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「メンデルスゾーンの手紙と回想」を翻訳してみる! 9

第2章-2.パリ、1831~32年:序曲『フィンガルの洞窟』

 私がメンデルスゾーンの真骨頂を初めて耳にしたのは、「獅子」ヴァレンティーニの家でのある夕べ。ベートーヴェンの三重奏ニ長調だ。
 親しい友人に自分の新曲を披露する時、彼はいつもどこか遠慮気味に演奏するところがあった。それは彼の演奏の印象を、作品そのものへの印象に上乗せしたくないという思いからだった。
 彼が、自分が持つ全ての能力をつぎ込み没頭できるのは、オーケストラ作品だけだ。偉大な巨匠の作品においては断然、彼は最高に光り輝いていた。

 その冬はバイヨと敬愛すべき老婦人キエーネ夫人の家で、彼の絶好調の演奏をよく聴いた。キエーネ老婦人は、フェリックスが少年時代に何度かレッスンを受けたことがあるビゴー夫人(この頃にはすでに亡くなっていた)のご母堂だ。
 彼は、バイヨと共にバッハとベートーヴェンのソナタを、四重奏団の伴奏でモーツァルトの協奏曲を、そして素晴らしい即興カデンツァを聴かせてくれた。他にも、彼の自作のピアノ四重奏曲ロ短調や、いろいろ。
 バイヨのサークルは小さかったが、どこまでも音楽的で洗練されており、そしてすべての音楽に対して、一種宗教的な信仰にも似た真心をもって耳をそばだてていた。

 メンデルスゾーンはパリに序曲「フィンガルの洞窟」の草稿を持ってきていた。
 フィンガルの洞窟を見た時、普通にその姿形が見えただけでなく、主要な主題を含む最初の数小節が実際に聞こえてきたんだ、と彼は私に語った(※)。
 同じ夜、彼は友人クリンゲマンと共に、スコットランド人の一家を訪ねた。
 応接室にはピアノがあったが、日曜日だったので音楽を奏でるなどは論外だった。メンデルスゾーンは全力で説得して、なんとか1分間だけピアノのふたを開ける許可をもらい、クリンゲマンと二人で、あの見事な序曲の主題の萌芽を耳にすることができた。
 だがその序曲がデュッセルドルフで完成するまでには、さらに数年の月日がかかった。

 パリの音楽家たちの間では、アブネックが才能ある若者に深い関心を寄せていた。彼が指揮する交響楽団の名演奏家たちはみな彼を慕っていたが、若者からは特に敬愛されていた。
 彼らの多くは私の友人でもある。彼らはアブネックに会うと喜んで抱きついていた。フランス人らしい親愛表現だ。
 その中でも特筆すべきは、名チェリストのフランコム、バイヨの弟子で才能あるヴァイオリニストのキュヴィヨン、ソーゼイだ。ソーゼイは後に、バイヨの娘婿になった。

「メンデルスゾーンはすごいよ」と彼らはよく語った。「なんて才能、なんて頭脳、なんて構成力!」
 キュヴィヨンは彼に心置きなくなんでも話した。そしてフェリックスはある晩それをだいぶ加筆して、全部私にバラした。
 彼がバイヨにあこがれてパリに上京し、バイヨからレッスンを受け、彼が夢見ている王子様みたいな暮らしのこと――彼は詳細に人生設計をしていた。その後、この第三身分に身をやつしたヴァイオリニストの王は、慎ましく暮らし、一日中レッスンをして、ピアニストの若い女性と結婚し、オーケストラで演奏しましたとさ!
 彼はそれをとても悲しんだ。そんな未来がやってくるなんて少しも想像していなかっただろう。


※注:これは確実に正しい情報。
 彼が家族に宛てた手紙――拝見させてくださったカール・メンデルスゾーン博士の配意に感謝する――の中で、スタファ島への経路と洞窟内について書き、「ヘブリディーズ諸島にて 1829年8月7日」と日付を記している。まるで島で手紙を書いたかのように。
 その手紙には「私がどれだけ打ち震えたかお目にかけよう、次のような音楽が浮かんできたんだ」という文言があり、続けて序曲の楽譜の冒頭10ないし12小節が書かれている。6週間後、彼は家への手紙を「またね【楽譜】 F.M.B」と締めくくった。


以下、解説という名の蛇足(読まなくていいやつ)

