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「言葉」がない風景(2)

Dくんの姿は、当時の私の姿そのものに映った。朝、家を出て学校に到着し、帰宅するまではずっと日本語が聞こえてくる。周囲は色々と自分を気にしてはくれるけれど、もうお腹いっぱいなのだ。「勘弁してよ、ちょっと休ませて」と心が悲鳴を上げている。「それでもこのプリントが終われば、僕は家に帰ることができる、だから僕はさっさとこれを片付けているんだ、、」。そんなふうに彼の姿は言っているようにみえた。

あの時の自分の姿と重なり、私はいたたまれなくなった。隣に座らずに彼を一人にした方がよいだろうか、と思った。が、一瞬迷いながらも、話しかけずにただ座っていることにした。そう、それは、アメリカ時代にお世話になったポラン先生が私にしてくれたように。

ポラン先生は前述の先生の後に、学校側が私に引き合わせてくれた先生だった。おそらく発達障害の子などの特別な支援を必要とする生徒を担当する先生だったのだと思う。私は早朝の特訓から逃れ、放課後、ポラン先生の部屋に行くことになった。先生は決して急がなかった。高いテンションで話しかけてきたり、質問攻めにすることはなかった。そして、とても些細なことをいっぱい褒めてくれた。日本に興味を示し、私は何度も先生に折り紙を教えた。放課後になるまではポラン先生とは会えないが、彼女が学校にいるというだけで私は安心感を得ることができた。

Dくんの隣でボーッと座りながら、私はポラン先生のことを思い出していた。私はスマホを取り出し、ヴェトナムの地図を書いた。

そして、日本語で彼に聞いた。
私「Dくん、私はね、2017年にヴェトナムに行ったんだよ。ハノイに従兄が住んでいてね。遊びに行ったの。Dくんはヴェトナムのどこに住んでいたの?」

彼は私の言っていることが分かったのか、自分が住んでいた場所の名前を地図に書き込んだ。
その後、私はヴェトナムを旅したときの写真を見せた。その瞬間、彼の顔は変わり、写真に移った風景に飛びついた。

上4枚は2017年にヴェトナムに行った際のもの。ハノイの市場など。
下2枚とアオザイ姿の私は2000年に旅したダナンのものである。

写真の一枚一枚をじっと見ながら、ヴェトナム語で言葉を発していた。その姿は渇いた土が雨水を勢いよく吸い込んでいくようであった。アメリカ時代の私も週に一度通っていた日本語補習校で、友達と日本語でおしゃべりをし、日本の漫画や音楽に触れ、枯渇した心を満たしていた。
実は公民館に行く前、私はこの写真を彼に見せるかどうか、ちょっと悩んでいた。懐かしさがこみ上げ、心を混乱させたくはなかったからだ。でもかつての自分もそうであったように、私は一応持っていくことにした。が、こんなにも反応を示してくれるとは思わなかった。

写真を見た後、彼は少しだけ私に親しみを持ってくれたようで、その後、質問にぽつりぽつりと答えてくれた。彼の家族全員の誕生日やその日給食に食べたものなどを話してくれた。共通言語がないため、私は日本語を話しながら、絵を描き、ジェスチャーで話すのだが、私の絵がありえないヘタさなので、Dくんが描き込んでくれた。

ヴェトナムはスマホを見ながら、なんとか描けたのだが、これは、アメリカ合衆国です(泣)。
Dくんも「?」な顔をした後、怪獣に変えてくれた。そして棒人間まで描いてくれた。
アメリカに向けて矢を向けているのは敵意ではなく、怪獣に向けて描いています。

棒人間で何かを表現する子は、自分の息子もそうであったように、絵が得意なことが多い。もしや? と思い、私は自分のスマホケース(息子が描いた絵)を見せてみた。
そのとき、彼は身を乗り出して「さ か な」と言った。
それは私が初めて彼の口から聞いた日本語の言葉であった。
私は嬉しかった。心が躍った。いきなりその日に来た見知らぬ中年のおばさんを隣に座らせてくれ、自分のことを少し話し、自然に口から出た言葉だった。

またしても、私はポラン先生とのことを思い出していた。
ポラン先生との勉強が始まり少し経過した頃、私は会話の中で咄嗟に "Really?” と言ったことがある。それは、教科書にある文を読んだものではなく、会話の中で自然に口から発した言葉だった。
間違えても、何か変なことを言ったとしても、どんなボールでも受け止めてくれるポラン先生だから、私の心はオープンになり、いつの間にか脳に貯蔵されていた言葉をネイティヴの子が発するように使ったのだった。

日常会話では特に驚くべきこともなく、頻繁に使われる言葉だが、私にとっては特別な瞬間であった。ポラン先生はその小さくも確かな変化を逃さずキャッチし、"Yoko (私の名)! You said REALLY!!!" と言いながら、とても喜んだ。大好きなポラン先生が喜ぶ姿を見て、私も嬉しかった、
先生は、それは言葉に思いが自然に入ったものであり、声に出す心のゆとりが私の中で芽生え始めたことに気づいていたのだった。

今こうして振り返ると、ポラン先生の偉大さに改めて気づく。誰かの心の変化を読み取ることは、相手に心を向けることである。時に寄り添いながら、またある時はちょっと離れた場所から、、相手に言葉を投げかけることもあるだろうし、ただ隣に座ることもあるだろう。先生はよく私の肩を優しくさすってくれた。「言葉はわからなくても、私はあなたのことが好きですよ、私はあなたの隣にいますよ」と、その手からいつもいつも言われていた気がする。

ポラン先生との出会いから35年。Dくんとちょっとではあるが時間を共にし、先生が当時、どんな気持ちで私に接していたのか、少しだけ触れたような気がした。共通言語を持たない相手、それも大人ではなく、弱い立場にある子供を前に、どんな気持ちを抱いていたのか。子供を産んではじめて親の気持ちが少し分かるように、逆の立場から感じるものは、感謝の念や謙虚な姿勢であったり、尊い。

***

午前中、Bさんから学習支援ボランティアのことを聞き、その日に公民館でDくんと出会い、流れるように一日が過ぎた。終了後、ボランティアの登録を提出した。Bさんに「えぇ!今日提出しなくてもいいんだよ。毎週のことだし、ゆっくり考えてからでも」と言われたが、そこに通うことは自然な計らいで、逆に行かなければ自分の心に小骨が引っかかり続ける、と思った。

「絵本とお菓子がある場を作りたい」と最近の私は思い巡らせてきた。
が、「これはあなたが今やることです。できる準備が整ったのでやってください」と、最近読んだ本の言葉*を借りるなら、神様からの電話がかかってきたような気がするのだ。
「これは私の使命のような気がする」と容易く言うにはおこがましく感じるし、「使命」という言葉を使う程、意気込むつもりはない。が、親になった日から我が子の世話をすることが自然なように、私にとってDくんや彼らと関わることは、「今やること」なのだと思う。

ひょんなことから始まったボランティアであるが、日本語を教える専門的なスキルはおろか教員免許さえ私は持っていない。そんな私が彼らの役に立てることはあるのだろうか。おそらく教えることよりも、教わることの方が多いだろう、と思う。でも、私はDくんが好きだ。Dくんをはじめ、ここに通う子達と少しの間だけでも、同じ時を共にできたらいいと思う。

*『明日を思いわずらうな』, ムケンゲシャイ・マタタ,  幻冬舎

Dくんが日本語で「さかな」と発したスマホケース。魚は偉大である。


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