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AI-愛-で紡ぐ現代架空魔術目録 本編後日譚第4集その8『報われた日々』

 晩夏の宵闇に包まれた古の墓地を生暖かい風が吹き抜け、木々の枝を妖しく揺らしていく。おぞましい黒き悪霊の手から解き放たれた白く輝く霊が語り始めた。

「私はこれまでいったい何を…。あなたは、あなたは…、もしかしてタリウスですか?」
 白く光るラニアの霊の問いがよほど意外だったのか、ネクタリンスの悪霊の黒い影は慄きを隠せないでいる。
「ラニア、君には僕がわかるのか?こんなにも変わり果ててしまった僕のことが…。」
「もちろんですよ、タリウス。あなたと私の運命は、在りし日には結局にして一つの撚糸を為すことはできなかったけれど、それでも若き日々に語り合い、誓い合った言葉に嘘はありません。咲いた花が実をつけられなかったという、ただそれだけのことです。」
「ラニア…。」
「でも、タリウス、どうしてあなたは私を訪ねてきたのですか?冥府の門を越えてまで。」
 悪霊に囚われていた間の思念は途切れているのであろう、ラニアは悪霊に向けて素朴な疑問をぶつけた。
「それは…。」
 言いよどむ、ネクタリンスの悪霊。その場に再び不気味な温度の風が駆け抜ける。

「ラニア様、そいつはラニア様に憑りついてカリーナ様を呪っていたのです。危険ですから、すぐに離れてください。」
 錬金銃砲の銃口でネクタリンスの悪霊を釘付けるようにしてアイラが言う。

「まぁ、アイラ。あなたも来ていたのね。ずいぶんと大きくなったわね。大丈夫よ、アイラ。この人はそんなに悪い人ではないわ。」
 タリウスの霊をかばうようにして優しく言うラニア。しかし、アイラは語気を緩めることをしない。

「しかし、ラニア様。そいつはこともあろうにリセーナ様を連れ去ったのです。断じて許すことはできません。ラニア様にも、そしてカリーナお義姉さまにも危険があります。ここで私たちが除霊いたしますから。」

「まぁ、リセーナを。それは本当なのですか、タリウス。」
 少し声の調子を変えてラニアが訊ねる。
「待ってくれ。カリーナを呪ったのは本当だ。それが君への未練とあの男への嫉妬から出たものであることも認める。でも、ラニア、信じてくれ。リセーナはもっとずっと遥かに大きな運命に囚われていた。およそ僕などの力は及ばないような脅威の力の虜になっていたんだ。リセーナを奪ったのは僕ではない。」
 懇願するように弁明するタリウス。それは真実だった。

「世迷言を!リセーナ様ほど聡明な方が、愚かな運命に囚われるはずがない。」
 なおもタリウスに詰め寄るアイラ。それを諫めるようにラニアが言った。

「いいえ、アイラ。彼の言う通りですよ。彼は嘘をつく人ではないわ。若い時にも、彼は常に誠実だった。失意に心奪われた私は彼との誓を守れなかったけれど、彼はきっとその約束を守ってくれたはずよ。ねぇ、タリウス。結局、私だけがあなたを裏切ることになってしまったの。ごめんなさい。」

「ラニア、いいんだ。君が謝る必要はない。あの男を婿に迎えたことが君の本意でないことは分かっていたんだ。君にはハルトマン家の嫡出令嬢としての立場があった。君を失った後、僕が妻を娶らなかったのは、僕の身勝手に過ぎない。君に対する当てこすりが全くなかったかと言えばきっとそれは嘘になる。復讐を悲劇にかこつけることで、自分の断ち切れない未練を満足させていたにすぎないんだ。なのに、僕は、またしても君と君の大切な家族を傷つけようとしてしまった。謝らなければならないのは僕の方だ。許してくれ、ラニア。」
 先ほどまでの、歪にゆがんでふるえる恐ろしい声の調子はなくなり、霊的な響きを帯びているとはいえ、ひとりの青年の真摯な声に変わってそれは言った。木々がなおも墓石を撫でるようにその影をゆすっている。

