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「メンデルスゾーンの手紙と回想」を翻訳してみる! 8

第2章-1.パリ、1831~32年:『ワルプルギスの夜』

 

 すでに公表されているメンデルスゾーンの書簡では、当時はヨーロッパの首都とでも言うべき場所だった、フランスの首都への訪問によって受けた影響を、様々な形で示している。
 ここでも他の街と同じように彼は、人々に、演奏に、状況にふれるたび、偏見の目を向けられたり距離を置かれたりした。そして他の街と同じように、少々のすったもんだの末に諦め、それを受け入れた。
 七月革命後の数年間は、フランス近代史上最高の時代のひとつだ。
「栄光の三日間」の印象は、いまだ人々の記憶の中で色褪せてはいない。全てが新しい刺激を受けた。中でも文学と芸術は、特別刺激的で活気ある営みにあふれていた。

 我らが愛する音楽については、これ以上望むことなどない様子だった。
 いわゆる国立音楽院管弦楽団は、アブネックの指導の下で、全ての活動が生き生きと新鮮だった。ベートーヴェンの交響曲が完璧に演奏され、熱狂的に受け入れられた――例外もあったが、私はその場に立ち会ったことはない。
 ケルビーニはテュイルリーの教会のためにミサ曲を書いていた。グランドオペラの分野では、マイアベーアがその名声を勝ち得た出世作「悪魔のロベール」を、 ロッシーニは「ウィリアム・テル」を書いていた。スクリーブとオベールは彼らの活動の最盛期で、最高の歌手すべてが、イタリア座とオペラ座に集結していた。
 あらゆるピンキリの芸術家達がパリジャンからの栄冠を得ようと、こぞってやってきてパリに住みついたものだ。

 バイヨは、年齢を重ねてもなお、若い頃にひけをとらない情熱と詩情あふれる演奏をした。パガニーニはオペラ座で、12回のコンサートシリーズを開催。カルクブレンナーはその見事な手腕で、クレメンティスクールの主宰を務めていた。ショパンはメンデルスゾーン到着の数か月前にパリでの初出版をしたところだ。そしてリスト――パガニーニからすさまじい衝撃を受けたばかりでまだ公にはあまり名を聞かなかったが、一番人並外れた偉業を成し遂げたのは彼だった。
 ドイツの室内楽はあまり流行らなかったが、バイヨ弦楽四重奏団には熱狂的なファンがおり、厳格な音楽を優美で上品に奏でる名演奏家たちは、ドイツとフランスの数々の邸宅で大歓迎を受けた。
 そのような状況下で、メンデルスゾーンが最高の音楽界にどれだけ暖かく迎えられたか、容易に想像できるだろう。

 彼のパリ到着に関して一番最初に思い出したのは、あの「ワルプルギスの夜」だ。
 彼がイタリアから持ってきたあの微細で緻密で繊細な楽譜を、今でもありありと思い浮かべられる。長らく私の部屋に置いてあったが、何度見ても最初に見た時と同じくらい幸せになれた。
 それくらいとても印象深かったので、16、7年後にはじめて実際に耳にし指揮した時もまだ、まったく身近に感じていたくらいだ。
 彼は他にも、無言歌ホ長調(※)を演奏してくれた。
 それをスイスで書いていた時、誰かに聴いてもらいたいと目に見えてジリジリしていたそうだ。彼は到着してすぐ、フランク博士と私に弾いて聞かせてくれた。新しく考案されたその呼び名は、後に乱用されるようになってしまった。
 生み出されたばかりの時に知り、のちに大人気になったその曲たちには、子供の頃からよく知っていた子が有名になっていくのを見守る、父のような代父のような気持ちを抱いている。

※注 無言歌集第1集、第1曲。


以下、解説という名の蛇足(読まなくていいやつ)

 今回からとうとう、第2章パリ編に突入した! 乙女ゲームを作るために必死こいて調べた時代と重なるので、筆者自身も楽しく訳せると、そう思っていた。
 この怒涛の人名ラッシュを見るまでは……。
 今日の記事は長くなりそうだ。読まなくて全然いいからね。飛ばし読みとか斜め読みとか推奨。

