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IWAO'S CAFEで、【長距離電話の向こうの街〜山口岩男・ギター1本ひとり旅】連載開始します。

僕は平成9年(1997年)2月から平成12年(2000年)10月までの3年と8ヶ月、山形のタウン誌「うぃずY」に「長距離電話の向こうの街〜山口岩男ギター1本ひとり旅」と題したエッセイを連載していました。33才から37才まで、約4年間の旅の記録です。エッセイは全部で44回連載し、トータルの文字数は約9万字に及びました。これはちょうど単行本一冊分にあたります。

 平成元年(1989年)にメジャーデビューした僕ですが、レコード会社が期待するような結果を出すことが出来ずに、1994年にはレコード会社・事務所とも契約が終了、95年からはフリーでライブを中心に活動するようになりました。自分でブッキングして、ギター1本担いで全国を旅した記録がこのエッセイです。

 音楽業界がバブルに浮かれていた80年代後半に、「レコード会社のイチ押しアーティスト」として鳴り物入りでデビューした僕は、最初からバックバンドを付けてもらい、ローディ(楽器担当者)、音響オペレーター、照明オペレーターまで同行するツアーをさせてもらっていました。

 楽器類は楽器車とローディに任せて、自分でギターを運ぶこともなく、バンドメンバーとスタッフは新幹線移動。総勢10人を超えるチームで移動しても、行った先のライブハウスではお客さんがヒトケタ…のような時もあり、         

「これで成り立ってるのかな?」

といつも思ってはいましたが、すべてはバブルが成した技。お金がどんどん廻っていて、レコード会社も事務所も、「ジャンジャン金を使え!」という指示が現場に飛んでいた…という、今ではまったく考えられない狂乱の時代だったのです。

 そして終わりは突然訪れました。93年の12月にリリースしたアルバム「遠い昔、僕らは…」を最後にレコード会社との契約が終了、同時に事務所との契約も打ち切りとなったのです。サポートミュージシャンであれば、いろんなアーティストを掛け持ちしているのでこのような事はないのですが、僕は突然すべての収入が絶たれてしまいました。

 印税があるじゃないか、と言っても、当時の事務所との契約上、印税はまず事務所の銀行口座に入金されるシステムになっており、僕のケースでは事務所をやめた後も、結局本人には1円も支払われることがありませんでした。しかしそれは当時珍しい話ではなく、バブル期に雨後のタケノコの如くにデビューした多くのアーティスト達は似たような境遇にあったのです。

 突然レコード会社と事務所をクビになって呆然としていた1994年の暮れに、当時親しくしていた他の事務所のスタッフが連絡をくれました。そして彼がその場で方々に電話してくれて、あっという間に10本近くのライブが決まり、翌年の春から、僕はギターを担いでひとりきりのツアーを回るようになったのです。

 大金をかけた大勢でのツアーから一転、一人きりで旅をする日々。あまりの変わりように唖然としながらも、それはそれで楽しい日々でした。多くの人と出会い、僕はいろんな場所で大声で歌い、ギターを弾きました。毎晩酒を飲み、語り、時には泣きました。このエッセイに登場する方々は、今も連絡が取れる方もいますが、多くはもう今後会う事はないだろうなぁ…という人たちです。何人かは、もうこの世を去ってしまいました。

 この文章には、90年代の匂いがギッシリと詰まっています。この時代を経験された方々には、僕が綴った物語に、みなさんそれぞれの想いを重ね合わせて、ほろ苦い青春映画を見るように読んでいただけるだろうと思います。

 多くの人に支えられて僕は今、50代後半に差し掛かった今も元気でミュージシャンとして活動しています。このエッセイに登場するみなさんすべてが僕自身の一部でもあり、一緒に同じ時代を生き抜いた同志です。もう会えない人が多いけれど、改めてありがとう、と心からお礼を言いたいです。
 このエッセイが載った「うぃずY」全号を大切に保管しておいてくださって、僕に提供してくれた長年のファンである菊口徳彦君、本当にありがとう。そしてこのエッセイの多くの場面で一緒だったアイツ…コロムビアレコード仙台営業所の宣伝マンであった親友、故小林英樹にこのエッセイを捧げます。どうもありがとう。
2021年5月吉日

再びまたライブ会場で会える日を夢みて
山口岩男

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