 パリ編の2回目は、メンデルスゾーンのエモい性質からスタートする。
 自分の作品を友人たちに演奏して聴かせるとき、いつもどこか遠慮がちに演奏する、というヒラーのこの証言だ。
 つまりまだ世に出す前、「こんなん作ってみたんだけどどうかな?」と親しい人たちに先行して聴いてもらう場。
 普通だったら全力の演奏で聴いてもらいたいところだと思うのだが、「演奏のすばらしさ」を抜きにして「曲だけで」評価を下して欲しいと。
 逆に言えば、自分の演奏は素晴らしいという自覚があったことにもなる。ああエモい。

 個人的な印象だが、フェリックス・メンデルスゾーンという人は、他人に厳しい人というイメージがある。相手を認めていればなおさら。
 だがそれ以上に彼は、自分に厳しい人だった。だから厳しくされた人たちも何も言えない。
 その自分への厳格さは、ユダヤ人という出自でゴチャゴチャ言われることが多かったメンデルスゾーンが、誰にも文句を言わせないために身に着けた性質なのかもしれないし、あるいは『ロマン派』というどっちかというと地に足ついてないフワフワしたものが取り沙汰される時代に、自分だけは古典派の流れと偉大さを忘れずにいたいという強い意志からきたものかもしれない。
 色々ひっくるめてエモい。便利な単語だな「エモい」。

 原文では「レオ=ヴァレンティーニの家」となっているこの部分、レオ=ヴァレンティーニが地名なのか人名なのかさえ分からずめちゃくちゃ調べた結果、もしかしてこの人のことか? という方を見つけたので一応載せておく。

★ゲオルグ・ヴィルヘルム・ヴァレンティーニ(Georg Wilhelm von Valentini, 1775-1834)
 ドイツの軍人、軍事教育家、軍事作家。最高階級は中将(プロイセン軍)。ナポレオン戦争に参戦、オーストリア、ロシア、オランダ、ベルギーなど各地を転戦。
 プロイセンの鉄十字勲章、プール・ル・メリット勲章(最高名誉勲章)、赤鷲勲章、勤続章、オランダのウィレム軍事勲章、ロシアの聖ウラジーミル勲章、聖アンナ勲章、聖ゲオルグ十字章を受章した、勲章お化け。
 晩年はベルリンに居を構えた。

 ドイツ語の原典も確認したしドイツ語資料もいくつかあたったが、この方くらいしか見つからなかった。
(どうでもいいがドイツ語のフラクトゥール(ひげ文字)が似てる文字が多すぎて困る。VとBの見分けに苦しんだ結果ValentiniとBalentiniをどちらも検索するという暴挙に出て時間を無駄にした)
 パリ編だしパリ在住の人物を探していたのだがあまりにも検索ヒットしないから、ベルリンにいた頃の話をしているのかな……それだとこの方かな……? と思った。
「レオ」はファーストネームだと思ってめちゃくちゃ探したけど。ファーストネームだとしたら「ヴァレンティーニ」との間をハイフンで繋ぐのにも若干違和感があったので、勇猛ぶりから『獅子』と呼ばれたりしたかな……という、まあぶっちゃけほぼ推測である。
 何かご存じの方がいたら教えて欲しい。

 ベートーヴェンの三重奏曲ニ長調は、第5番(op.70)にあたる。
「幽霊」という愛称で呼ばれるこの曲、メンデルスゾーンはどんな名演奏をしたんだろう。エジソンがあと百年早く生まれてくれていたらなあ(暴論)。

 メンデルスゾーンがパリに滞在したのはこの1831年~1832年の冬の間だけ。クリスマスやニューイヤーをどんな風に過ごしたのかとか気になる。
 この短い期間に、メンデルスゾーンは多くの著名な音楽家と親交を深め、共演し、可愛がられた。
 キエーネ夫人は、メンデルスゾーンが少年時代に父と姉とパリへ旅行した時、ピアノを教わった先生マリー・ビゴーの母親だ。