 著者であるヒラーは、メンデルスゾーンのパリ来訪に先立ち1828年からパリで暮らしている。ショロン音楽学校などで教鞭をとっていたらしい。
 七月革命が起こった時もパリにいて、18歳のヒラーは革命の熱をその身で感じていた。1830年7月27日~29日に起こったこの革命の3日間が、「栄光の3日間」と呼ばれる。
 1789年のフランス革命で市民によって王政が倒され、帝位について大暴れしたナポレオンがつまづいた後、1814年にウィーン体制という秩序回復の名のもとお偉いさんから再度押し付けられた復古王政。
 市民たちがそれに、再度きっちり「NON」をつきつけた1830年のこの事件を、18歳という多感な時期に目の当たりにしたヒラーがどんなことを思ったのかは、正直興味があるが、本題ではないのでほどほどで。

 当時のパリを「ヨーロッパの首都」と表現する資料には、今までに複数回出会った。
 文化も、経済も、市民の思想も、当時のヨーロッパで一番進んでいて、周りを牽引する存在感を持っていたのは間違いないと思う。もちろん、それを歓迎する人ばかりではないことも。
 だが少なくとも、文化人であるヒラーはこの急進的な街で大いに楽しみ、活躍していたみたいだ。
 メンデルスゾーンがどうだったかはまあ……、この第2章を通して読んでご判断いただきたい。

 ユダヤという出自は、どの街へ行ってもメンデルスゾーンに付きまとった。そしてどの街でも、そんな偏見の目に何度かは反撃や弁解を試みて、結局はいつも、受け入れるしかなくなる。
 現代日本に生きる(しかも思考停止気味の)自分にとっては、ユダヤといえばWW2のホロコーストが真っ先に浮かんで、ナチスが悪いナチスのせいみたいな短絡的な思考に陥りがちでもあるのだが、ユダヤ人差別を始めたのがナチスってわけじゃないのだった。もっともっと、ずっと根が深い。
 でもやっぱりこの記事ではそれは本題ではないので(メンデルスゾーンを語る上では避けずに通れないとも思うが)、ここで長くは語らない。
 そのうち番外編的な感じでまとめてみたい気もしなくはないが……難しいテーマだ……。圧倒的勉強不足。勉強しなきゃ。

 さてここからは、怒涛の人名・用語解説だぜ!

○国立音楽院管弦楽団(Orchestre de la Société des Concerts du Conservatoire)
 1828年にアブネックによって創設された管弦楽団。パリ音楽院の教授や同窓生を中心に結成されたオーケストラ。
 奏者のレベルが非常に高く、完成度の高い演奏が聴ける日曜演奏会は大人気を博す。
 1828~32年までかけて、ベートーヴェンの交響曲9曲全てをパリ初演した。

 パリ滞在中の1832年のシーズンには、メンデルスゾーンも何度かこのオーケストラと共演している。
 2/19の演奏会では序曲「夏の夜の夢」の演奏、3/18にはベートーヴェンのピアノ協奏曲で、メンデルスゾーンがピアノを担当したらしい。

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 こちらは1843年3月の、国立音楽院ホールで行われた演奏会の様子。1843年3月の日曜演奏会は、3/12と3/26の2回行われていた。どちらの公演だろうか。
 3/26はソリストとして大人気歌手ポーリーヌ・ヴィアルドーさんが出演していたので、彼女を描かないということは3/12の方かもしれない。
 奏者席がひな壇になっていて、しかも演台みたいに胸から下が隠れるスタイルなのは面白い。ちゃんと客席まで音が飛ぶんだろうか。
 国立音楽院管弦楽団については、英語サイトだがものすごい情報量のアーカイブがあるので、興味のある方は見てみてほしい。
 メンバー一覧から会計報告書(Financial Results)まで見れる。すごい。
 ちなみにこの管弦楽団は、1967年の解散まで139年続いた。

★フランソワ・アントワーヌ・アブネック(François Antoine Habeneck, 1781-1849)
 フランスの作曲家、音楽教育家、指揮者、ヴァイオリン奏者。バイヨに師事。弟子にアラールなど。
 オペラコミック座、オペラ座の奏者を経て、1821年にオペラ座の音楽監督に。1825年からは音楽院ヴァイオリン科教授も務める。
 1822年にレジオンドヌール勲章を受章。
 1828年に音楽院管弦楽団を創設。以降1848年まで20年間首席指揮者を務めた。