「ありがとう、タリウス。カリーナは、あなたと二人で咲かせた花の実とはならなかったけれど、それでも私にとっては大切な存在なのです。どうか、私の裏切りを許してもらえませんか。そしてカリーナを祝福してやってください。私たちは世を離れてからも、こうしてもう一度分かり合うことができなのですから。それに免じて、どうかお願いします。タリウス。」
 白い霊が優しい言葉をもらす。タリウスはそれを静かに聞き取っていた。

「わかったよ、ラニア。君の言う通りだ。現世では交わることができず、誤解を孕んだままに終わった人生だったけれど、こうして冥府の門の先で分かり合うことができた。これもまた運命の綾織りなのかもしれない。これからは、君の名に連なる者にこの全霊を賭して永劫の祝福を捧げると誓うよ。君と、こうしてもう一度話せて本当に良かった。ありがとう、ラニア。」

「感謝するのはこちらの方よ、タリウス。あなたと再び言葉を交わせて本当に幸せでした。どうか、カリーナたちを末永く見守ってやってください。私は再びここで眠りに就くことにします。」

「ああ、ラニア。約束するよ。今度こそ永久の誓いだ。そこの魔法使いよ。君はガブリエルを使えるね?どうか僕を成仏させてほしい。その後に一つ印を残すから、それをカリーナ・ハルトマンに届けておくれ。僕の謝罪と加護の証として。頼んだよ。」
 タリウスはリアンを見て、そう言った。

「わかりましたですよ。あなたの魂を今冥府の門の向こうに返すです。」
 そう言うと、リアンは静かに術式の詠唱を始めた。

『生命と霊の安定を司る者よ。法具を介して助力を請う。我が前に冥府の門を開き、彷徨える魂を在るべき場所に戻さん。浄化:Purification!』

『浄化:Purification』の術式を行使してタリウスの魂を送るリアン。

 詠唱が終わると、青白く美しい光で彩られた冥府の門が開き、タリウスの魂は洗い清められるようにしてその中に吸い込まれていった。ラニアの霊もまた、墓石の中に静かに消えゆきて、しばらくの間その刻まれた名の部分にほのかな魔法光を灯していたが、やがてそれも消え、冥府の門もついえ、あたりには静けさと暗闇が戻ってきた。それは、永遠の約束を再び交わした二人の霊魂が、それぞれの場所で固い信頼と絆に結ばれ、安息を迎えたことを表象しているかのようであった。
 術式を終えたリアンが、タリウスのいたあたりにふと視線を落とすと、なお小さな魔法光をたたえているものがそこにあった。それは生命の色に彩られた指輪で、どうやらそれが、タリウスが忌(いまわ)の際に残すと言っていた印なのであろう。リアンはそれを拾い上げると、小ぶりの革袋に大切そうに収めた。

タリウスの約束の印。彼は永劫この指輪の持ち主を守護するのであろう。

 黒い木々が墓地の上で、さわさわと枝を風にゆすっている。リアンが静かに立ち上がった。
「さぁ、これで問題は解決なのですよ。これをカリーナさんに渡しましょう。」
 そう言って、指輪を収めた革袋をアイラに渡すリアン。
「ありがとう。これでお義姉さまも安心なさると思います。一緒に来てくれて感謝しています。シーファ、リアン。」
 二人に改めて謝意を伝えると、
「また、もぅ。他人行儀は無しよ、アイラ。本当に良かったわ。」
「はい、なのです。」
 二人はいつもの調子で、優しく彼女の言葉を受けた。

 月が墓地を白く照らしている。月光に輝く墓石とその周りに落ちる黒い木々の影のコントラストが神秘的な色を奏でていた。
 3人はミレーネの市街地でとった宿に戻り、明日は早いからと早々に床に就いた。少女たちの意識は瞬く間に漆黒の静寂に飲み込まれていく。月がゆっくりと星座の間を進んで行った。