★カタリナ・キエーネ(Catharina Leyer-Kiené)
 フランスのピアニスト。マリー・ビゴーの母。
 夫はヴァイオリン奏者のヨーゼフ・キエーネ。
★マリー・ビゴー(Marie Bigot,1786–1820)
 コルマール(アルザス)出身フランスの作曲家、ピアニスト、ピアノ教師。ピアノをベートーヴェンに、和声と作曲はオベールとケルビーニに師事。
 1804年に結婚した夫ポール・ビゴー・ド・モローグ(1765-)はラズモフスキー伯爵の司書だった縁で、ベートーヴェンと親交を持った。
 ウィーンではハイドン、サリエリ、ベートーヴェンと親交をもち、パリに戻ってからはバイヨ一家、ケルビーニ、オベールと交流した。
 ベートーヴェンの熱情ソナタを初見で弾いたという逸話がある。
 1816年、パリで幼いファニーとフェリックスにピアノを教えている。

 キエーネ夫人自身も才能あるピアニストだったので、バイヨやメンデルスゾーンの演奏はとても楽しんだだろう。
 10年以上前にすでに亡くなった娘の弟子が、体も能力も大きく成長していろいろ聴かせてくれるのも感慨深かったろうと思う。娘となにかと縁のあるソナタ「熱情」も弾いたのかな。

 マリー・ビゴーは、ベートーヴェンがお好きな方は名前を聞いたことがあるかもしれない。
 ベートーヴェンがビゴー夫人に馬車で出かけようよ! 娘さんも一緒にぜひ! と若干強引めに誘ったけど、浮気だと疑われると困るんでと断られて、そんなつもりじゃなかったんだよという弁解の手紙が残って(しまって)いる相手だ。
 マリー・ビゴーは、ナポレオン戦争のゴタゴタで夫が投獄され、幼い子供二人を抱えて家計のためにピアノ教師となり、1820年に34歳の若さで肺結核で亡くなってしまっている。

 この時代のパリでは、ピアノは貴婦人たちに絶大な人気を誇っていたが、室内楽はどちらかというと男性支持が高めだった。
 その中でも人気実力ともに最高峰とされていたのが、バイヨが率いる「バイヨ弦楽四重奏団」だ。
 前回少し解説したので今回は解説を省くが、国立音楽院の教授たちで結成されたこの四重奏団は、パリのみならず、どの街へ行っても大盛況で迎えられた。
 バイヨはパガニーニのライバルなんて呼ばれたこともあったようだが、基本的に一匹狼だったパガニーニとは正反対だったみたいだ。
 この辺はだれか創作とかにしないんですか???

 そして話題は序曲『フィンガルの洞窟』へ。
 フィンガルの洞窟は、スコットランド・ヘブリティーズ諸島の中の無人島・スタファ島にある、柱状節理が見られる洞窟だ。
 19世紀以前からすでに、観光名所として人気だった。

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 上は1804年のエッチング画、下は1900年のカラー写真だ。
 柱状節理というのは、簡単に言えばマグマが冷えて固まるときに規則正しく割れ目が入って柱状の岩になったもの。

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写真:Wikimedia Commons
 火山国である我らが日本にも各地で見られる。福井の東尋坊や兵庫の玄武洞などが有名らしい。行きたい。

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 フィンガルの洞窟はこのあたり。リンクも貼っておいたので、リンク先で拡大縮小してみてね。
 スコットランドの都市・グラスゴーも地図内に入れてみた。
 あと一部の酒好きには有名な島・アイラ島も入れておいた! フィンガルの洞窟の真南。スモーキーでおいしいモルトウィスキーの生産地で有名すぎる島だ。こんなに近かったんか。
 アイラウィスキーをひっかけつつ序曲『フィンガルの洞窟』を聴きながらフィンガルの洞窟を見に行くのが、筆者の夢のひとつだ。船酔いしちゃうかな……?

 筆者のささいな夢を上に記したが、序曲フィンガルの洞窟をモバイルで流さなくても、メンデルスゾーンはそこで何かを「聞いた」らしい。
 この辺はヒラーも、自分のあいまいな記憶だけじゃなく、フェリックスの長男であるカール・メンデルスゾーンが保管していた書簡にもあるから! 確実だぜ! と注をつけている。
 まあ正直、えっなにそれオカルト? 怖い話?? ヒラーさん話盛ってる?? と思われてしまいそうなエピソードだもんな分かる。

 フェリックスの長子で長男のカール君(1838-1897)については、きっとこの連載の後半に登場してくれるものと思うのでネタバレみたいになってしまうが、9歳で父を、15歳で母を亡くし、叔父パウル・メンデルスゾーン(メンデルスゾーン銀行を継いだフェリックスの弟)の下で育った。
 著名な歴史家になり、ハイデルベルクやフライブルクの大学で教鞭をとった才子だ。
 パウルとカールの叔父甥コンビで、1830年~47年のフェリックス・メンデルスゾーンの書簡集を編集・出版している。