 当時50歳のアブネックさんは、パリにベートーヴェンを知らしめた人としても名を残している。
 彼の指揮するベートーヴェンを聴いて、大いに刺激を受けたベルリオーズやワーグナーが、のちに大曲を書くことになるので、アブネックの功績は大きい。

★ルイジ・ケルビーニ(Luigi Cherubini, 1760-1842)
 イタリア出身でパリで活躍した作曲家、音楽教育家。芽の出ない時期が長かった、遅咲きの音楽家。
 代表曲にはオペラ作品やミサ曲が多くあるが、特に『レクイエム第1番 ハ短調』は、ベートーヴェンを始め多くの音楽家の絶賛を受けた。
 1822年からパリ音楽院の学長を務めており、外国人のリストの入学を拒否したり、入口を間違えたベルリオーズを図書館から追い出したり、数々の音楽家の回想に「クソマジメで融通利かない人」役で登場している感じ。

 この時書いていたという『テュイルリーの教会のためのミサ曲』がどれなのかは分からないが、年代だけで考えると、1825年に初演・出版された「シャルル10世のためのミサ・ソレムニス」だろうか?

★ジャコモ・マイアベーア(Giacomo Meyerbeer, 1791-1864)
 ユダヤ系ドイツ人で、フランスで活躍した作曲家。フォーグラー、ツェルター、クレメンティ、サリエリらに師事。ウェーバーとは同門。
 代表作に『エジプトの十字軍』、『悪魔のロベール』、『ユグノー教徒』、『預言者』、『アフリカの女』など。
 ユダヤ人も市民権を持てるパリに進出し、オペラ作曲家として大活躍。一世を風靡したが、一部の批評家からはなんか蛇蝎のごとく嫌われている。
 メンデルスゾーンとはモーゼス・イッセルレス(Moses Isserles, 1530–1572)を祖とする遠い親戚。
(余談だが、現在活躍するチェリスト・文筆家のスティーブン・イッサーリスも同じ祖を持つ遠い親戚である)

 当時のパリでは、『グランド・オペラ』と呼ばれる、金と労力と優秀な人手を惜しげもなく注ぎこむ超豪華なオペラが大人気だった。
 ヒラーも挙げている『悪魔のロベール』は、1831年11月の初演から1893年まで、751回上演の超超ロングランヒット作だ。パリの音楽家たちはこぞって作中のメロディを使って作品を作り(※当時の著作権は今のものとはちょっと違う概念)、瞬く間に10か国語に翻訳され、100以上の都市で上演されたらしい。

★ジョアキーノ・ロッシーニ(Gioachino Antonio Rossini, 1792-1868)
 イタリア出身の作曲家、料理家、レストラン経営者。
 パリグランド・オペラの立役者と呼ばれ、数多くのオペラ作品を残す。代表作に『アルジェのイタリア女』、『セビリアの理髪師』、『ウィリアム・テル』など。ハピエン好き。
 人生の半分くらいでガーッと働いて生涯年金を勝ち取ってから、37歳で引退しもう半分をほぼ遊んで暮らすという羨ましい人生を送った。QoLが高い。

 ロッシーニはここに書かれた『ウィリアム・テル』を最後に大作の作曲はせず、生涯年金を受け取りながら、趣味の料理をしたり小曲を作ったりしながら、悠々自適の引退生活を送る。あこがれる。

★ウジェーヌ・スクリーブ(Augustin Eugène Scribe, 1791-1861)
 フランスの劇作家・小説家・オペラ台本作家。著作権保護を目的とした「劇作家・作曲家協会」の設立者。
 もともとは法律家になるべく教育を受けていたが、劇作家に転向。1820年に新設されたジムナーズ座の専属作家として、生涯に200本以上の作品を作る(共作含む)。
 上述の『悪魔のロベール』の台本もスクリーブの作。他にもオーベール、マイアベーア、アレヴィ、ドニゼッティなどなど多くの作曲家にオペラ台本を提供している。

 スクリーブさんは、いわゆる『歴史をもとにしたフィクション』を得意とした作家だったらしい。史実を下敷きにするが、物語の展開上面白くなりそうなら迷わずフィクションをぶち込む。筆者が大好きなやつである。
 また、台本作家には珍しく、台本書き上げたらあとは演出や監督におまかせというタイプではなく、リハーサルもしっかり出席し必要とあらば作曲家に何度でも修正をさせる鬼脚本家だったようだ。
『悪魔のロベール』も、スクリーブさんの怒涛の修正依頼は初演後にまで及んだらしい。マイアベーアさんお疲れ様です。