* * *

 翌朝は美しい晴天だった。8月も残り数日を数えるばかりとなっており、陽の光の中に秋の色が確かに感じられる、そんな朝であった。順に起き出した少女たちは、シャワーを浴びて朝食を済ませると、早速にミレーネ地区を後にした。これから中央市街区のインディゴ・モースまで帰るわけであるが、復路は実に2日はかかる。早朝にミレーネを出て日中にケトル・セラーを抜けた後、ポンド・ザックで1泊しようという算段のようだ。ポンド・ザックからインディゴ・モースまでは2時間少々もあればたどり着けるが、夜中に帰ってもできる事がないということで、そのように取り決めたようである。
 西に向かう太陽を真正面に睨むようにして西方街道を東に進路をとる三人。秋の色が感じられるようになったとはいえ、その陽射しの強さと暑さはまだまだ酷暑そのもので、少女たちに大汗をかかせ、その体力を奪うには十分なものがあった。ケトル・セラーを少し過ぎたあたりで、太陽とすれ違い、それからは陽の光を背に受ける格好となった。首筋を伝う汗がなんとも気持ち悪いが、手拭いでそれをぬぐいながら足を前へと繰り出していった。
 背から迫る西日が三人の前に影を長く伸ばし始めた頃、ようやくポンド・ザックの街に到着した。この街は、表通り沿いこそ大都会の装いであるが、裏路地の奥に入ると危険な香りのするそんな街でもあった。三人は手ごろな宿を見つけるとそこに部屋を取り、一日中歩き詰めて疲れ切った身体を存分に癒した。その日の夕食は、旅の成功を祝して少しばかり贅沢をしようということになり、大ぶりのフィレ肉を贅沢にあしらったビーフシチューを注文することにした。上にかかる繊細な生クリームがなんとも食欲をそそる美しい線を描いていた。

三人が注文したビーフシチュー。シーファは少々懐が心配のようだ。

 その日の晩も三人は早々に休み、あくる日の到来に備えた。月が美しく夜空を彩っている。わずかに星座の顔ぶれが変わったようにも感じられた。その夜も、三人の意識が夢の景色に捉えられるのに、それほどの時間はかからなかった。

* * *

 翌朝、軽めの朝食を済ませると、三人はすぐにポンド・ザックを発ってマーチン通りを北上し始めた。時間にしてまだ8時をわずかに回ったばかりだった。この調子ならば午前中にはインディゴ・モースの『ハルトマン・マギックス』本店に到着できるだろう。その旨をアイラが通信機能付携帯魔術記録装置で連絡すると、なんとカリーナが直々に会ってくれるという。店に到着次第、応接室を訪れるようにと、取り次いだ従業員がそうアイラに伝えてくれた。
 サンフレッチェ大橋からインディゴ通りへと至り、目指す市街地へと入って行く。ここまでくればあと少しだ。陽がずいぶんと高くなり、暑さと湿度は増すばかりだが、凱旋する少女たちの心は晴れやかだった。やがて、その豪奢な店構えが三人を出迎えてくれる。

「おかえりなさいませ、アイラお嬢様。」
 店先で清掃作業をしていた従業員が、アイラの姿を見て声をかけてくれる。
「お疲れでしたでしょう。CEO(最高形成責任者)がお待ちです。応接室にお向かいください。」
 連絡はすでに行き届いているようだ。
「ありがとう。このまますぐに向かいます。」
 アイラはそう言うと、シーファとリアンを店内に導きいれて応接室まで案内した。応接室の前でも従業員がアイラの到着を待っていて、彼女たちの姿を認めると、ドアをノックする。
「CEO、アイラお嬢様がお戻りになられました。お通ししてよろしいでしょうか?」
「結構よ。」
 その返答とともに、中から応接室の扉が開いた。