 さて、不思議にも洞窟で聴いたそのメロディが消えてしまわないうちに、お世話になっているスコットランド人のお宅でピアノをほんのちょっとだけ使わせてもらい、メロディを採譜した。
 この時同行していたクリンゲマンさんについては、すぐに調べがついてありがたかった。

★カール・クリンゲマン(Karl Klingemann,1798-1862)
 ドイツ(ハノーヴァー)の官僚、外交官、作家。
 メンデルスゾーン一家が住んでいたベルリンのライプツィガー通り3番地の建物内にハノーヴァー大使館があったため、1825年ごろメンデルスゾーンと知り合った。
 メンデルスゾーンの友人で、300通を超える往復書簡がある。
 カマチョの結婚(op.10)や異国からの帰郷(op.89)の台本も書いている。

 メンデルスゾーンの親友と言って差し支えない、親しい友人だ。クリンゲマンはイギリスに本拠を置いた時期が多いので、メンデルスゾーンがイギリス周辺へ向かうときはよく会い、同行している。

「日曜日に音楽を奏でることなど論外」との記述に、日本的宗教観しか持ち合わせない筆者は首を傾げ、そしてGoogle先生に尋ねた。
 日曜日がキリスト教で安息日などと呼ばれることはぼんやりと知っていたのだが、ユダヤ教ではより厳しく、安息日の禁忌事項が決まっていたようだ。
 というか、時代が下るにつれどんどん拡大解釈されて、禁忌事項が増えていってたらしい。長く続いてる宗教あるあるなんだろうか。
 ただ、ユダヤ教の安息日は土曜日だ。金曜日の夜から始まる。
 じゃあ日曜日に音楽を奏でるべきでないのは、メンデルスゾーンが洗礼を受けたキリスト教の方か。
 なんだか色々な情報が出てきて、それらをちょこちょこ拾い読みした結果、自分的に一番納得できる説を見つけた。
 日曜日はミサなどお祈りをする日だから皆が教会へ向かうように、労働やスポーツ、舞踊、音楽、演劇などの娯楽を禁じた、という説だ。
(宗教関連に詳しい方には、きっと反論や異説もあるとは思うのですが、あくまで自分の中で、一番すとんと収まった説です)
(あとサバトが安息日って意味なのも初めて知って驚いた。安息日なのに働いたり集会開いたりするから魔女認定されたの? この辺も調べると深そう)

 日曜ミサでは讃美歌なども歌うだろうし、家庭や劇場などでの演奏が禁止だった(時代があった)のだろうと思う。
 パリでは日曜定期演奏会もあったし、一部の敬虔な方々がこの風習を続けていたのではないだろうか。
 そしてメンデルスゾーンは、ユダヤの出自に誇りを持っていて、だが不敬虔なベルリオーズの言動にドン引きした程度には敬虔なキリスト教信者でもある。
 その禁忌を破ってまで、1分間だけピアノを使う許可を得て聴き拾った旋律を採譜したメンデルスゾーン。音楽に全力だ。
 ちなみにユダヤ教の安息日はちょっと調べただけでもものすごく厳しくて、もしユダヤ教徒のままだったら、まずこの日にフィンガルの洞窟に旅行に行けてなかったかもしれない。
 同じnote内で、イスラエルで安息日にご出産された方の記事が興味深かったので、リンクを貼ってみる。ご興味があれば。
スタートアップネーション・イスラエル人の考えていること…安息日に出産

 才能ある若者を支援することは、同じく才能ある者の義務と考える偉い人は大好きだ。自分だけで完結しないすごさ。
 国立音楽院教授にして、音楽院管弦楽団の音楽監督・首席指揮者を務めるアントワーヌ・アブネックも、間違いなくそのひとりだった。
 彼を慕う若者たちもまた、才能ある者たちだった。だんだん才能という単語の安売りみたいになってきたが仕方ない。会うと弟子に抱きつかれる教授っていいなあ。かわいい。ケルビーニじゃこうはいかんだろうな。
 その中でもヒラーが特筆している3人がこちら。