★フランソワ・オベール(François Auber, 1782-1871)
 フランスの作曲家。多くのオペラ作品を残す。代表作に『ポルティチの唖娘』、『フラ・ディアヴォロ』、『黒いドミノ』、『マノン・レスコー』など。スクリーブと組んだ作品が多く、過半数にあたる38作品でタッグを組んでいる。
 1842年から、ケルビーニの後任として音楽院の学長を務めた。

 ヒラーが『スクリーブとオベール』とニコイチで紹介したということは、「脚本:スクリーブ 音楽:オベール」のタッグのことを言っているのかもしれない。
 二人のタッグ作でこの年代に初演された作品は、1823年の『レスター』から始まり、1831年までに14作品もある。多作。

1823年
・『レスター Leicester, ou Le château de Kenilworth』(オペラ・コミック座)
・『雪 La neige, ou Le nouvel Eginhard』(オペラ・コミック座)
1824年
・『3つの様式 Les trois genres』(オデオン座)
・『宮廷演奏会 Le concert à la cour, ou La débutante』(オペラ・コミック座)
・『レオカディア Léocadie』(オペラ・コミック座)
1825年
・『石工 Le maçon』(オペラ・コミック座)
1826年
・『はにかみ屋 Le timide, ou Le nouveau séducteur』(オペラ・コミック座)
・『フィオレッラ Fiorella』(オペラ・コミック座)
1828年
・『ポルティチの唖娘 La muette de Portici』(オペラ座)
1829年
・『許嫁 La fiancée』(オペラ・コミック座)
1830年
・『フラ・ディアヴォロ Fra Diavolo, ou L’hôtellerie de Terracine』(オペラ・コミック座)
・『神とバヤデール Le dieu et la bayadère, ou La courtisane amoureuse』(オペラ座)バレエ有。
1831年
・『媚薬 Le philtre』(オペラ座)
・『侯爵夫人 La marquise de Brinvilliers』(オペラ・コミック座)作曲家も数人で合作した作品。

 さみしいことに、どれも現在はあまり演奏される機会がない。ポルティチの唖娘などは、当時の作曲家の二次創作作品をよく見かける気がする。

 オペラ座、イタリア座は、『セリフがすべて歌われるオペラを上演できる』特権を持っていた。そしてもちろん、ともに当時のパリで人気の劇場だった。イタリア座ではイタリア語で書かれたオペラを、オペラ座ではフランス語で書かれたオペラを上演するという決まりがあった。
 1791年に公共の劇場を作ることが緩和されてからこっち、パリにはそこかしこに劇場が作られた。完全なオペラは上記の特権を持つ劇場に行かなくては観劇できなかったが、それでも人々は、セリフ劇や音楽劇を楽しんだ。
 劇場の数からも、ブルジョワたちの娯楽としてどれだけ人気だったかが伺える。そして、どれだけ音楽と物語が切望されていたかも。
 それまでは王侯貴族くらいしか楽しむことができなかった音楽作品が、市民のもとまで届くようになったのは、文化的には大転換と言えると思う。

1832年時点でのパリの主要な劇場
○オペラ座
○コメディ・イタリエンヌ(イタリア座)
○コメディ・フランセーズ(パレ・ロワイヤル座/フランス座)
○オペラ・コミック座
○ヴァリエテ座
○オデオン座
○ジムナーズ座
○ポルト・サン・マルタン座
など

 当時の名演奏家(ピアニストを除く)は、だいたいこの中のどこかのオーケストラに所属しているので、その辺を調べてみるのも面白い。

★ピエール・バイヨ(Pierre Marie François de Sales Baillot、1771-1842)
 フランスの作曲家、ヴァイオリン奏者、音楽教育家、指揮者。ヴィオッティに師事。クロイツェルらと同門。弟子にアブネック、ソーゼイなど。
 ナポレオンの管弦楽団、オペラ座管弦楽団、王立管弦楽団などの首席奏者を歴任し、後年は国立音楽院で教鞭をとる。
 ポーランドの女流ピアニスト、マリア・シマノフスカとの共演や、バイヨ四重奏団としての活動が有名。
 ヨーロッパ各地を演奏旅行し、各地で熱狂的な歓迎を受けた。
 一時は「パガニーニのライバル」とまで呼ばれた名演奏家。