「アイラ、みなさん、よくお戻りになられました。ご無事で何よりです。」
 そう言って、カリーナ自ら三人を迎えてくれた。少女たちの顔に安堵の色が広がる。
「どうぞ、おかけなさい。」
 カリーナが席を進めてくれた。めいめい着席する少女たち。

「お義姉さま。例の件は無事に解決いたしました。今後、ご心配はございません。これはそのお印です。」
 そう言うと、アイラは胸元から革袋を取り出し、そこから慎重に、タリウスの残したあの指輪を取り出してカリーナに見せた。
「これは?」
「はい、これはおばあさまの加護の証です。きっとお義姉さまを守ってくださいますから、どうかいつでも身に着けておいでになってください。」
 アイラから手渡された指輪をカリーナは不思議そうに眺めている。
「不思議な色の指輪ですね。この魔法光はガブリエルのもののようですが…。いずれにせよ、あなたがそう言うのであれば確かな印なのでしょう。ありがたく使わせてもらいます。本当にありがとう。心から感謝しています。」
 カリーナは、頭(こうべ)を垂れて三人に礼を告げた。アイラは恐縮し、シーファとリアンは照れくさそうにしている。

「しかし、お義姉さま。私たちの帰りをお待ちいただかなくとも、私の方から後ほどご報告に参りましたのに。何か、お急ぎのことがおありでしたか?」
 アイラがカリーナに訊ねた。
「そうなのです。あなた方にお渡ししたいものがあって。」
 そう言って合図すると、奥から何やら乗せた盆を従業員が持ってきた。「お待たせしましたが、頼まれていたものが揃いましたわ。確認してもらえるかしら?」
 テーブルに置かれた盆にかけられた布をカリーナがはぐると、そこには『にんにく』、『とりかぶと』、『魔法鷹の爪』、そして入荷までもう少しかかるはずであった『マンドレイクの根』までが見事に揃っていた。

『にんにく』。
『とりかぶと』。
『魔法鷹の爪』。
『マンドレイクの根』。

 どれも豊かに魔法光を放つ極上の魔法素材で、まさに最高級品であった。特に、『マンドレイクの根』は何と顔付で、滅多にお目にかかれない特別の品であった。マンドレイクは根と葉の間に顔状の茎がある魔法薬草であるが、引き抜くときにその顔があげる悲鳴を聞くと、場合によって命に関わる危険があることから、大抵は引き抜く前にその顔の部分を潰すのが一般的であった。しかし、その薬効は、その顔状の茎にこそ多分に由来しているため、顔を潰さないで引き抜かれた根にはこの上ない成分が秘められることになるのであった。
 聞くところでは、カリーナは自らポンド・ザックにある問屋に足を運び、この最上の『マンドレイクの根』を直接買い付け、少女たちの帰還の日に間に合わせてくれたのだとのことであった。それは、アイラとカリーナの義姉妹としての絆がより深まったのであることを、そっと示していた。

「これらの品々に、みなさんがすでにお持ちの『メドゥーサの頭蛇(とうだ)』、『手長翼竜の眼』、『オグの糖蜜』を加えれば、お探しの材料は全て揃ったことになりますね。」
 そう訊くカリーナに、アイラは深く頭を垂れながら、
「はい、お義姉さま。お心遣いに感謝申し上げます。これで必要なものはすべて揃いました。本当にありがとうございました。」
 そう礼を述べた。
「よろしくてよ、アイラ。あなた方の力になれて、私こそ嬉しく思います。また、あなた方にはこのたび、特別に助けてもいただきました。私の方こそ感謝しています。」
 そう言って、左手にはめた指輪をカリーナは眺めている。

 天頂に向かって駆け上る陽が、落とす窓の影を短くしていた。もうすぐ昼になるようだ。

* * *

「きっと、旅を急ぐのでしょうけれど…。」
 カリーナが合図を送ると、部屋の奥からもう一人別の従業員がやってきた。
「間に合ってよかったですわ。これをシーファさんに。」
 カリーナの言葉に合わせて、従業員がシーファの前にそれを差し出した。それは真石ルビーと『人為のルビー』を贅沢にあしらった美しい長剣で、スリットのある金属製の刃の間を、真石ルビーからほとばしる力が『人為のルビー』で拡張された眩い魔法光の刃となって貫く見事なものであった。

