第10回 宮沢賢治が見た大正十年の春
大正十年「国柱会」の詩
より深く国柱会を理解するために、田中智学著『日蓮聖人の教義』を購入した。宮沢賢治も、保阪嘉内に勧めていた書物の復刻版である。正直読解には時間が掛かるという印象である。この読解にはおなじ信仰者が岩手にいて指導を受けていたという説に頷きたくなる。(盛岡「妙宗」誌友会の村井弥八説あり)
今回は詩「国柱会」全文を引用し、宮沢賢治が見た大正十年国柱会の春をみていきたい。
ここからは春の麗らかな陽気が伝わらず、国柱会館内の冷たい空気を回想した詩である。このような冷淡とも言える描写が国柱会を批判していたと見る向きもあるが、はたしてどうだろうか。国柱会側に立った記述からみていこう。
田中智学先生略伝より
詩で描かれた時期は、大正十年春と想定される。同年一月二十四日、親友保阪嘉内宛の手紙で急遽上京した旨が伝えられているからである。
では、問題はこの冷淡な空気のもとはなにか、『田中智学先生略伝』から確認していこう。
大正十年、この年は日蓮聖人生誕七百年にあたり、同時に田中智学は還暦であった。布教活動拠点は、大正五年四月から鶯谷に法城として国柱会館が完成していた。詩の中の「この館」は、国柱会館である。
略伝によれば、四月十七日の「天業日報」に田中智学が意気消沈して衷情を明らかにした一篇が掲載された。「披雲看光録」という附録である。
中村又衛の離心
「披雲看光録」には、田中智学の衷情の由来が記載された。大正九年十一月旧獅子王文庫同人智蔵事中村又衛が異心抱いて先生のもとを去った。また一味の輩と結んで、公然と反抗、国柱会に逆らった経緯を田中智学が明らかにしたのであった。
田中智学、国柱会総裁引退
さらに四月二十八日、国柱会総裁退職、天業日報主筆の辞退を声明。退隠宣言書を公にする。理由は、「披雲看光録」に掲載された通り、中村又衛の離心を止められなかったのは自身の不徳とするものであった。つまり、宮沢賢治は還暦で総裁を引退する騒動の春、ちょうど国柱会館を訪れていたことになり、このことが陰影に富む
「国柱会」の詩に現れたといえよう。なお、詩の中の大居士は田中智学、智応は山川智応である。
山川智応....1879-1956 明治-昭和時代の仏教学者。明治12年3月16日生まれ。26年田中智学の立正安国会にはいり,日蓮主義運動に参加。雑誌,書籍の編集にたずさわり,日蓮教学の振興・普及につとめた。国柱会総務,立正大講師。昭和31年6月2日死去。77歳。(Wikipedia より)
田中智学の孫から見た詩、国柱会の世界
他にも、田中智学の孫、大橋冨士子によって、『宮沢賢治 まことの愛』において詳しく描いている。
親族からの話も貴重と判断し紹介させていただいた。詩の最後の四行は、国柱会館からみた、北国花巻への憧憬に思われて仕方ない。
終わりに
詩「国柱会」について紐解くだけで色々見えてくることがある。田中智学が引退となり、宮沢賢治が大正十年上京した春は、国柱会にとっては転換期に差し掛かっていたといえよう。
詩としては、目立った作品ではないかもしれないが、この詩をもって国柱会批判とするのは早計ではないか、と国柱会側の記述から感じるところである。
より丁寧な国柱会理解が必要と考える。宮沢賢治の国柱会信仰は、娑婆即寂光土であった。これが修行すれば、目の前に「ある」浄土なのか、「なる」浄土なのか見定めていきたい。「ある」浄土はイーハトーブと言え、「なる」浄土は、折伏の浄土かと考え中である。より丁寧に進めよう。
参考文献
『田中智学先生略伝』田中芳谷 著 獅子王文庫
『宮沢賢治 まことの愛』
大橋冨士子 著 真世界社
『宮沢賢治全集』
ちくま文庫
『宮沢賢治と日蓮展』図録
佛立ミュージアム
『漢和対照 妙法蓮華経』
島地大等 著 ニチレン出版
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