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かそけきサンカヨウ

2021/10/30

「かそけきサンカヨウ」という映画を見た。何の映画を見るの?と聞かれて、「かそかけサンケヨウ」みたいなやつ、なんて答えていたくらいタイトルが覚えられなかった。それはきっと意味のない言葉の羅列に見えていたからだ。

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映画を見終えて、まず最初に「かそけき」という言葉を調べた。サンカヨウというのは花の名前で、本編にも何度も出てくるのだけれど、「かそけき」という言葉は本編に出てこない。「幽けき」と書くらしく、「かすかに」とか、「今にも消えてしまいそうな」といった意味らしい。万葉集に出てくる言葉。なんとも美しくて、少し納得してしまう。

日本語は幅が広くて、代わりになる言葉がいくつもある。同じ意味だけれど、ニュアンスが違う・みたいな言葉たち。それが日本語という言語を難しくしている理由の一つであるのだろうけれど、ネイティブとしてぼくはこういう部分を愛している。どうしてかは分からないが、「幽かなサンカヨウ」でも「儚いサンカヨウ」でも明らかに違う感じがする。「かそけきサンカヨウ」というタイトル以外なり得ない気がしてしまう。この言葉の、密かに、静かに、でも気品があって、荘厳に。そんなイメージがピッタリと映画の内容とリンクする。


優しい世界だ、と思った。映画に出てくる人物も、みんなが優しかった。最近になってようやく気づいたことだけれど、「優しい」という言葉にもいくつか種類がある。

まず、他人の為の優しさ。そして、自分の為の優しさ。この二つは本質的にはどちらも同じような気がしている。「あの人の為にやってあげよう」というのも、見返りや自分の評価されたいという気持ちが混じっているような気がするから自分の為だ。自分の為の優しさというものは、「どっちでも大丈夫だよ」なんて言葉が思い浮かぶ。優しい言葉な気がするけれど、その奥には無責任が透けてみえる。誰かの悪口にその場でとりあえず同調する、というのもこれかも。一見優しくしているように見えるけれど、その奥では常に自分の保身しか考えていない。でも、この物語に出てくる人達はこれらの優しさを使わない。

「自分にも他人にも優しくする」のだ。誰かを傷つけてしまった時に、誤魔化さない。とりあえず励ましたりもしない。それでも、本当のことをちゃんと喋って、自分の気持ちを伝える。これは、優しさと強さとが同居していないとなかなか出来ることではない。この物語に出てくる人たちは、みな、強いのだ。立ち止まっても、迷っても、それでも自分の足で前に進める強さを持っている。そんな優しさに、憧れてしまう。

主人公の父が、「僕たちは色んなことをハッキリさせすぎたんだ」というようなことを言う。何が悪くて、誰のせいで、みたいなことをハッキリさせすぎて、そのせいで母と上手くいかなくなってしまったんだ、と。そんなことがあっても、娘には誤魔化さずちゃんと伝える。ぼくには魅力的に映ったけれど、本当にこれが嫌になってしまったのだろうか。ここに関しては少しだけ疑問が残る。ハッキリさせすぎたというより、「押し付けあってしまった」と言う方が正しいんじゃないか。映画の中のハッキリしない出来事の一つであるから、ぼくには想像することしかできないけれど。この物語の中で「曖昧であった方がいい」なんて考えは、少しだけ似つかわしくないような気がする。


最近よく思う。「優しくなりたい」。愛することが当たり前のように出来るようになりたい。悪口より愛の言葉を言う人間でありたい。誰かの為に、何かを言える人間でありたい。むやみやたらに人を傷つける人間に、なりたくはない。優しさにも色々な形があるけれど、一つの大きな「優しさ」を見せてもらったような映画だった。

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