以前、シーファから預かったレイピアを修繕した美しいルビーの長剣。

「新しいあなたの得物です。存分にあなたの力になってくれると思いますわ。」
 カリーナに促されてシーファはおずおずとそれを手に取った。彼女が柄を握ると、彼女の魔力に反応して、ルビー色の魔法光の刃がその輝きを一層強めた。
「ありがとうございます。こんなに素晴らしく直していただけて。」
「どういたしまして。ぜひお役立てくださいな。」
「はい、きっと。それではこちらはお返しします。」
 以前、カリーナから、修理の間の得物として預かったエメラルドとルビーの長剣をシーファが差し出すと、従業員がそれを受け取って奥にしまった。

「これで、出発できますわね。みなさんの旅はもう少し続くのだと思いますが、それが無事に終わることを祈念しています。それでは、私は仕事を残しておりますので、これで失礼いたしますわ。どうかアイラをお願いします。」
 そう言うと、カリーナは席を立ち、颯爽と応接室を後にした。丁寧な目礼でその後ろ姿を従業員が見送る。リアンは、テーブルの上に並べられた『ハッカーの密造酒』の材料を早速荷にまとめていた。

「これからどうしますか?材料もすべて揃ったことですし、今日はここで一泊して明日タマンへ向かうというのはどうでしょう?」
 そうアイラが提案した。シーファはその提案にまんざらでもないようだが、承知できないのはリアンのようで、
「急げば夕方にはタマンに入れるのですよ。何となれば『転移:Magic Transport』で移動する手もあるのです。とにかくすぐに出発ですよ!」
 そう言ってきかなかった。深い霧の中、手探りするようにして探し求めてきたカレンの行方にもうすぐ届きそうなのだ。リアンのその期待と焦りをシーファとアイラは十分に理解していた。
 結局三人は、昼食の後出発することに決めたようである。

 陽は天頂をわずかに西に過ぎたところに位置している。まだまだその光はまぶしく、暑さは衰えることを知らない。むしろこれからの数時間、熱気は最高潮を迎えることになるのだ。しかし、カレンを想うリアンの熱情は、陽のもたらすあつさを遥かにしのぐ熱量を有していた。

 先ほど来た道を戻り、今度は南に進路を取って、南部都市タマンを目指して歩みを進めていった。その先には、神秘の酒を密造するという件のハッカー侯爵が待っているのだ。リアンの姿勢はどんどんと前のめりになっていった。

* * *

 南大通りからタマンストリートに入る頃には、もうすっかり陽が傾いて、太陽は地平との境界を赤く揺蕩っていた。斜めに長く差し込む夕日が石畳を美しく焼いている。天頂付近からは濃紺の帳が降り始め、星々がちらほらと夜の到来を告げていた。
 しかし、そうした自然界の移り変わりなど目に入らないかのようにして、リアンの小さな足はひたすらに前に繰り出されていた。カレンとの突然の別れがもたらされたルート35を後ろ手に見送りながら、ハッカー侯爵の待つ別荘街に至るために、デイ・コンパリソン通りを南下して行く。
 あたりにはもうすっかり陽がなくなり、家々が窓に明かりを灯し始めた。シーファが、今夜は宿を取って明日朝ハッカー侯爵を訪問しようと提案したが、リアンは、自分だけで一足先に侯爵を訪問すると言って承知せず、結局二人は彼女について行くこととなった。秋が近いのであろう、陽が落ちると暗くなるのがずいぶん早くなったように思える。心なしか吹き抜ける海風に涼しさが乗るようになった。磯の香りが立ち込めて来る。小高い丘を上がって、『ハッカーの密造所』なる珍妙な看板を見つけた時には、もう陽はとっぷり暮れていた。時刻はまもなく19時を回ろうとしている。

