて行った。
 焼けたタイルを、ぽつぽつと雨粒が冷やしていく。やがて、土砂降りの夕立となった。あたりは真っ暗で、激しい雨音がタマンの街全体を覆っていく。少女たちは今、宿の部屋で、明日からのことを思案していた。

to be continued.

AI-愛-で紡ぐ現代架空魔術目録 本編後日譚第4集その2『移り変わる景色』完


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