革命の時代

今日本国は不治の病に冒されている。しかしどんな病も、死ねば治る。日本国も一度死なせてしまえば良い。



大唐帝国はその名を世界史に残す大帝国だった。花の都長安では阿倍仲麻呂のように何処のどういう出自であろうと優秀ならば活躍出来た。



しかし一方で唐は徹底した貴族社会だった。だから唐は明らかに中世であり(中国の時代区切りを西欧歴史学のそれで表現するのは間違いだとは思うが)、近世ではなかった。唐朝でも科挙はあったが、貴族の門閥が力を握り、科挙官僚は門閥の力に及ばなかった。



唐が倒れて宋が中国を統一する間に中国史の大変革時代があった。この時代の変革を、「唐宋変革」と呼ぶ。漢民族のみならず多種多様な民族、部族、何処の馬とも知れない連中や盗賊上がりまで、色々な勢力があい乱れて中原に鹿を逐った。多くの戦乱があい続き、民衆は塗炭の苦しみを舐めた。



だがこの騒乱の中で、太古から続く門閥貴族は没落し、庶民の中から実力でのし上がった連中が力を握った。彼らは貴族としての権威はないから、宋朝は絶対君主制になった。しかしこの絶対君主制というのは、皇帝が全てを決定したわけではなく、科挙官僚が国を動かす時代になったのだ。貴族の家柄は絶えたから、皆平等に科挙で選ばれた者だけが高級官僚となり実質的に国を動かした。もちろん科挙に合格するには猛勉強が必要で、その勉学にいそしめるのは一定の経済力がある人々に限られたが、ともかく勉学さえすれば科挙に挑めた。商人だろうが農民だろうが科挙を受けることは出来たのだ。皇帝は選ばれた士大夫のあいだのバランサーに過ぎなかった。



この結果、宋朝では中国社会が大きく変わった。それを象徴する現象として唐の首都長安と宋の首都開封の違いがある。長安は世界の首都であったが商売は東市、西市に限られ、自由にすることは出来なかった。開封では町中に商店が溢れた。長安は夜になると町の隔壁が閉ざされ自由な往来は出来なかったが、開封は不夜城だった。24時間眠らない都市はここに誕生した。清明上河図(せいめいじょうがず)はその開封の賑わいを今に伝える、貴重な歴史の資料である。



宋代に士大夫を輩出した階層は大商人が主体だったから、宋は経済大国になった。ありとあらゆる産業が勃興した。一方で、宋は国防以外に軍事費を使おうとはしなかった。というのは少し聞こえがよすぎる言い方で、宋代は北に遼、金などの異民族大国があり、彼らの侵入を防ぐのがやっとだったというのが実情だが。唐が世界帝国であったのに対し、宋はあくまで中国本土に限定された帝国であった。



学術文芸の面においても宋代の位置づけは大きい。一般に「宋改」という言葉が使われるが、宋は文芸学術技術のあらゆる面で革新的であり、過去を一旦整理するとともにそれを近代化した。私の専門である医学も、宋代に徹底的に改変された。それは医学の進歩という意味では大変大きなものがあったが、逆に唐以前の中国文化はその姿をほとんど留めていない。全部宋の人々が近代化してしまったからだ。宋代以前の中国文化というのは、発掘によってしか分からない。しかし宋代の人々に取ってみれば、合理主義のもと全てを近代化(当時の人々の感覚からすれば現代化)したわけで、充分な合理性があったのだろう。



ともかく、中国史は唐までと宋以後は大きく変わった。その変革をもたらしたのは、唐と宋の間の戦国時代であった。日本の戦国時代も、それ以前の貴族社会と江戸時代という武士と大商人の社会を大きく隔てた。内戦や戦乱というのは多くの人が死に、悲惨なものではあるが、歴史的にはそこで大変革が起きて次の時代が始まる契機になるのだ。近くは太平洋戦争がそうであった。貴族制は廃止され、天皇は象徴になり、アメリカ支配の元の擬態としてではあるが民主主義が成立した。



しかしその日本国の寿命も、そろそろ尽きようとしているように私には思われる。政治は腐敗を極め、怪しげな宗教もどきの集団が裏で跳梁跋扈し、権力を左右していることが明るみに出た。我々が政府だと看做していたもの、権力と思っていたものが、実は傀儡であったことが明らかになった。もう誰も今の日本国の政治権力を信用する者はいない。変革が必要なのだ。しかもその変革は、生ぬるい漸進的なものではなく、確固とした革命的なものでなければならない。既存の古い、土台から腐った体制を一掃し、新しい時代を作る必要があるのだ。その為には多くの犠牲が出てもやむを得ない。いや、無数の人々が犠牲にならなければ、そう言う時代変革は成し遂げられないのである。


革命の時代が来た。

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