 正面門をたたくリアン。ドンドンという音が、晩夏の宵闇にこだまする。
「ハッカー侯爵にお取次ぎを願うですよ。密造酒の材料を揃えてきたのです。」
 そう言って声を張り上げるリアンの声が届いたのか、門扉が内側から開いた。例の憮然とした表情の執事がたいそう慌てた様子で中から現れた。
「しー!お静かに。前にも申し上げましたが、あの酒のことを外で大声で仰ってはいけません。あれは密造酒なのですぞ。よろしいか!」
 リアンの口をつぐませるようにして執事は身を乗り出すが、月明かりに照らされた『密造所』の看板を見て、シーファとアイラは顔を見合わせている。
「とにかく、ご用件の趣旨はわかりました。旦那様もお喜びになるでしょうから、ひとまず中へお入りください。」
 執事は、少女たちを中へと案内した。
「今宵は、旦那様のお部屋へどうぞ。そこでお会いになります。」
 そう言って、執事は三人を最上階にある侯爵の執務室へと導いていく。少女たちは見事な彫刻のほどこされた手すりをたどって階段をのぼりながら、その後について行った。やがて、その執務室の扉が皆を迎える。

「こちらです。少々お待ちを。」
 執事は扉をノックして、中に声をかけた。
「旦那様。例の子どもたちが今戻りました。材料が無事に揃ったとのことです。こちらにお通してよろしいでしょうか?」
「おお、それは朗報だ。ここの方が都合がよい。さあ、入りなさい。」
 その返答を受けるや、執事は戸を開いて彼女たちを中へ誘った。

ハッカー侯爵の執務室。

 そこは、以前通された応接室よりは幾分手狭であったが、見事な調度品に彩られたそれはそれは豪勢な部屋で、海辺を臨む壁面一杯に広がる窓からは、青白い月が美しい姿を雲間にのぞかせていた。外からはさざ波の音が静かに漏れ聞こえてくる。
「どれ、では早速だが材料を見せてもらおうかな?」
 そう言うと、侯爵は机の上に材料を並べるように促した。『にんにく』からはじめて『とりかぶと』、『魔法鷹の爪』、『マンドレイクの根』、『メドゥーサの頭蛇』、『手長翼竜の眼』、『オグの糖蜜』がリアンの華奢な指によって並べられていく。その品々の品質によほど満足したのか、侯爵は目を細め、ほうほうとつぶやきながらそれらを食い入るように眺めていた。
「顔つきの『マンドレイク』に、これはまた糖蜜の中でも最高級品ではないか。よくもまぁこれだけ集めたものだ。実に素晴らしいですな。それでは早速仕込むとしますかな。」
 侯爵はおもむろに腕まくりを始めた。執事は何やら必要と思しき道具を揃えている。早速その酒を密造しようと言うのだろうか?

「あの、侯爵様、これからお酒をお造りになるのですか?」
 アイラが訊ねると、侯爵は満面の笑みをたたえてそれに応じた。
「善は急げと言うではないか。前にも申し上げましたが、あの酒を仕込むのに最大の課題となるのは材料集めでしてな。こうしてそれらが揃った今では、仕込み自体は容易なのですよ。特にお嬢さん方のもってきた『オグの糖蜜』は滅多にお目にかかれない極上品で。よくもあの帝(みかど)がこれをよこしたものです。これがあれば、魔法の力を借りて醸造は瞬く間に終わりますぞ。かれこれ3時間もあればよかろう。そこで待っていなさい。」
 そう言うや、侯爵は使い古された包丁を用意し、暖炉の火に鍋をかけて酒造りの準備を始めた。執事が何かとそれを手伝っている。見事な手際で切りそろえられる材料。そのいくつかは火にかけれ、煮汁を搾られる。またいくつかはすり鉢ですりつぶされ、木綿布に包まれて搾り汁を搾られていった。それらはこしきで慎重に濾されながら、大ぶりのフラスコの中に混ぜられ、ゆっくりと調合されていく。侯爵が何やら古い魔法の言葉で呪文を唱えると、フラスコの中の液体はふつふつと煮えたようにあぶくをたたえ、ほんのりと複雑な色の魔法光をたたえ始めた。澄んだ黄色い透明の、発泡性の液体となったところに、慎重に瓶のふたを開けた『オグの糖蜜』を注ぎ入れると、侯爵の言葉の通り醸造が一気に進んだのか、俄かに部屋中に芳醇なアルコールの香りが広がり、そこに『にんにく』や『魔法鷹の爪』のものと思われる香辛料の辛みを感じさせる刺すような香りが刺激的に乗った。黄色い液体は徐々に赤みを帯び始め、やがてブランデーのような得も言われぬ濃い琥珀色に変じた。あたりを覆うアルコールの香りが実に麗しい。