 1825年3月に父と一緒にパリを訪れたメンデルスゾーンが、「プロに認められたら音楽家を目指すことを許そう」と言われてその判断をゆだねた相手が、ケルビーニとバイヨ。
 ピアノ四重奏第3番を(メンデルスゾーンによるとあんまり思い通りの演奏ではなかったようだが)演奏後、認められたという逸話がある。
 余談だが、バイヨ四重奏団はショパンのパリデビューコンサートでも、ピアノ協奏曲(室内楽版)の伴奏で協力した。

★ニコロ・パガニーニ(Niccolò Paganini, 1782-1840)
 イタリアのヴァイオリン・ヴィオラ・ギター奏者、作曲家。
 代表曲に『ラ・カンパネッラ』、『24の奇想曲』など。
 超絶技巧演奏者として有名で、当時のオカルト趣味も相まって「悪魔と契約した」だの言われ、いろんな意味でヨーロッパ中を熱狂の渦に叩き落した。
 当時の音楽家で、パガニーニの影響を全く受けずにいた者はほとんどいないだろう。

 パガニーニは、この時代の音楽について調べるときに絶対に避けられない有名人。
 悪魔的な超絶技巧を誰にも継承しなかったこと、エンターテイメント性の高いサーカスみたいな演奏、退廃的な人生、どれをとっても賛否両論だった。
 パガニーニは1831年にパリオペラ座で演奏会を開いている。この時の様子を描いたとされるドラクロワの絵がある。

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 カルクブレンナーは、リストやタールベルクが登場するまでパリでNo.1の技巧派ピアニストとして人気を博していたピアニストだ。
 同時代人の回想などの逸話を見る限り、演奏はともかく、人格やふるまいは若干の冷笑や風刺の的だった気もするが。
 「メンデルスゾーンの手紙と回想」の中でも、トホホなエピソードをしっかり収録されてしまっている。

★フリードリヒ・カルクブレンナー(Friedrich Wilhelm Michael Kalkbrenner, 1785-1849)
 ユダヤ系ドイツ出身の作曲家、ピアニスト、音楽教育家、ピアノ製造者。
 主にイングランドとパリで活躍。ルイ・アダン、カテル、アルブレヒツベルガーらに師事。弟子にマリー・プレイエル、スタマティなどがいる。
 1798年からパリの国立音楽院に学ぶ。ツィメルマンはピアノ科の同級生。
 ピアノメーカー・プレイエル社の共同経営者であり、名ピアニスト養成器具の仕掛け人でもある。
 当時の二つ名は「ピアノの王」。功名心が強い。

 カルクブレンナーの「クレメンティスクール」は、当時彼が開いていたマスタークラスのことだと思われる。
 すでに才能のある人しか入れないこの講座、マリー・モーク(のちのプレイエル夫人)も受けていたし、ショパンも勧誘された。
 カルクブレンナーは、クレメンティを現代ピアノ奏法の祖とあがめ、自分の稽古にも生徒たちの稽古にも、クレメンティを積極的に取り上げた。同時代人から見ても、「クレメンティの後継者」と呼ぶに値する存在だったようだ。
 カルクブレンナーはクレメンティ本人に師事したことはないようだが、アダンのクラスでクレメンティをよく勉強したことと、クレメンティの弟子のモシュレスの演奏に感銘を受けたらしいので、そのあたりが彼をそうさせたんだろうか。

★フレデリック・ショパン(Frédéric François (Fryderyk Franciszek) Chopin, 1810-1849)
 ポーランド出身でフランスで活躍した作曲家、ピアニスト、音楽教育家。ジヴニー、エルスネルに師事。
 あがり症で演奏会をほとんど開かなかったにも関わらず、パリで大人気を博した。特に貴婦人たちからの人気はすさまじい。
 故郷ポーランドを愛しながらも、終生故郷へ帰れなかった。
 メンデルスゾーンとは趣味と気が合うようで、そこそこに親しくしていた。
 ケルビーニと墓が近い。
★フランツ・リスト(Franz Liszt(Liszt Ferenc), 1811-1886)
 ハンガリー出身で、フランス・ドイツ・オーストリア=ハンガリーを中心にヨーロッパ全土で活躍した作曲家、ピアニスト、指揮者、音楽教育家。
 チェルニー、サリエリ、パエール、ライヒャらに師事。
「鍵盤の魔術師」、「僧服を着たピエロ」、「6本指のピアニスト」など二つ名には事欠かない。
 幼少期病弱だったに関わらず同時代人の中ではだいぶ長命で、長きにわたり活躍。キャリアの前半はスター的な演奏家として、後半は音楽界の重鎮として後進の教育や音楽の普及に尽力した。