★オーギュスト・フランコム(フランショーム)(Auguste-Joseph Franchomme,1808-1884)
 フランスの作曲家、チェロ奏者、音楽教育家。
 ボーマン、ルヴァスール、ノルブランらに師事。当時のフランスを代表する若手技巧派チェリストだった。メンデルスゾーン、リスト、ショパン、ヒラーらと親交をもつ。
 多くのオーケストラに所属・共演し、音楽院管弦楽団は創設時からのメンバー。
 ショパンと親しく交流し、「悪魔のロベール」の主題による大二重奏を共作した。

 フランショームは、今では「フランコーム」が正しい発音とされているが、先述の乙女ゲームで「フランショーム」呼びで馴染んでしまったのでそう呼ばせていただく。
 余談だが、このシリーズ中での人名カタカナ表記は、興味を持った人が日本語で検索しやすい表記を採用しているつもりだ。
 生誕地と活躍地が違うと、活躍地の言葉風の呼び方が定着していたりする。チャールズ・ハレなのかカール・ハレなのかシャルル・アレなのかっていうあれだ。
 フランショームは日本語wikipediaの記事タイトルがフランショームだからこれで行きます(長い言い訳)。

 フランショームは現在では「ショパンの友人・共作者」ということでいちばん名前が残っている気がするが、当時はパリを代表する若手チェリストだった。生涯エンドピンを使わなかったことでも(一部で)有名。
 王立室内楽団で首席チェリストなども務めていたし、劇場オーケストラや教会オーケストラをいくつも掛け持ちしていた。
 のちに室内楽のほうに力を入れるため、バイヨの弟子のヴァイオリニスト、ジャン・デルファン・アラールのアラール四重奏団などで活躍する。音楽院のチェロ科教授も務めた。

 キュヴィヨン、ソーゼイについては資料が少なかった。本文中でかわいそうな目に遭っているキュヴィヨン君は特に。重ねてかわいそう。

★キュヴィヨン(Jean de Cuvillon, 1809-1900)
 ダンケルク生まれフランスのヴァイオリン奏者、音楽教育家。ヴァイオリンをアブネック、バイヨに、作曲をライヒャに師事。
 音楽院ヴァイオリン科で1825年に2等、1826年に首席。
 1830年から1870年まで国立音楽院管弦楽団に在籍。国立音楽院ヴァイオリン科の教授として教鞭もとった。

 もし、「ここだけの話ですよ」「内緒ですよ」なんて言ってメンデルスゾーンに夢を語っていたとしたら、目も当てられないくらいかわいそう。
 ヒラー、全部聞いたってよ。

★ソーゼイ(Charles Eugène Sauzay,1809-1901)
 パリ生まれフランスのヴァイオリン奏者、音楽教育家。ヴァイオリンをバイヨに、作曲をライヒャに師事。バイヨの娘婿。
 1828年音楽院管弦楽団創設時からのメンバー。1872年に退団。
 音楽院ヴァイオリン科で1825年に2等、1827年に首席。対位法とフーガのクラスで1827年に2等。
 1840年ロワイヤル座オケ・1853年オペラ座オケでヴァイオリンソロ。
 1860-1892ジラールの後任として音楽院教授。1861年レジオンドヌール勲章受勲。
 バイヨ四重奏団にヴァイオリンとヴィオラで参加。のちにピアニストの妻や、フランショームらと自分の四重奏団を組む。

 ソーゼイ君はバイヨの後継者として頑張ったようだ。そしてキュヴィヨンもソーゼイも長生きだなあ。
 キュヴィヨン君の野望について、ヒラーがだいぶからかい口調で書いていて、ちょっとやめたげなよ~~キュヴィヨン君可哀相じゃん~~~などと肩を持ちたくなる気持ちもあるのだが、ただ彼、「メンデルスゾーンキラー」という不穏な異名をとっているらしいのだ。
 もしかしたらヒラーもちょっと意地悪な気持ちで、ここに「お前の話全部聞いたからww」って書いた可能性もある……かも?
 それともその恨みからメンデルスゾーンキラーになったんだったら、やっぱりかわいそうかも。
 なんにせよ、この時はこんなに持ち上げていたのに、何がどうなって彼はメンデルスゾーンキラーになったのか?
 この異名については調査を継続したいところだ。

次回予告のようなもの

 うわー今回も長いな!? もっとコンパクトに読みやすい記事にしたいのに……。

 次回は第2章-3。メンデルスゾーン、太鼓をたたくの巻!
 このエピソードは個人的に大好きなところなので、うまく訳せるといいな。

 ここまで読んでいただき、ありがとうございました!
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