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「文章の神」が降臨する条件

 数日間、文章を書く仕事に専念していた。大した分量ではなかったのだが、随分と時間がかかってしまった。数年間のうちに筆力が落ちてしまったのではないかと密かに恐怖してもいた。

 書けないという気分に陥ると文章は書けない。何故書けないのかを考え始め、焦燥感に駆られ、時間だけが過ぎていく。

 文章は何かの契機で突然、書けるようになる。私はこれを「文章の神」と読んでいる。いささか怪しげな表現かもしれないが、文章の神が降霊してこないとまとまった文章は書けない。

 自分自身の経験を振り返ってみると文章の神を降霊させるには条件がある。条件が整ったからといって確実に降霊してくれるわけではないのだが、この条件が整わないと神は降霊しない。それは独りであることだ。

 文章は独りでなければ書けない。他の人のことは分からないが、私はたった独りでなければ文章は書けない。友人、家族、同僚といった人たちがいる中でまとまった文章は出来上がらない。

 おかしな話かもしれないが、赤の他人がいたならば書けることもある。その場合、他人が静かでいてくれることが大前提となる。誰も家族も知人もいない喫茶店で文章を書くことは出来るのだ。私自身の悪癖なのか、性格の問題なのか、家族や知り合いが側にいたときに、沈黙しながら仕事を続けることは相手を無視しているようで申し訳ない気分になってしまうのだ。「別に静かにやっていてくれればいいよ」といわれても、何か話しかけようとしてしまう自分が存在する。さらにいえば、相手が善意から「お茶を飲む?」「お菓子食べる?」とでも尋ねてきたら、もうこれは無理だ。絶対に文章は書けない。我ながら。非常に迷惑な性格をしているものだと思う。

高校時代に国語の教科書で太宰治の『富嶽百景』を読まされたことがある。それほど面白かった印象は残っていないのだ、どうしても忘れがたい箇所があった。
 冬に旅館の二階で仕事をする太宰におかみさんが言葉をかける。二階にはストーブもなく寒いだろうから、一階のストーブの側で仕事をすればいい、と。
 親切な提案だ。だが、太宰はこんな風に書いている。

「私は、人の見てゐるまへでは、仕事のできないたちなので、それは断つた。」

確かに私も人の見ているまえで文章を書くという仕事は出来ない性質なのだ。
 話すときには、誰かが聞いていてくれなければなかなか話せない者なのだが、書くときは異なる。やはり書くことと話すことは異なる行為なのだ。
文章の神様が頻繁に降霊してくれたら、と念ずるがなかなか難しい。

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