 もうこのあたりになると、説明を省いてもいい気がするが、一応軽く説明を入れておく。
 カルクブレンナーの次世代の、スターピアニストたちだ。
 メンデルスゾーンのパリ到着の数か月前に、ショパンが初めてパリで出版した楽譜は、おそらく「3つのノクターン(op.9)」だと思われる。
 リストは神童としてすでにパリでそれなりに名をあげていたが、身分を理由に失恋して引きこもったりしている。
 パガニーニの演奏を聴いてものすごい衝撃を受け、「ピアノのパガニーニに俺はなる!」(意訳)と叫び、それまで以上に超絶技巧を磨いた。
 ヒラーは彼の演奏を高く評価していたが、メンデルスゾーンにはちょっと合わなかったようで、作曲は演奏以下だし演奏は派手すぎるなー、と思っていた模様。
 メンデルスゾーンは早世してしまったので叶わなかったが、後年の落ち着いたリストも聴いてみてほしかった。

『最初のワルプルギスの夜』(op.60)は、メンデルスゾーンのカンタータ。ゲーテ本人から勧められて、ゲーテの詩に曲をつけたもの。 
 イタリア旅行中にほぼ書き上げて、パリで完成させた作品だ。初演は1833年ベルリン。どうやらヒラーはこの演奏は聴けなかったようだ。
 のちに一部を改訂し、1843年にライプツィヒのゲヴァントハウスで演奏されている。ヒラーが指揮をしたのはさらに後だ。
 楽譜を見るだけで「何度見ても幸せな気分になれた」というヒラーの言い回しが可愛らしくてニヨニヨしてしまう。

★ヘルマン・フランク(Hermann Franck, 1802-1855)
 ドイツの小説家。ベルリン大学で学び、哲学博士号を受ける。音楽と文学に造詣が深く、マタイ受難曲の蘇演に際して絶賛の記事を書いた。
 メンデルスゾーン、ハイネ、フンボルト、ベルネ、ヒラー、マイアベーア、ショパン、リスト、ワーグナー、シューマンなど、多数の著名人と親交を持っていた。
 妻はプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の姪。
 弟はメンデルスゾーンの弟子で音楽家のエドゥアルト・フランク。

 フランク博士は当時パリに住んでおり、多数の音楽家たちと親しく付き合っていた。これからパリに向かうから、着いたらヒラーとフランク博士に聞いてもらうんだ~早く聞かせたいな~~とジリジリしているメンデルスゾーンも想像するだけで可愛い。
 パリ編にはフランク博士が何度か登場する。チェスのエピソードはなかなか可愛いので、読んでもらえたらうれしい。

 無言歌という呼び名は姉のファニーが考案したという説もあるが、初めて作品を出したのはメンデルスゾーンだ。その後、いろんな作曲家にこの名が使い古され手垢まみれにされた、というような口ぶりだ。ヒラーおこ。
 ともあれ、有名になる前から知っている曲が人気になっていく様を見守るヒラーは、父のような気持ちだったと書いている。
 インディーズ時代から応援していたバンドがメジャーデビューしてスターダムにのし上がっていくのを見守るファンにも似ているような気がする。
 ともあれ、無言歌は現代までのこりメンデルスゾーンの代表曲になった。


次回予告のようなもの

 今回、人名があまりにも多くて、アホみたいな長さになってしまった。1万文字越えてる。ヤバ。
 8時間くらいPCにかじりついているので、明日の首肩腰が心配だ。
 パリ編は、聞いたことない人名やちょっとググっても全然ヒットしてこない用語などが多くて、苦労する気がする。頑張ろう。

 さて次回は、第2章-2。序曲「フィンガルの洞窟」の巻です。
 あの超絶カッコいい名曲(※個人の感想です)序曲『フィンガルの洞窟』の誕生秘話が語られる!
(次回も人名モリモリなので今から少しずつ準備したいところ……)

 最後までお読みくださりありがとうございます。
 次回もよかったら読んでくださいね!

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