不思議な魔法的所作で酒を密造する侯爵。

 侯爵はやはり今では忘れられた古い魔法の言葉をつぶやきながら、そのフラスコを静かに数度ゆすった。魔法光が一層強くなり、赤茶色の透明な液体はそれはそれは素晴らしい色味の酒に変じていった。
「あれを持て!」
 侯爵が執事に命じる。
「既にご用意しております、旦那様。」
 そう言うと、執事は、格調高い古い酒瓶を侯爵に手渡した。それは侯爵が今しがた唱えていたのと同じ、古い古い時代の魔法文字が刻まれた黒色の瓶で、正面中央には円形のラベルが貼付されており、そのまた中央やや上部には、ハッカー侯爵の印章が刻まれていた。
 執事から瓶を受け取ると、侯爵はフラスコからそこに慎重に酒を移し、全てを移し終えた後で、再度呪文とともに瓶に栓をした。その瞬間、その瓶は一瞬黄金色の魔法光を眩く放った後、静かに沈黙して、いま侯爵の手の中に佇んでいる。

苦労に苦労を重ねてようやく手に入れた『ハッカーの密造酒』。

「お待たせしたの。確かに、これは君らのものだ、小さき方よ。」
 そう言って、侯爵は丁重にそれをリアンに手渡した。その酒瓶はリアンの想像よりも重かったのであろう、彼女は一瞬ふらりとした。
「君たちのおかげで、わしもまた久しぶりにこの酒の夢をみることができた。感謝ですぞ。」
 ひげを撫でながら、侯爵は礼を告げる。
「しかし、侯爵様。これを私たちが頂いたのでは、侯爵様がお飲みになることができないのでは?」
 アイラがそう気遣うと、
「いやいや、心配には及ばぬ。材料はあの通りまだ残っておるからして、わしらの分はこの後仕込むことにしようぞ。」
 そう言って、侯爵は笑みを向けた。

* * *

「では、わしの役目はこれまでですな。」
 侯爵がそう言うが早いか、三人の少女たちは眩い魔法光に包まれた。やがてその姿は光の中に消え、気が付くとタマンの海辺に転送されていた。ふと砂浜から丘の上を仰ぎ見ると、先ほどまであったはずのハッカー侯爵の別荘は忽然と姿を消しており、そこには大きな広葉樹が一本静かに佇んでいるだけのように見えた。もしかしたら、丘を見上げる方角の妙なのかもしれない、そう思って少女たちは気にもかけない様子でいる。月光とともに夜空を彩る星々が、海面の上にもう一つの空を織り成していた。

 リアンは、まるで赤子を抱くかのようにして、愛おしそうに『ハッカーの密造酒』を両腕に収めていた。その姿にシーファとアイラが暖かい視線を送っている。明日は、いよいよこれをユーティー・ディーマーに届けるのだ。
 三人はその日の宿を求めて、繁華街へと消えていった。秋の色を載せた涼しい風がその小さな背中を見送っている。

to be continued.

AI-愛-で紡ぐ現代架空魔術目録 本編後日譚第4集その8『報われた日々』完


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