「死」と「いのち」を歌う、「うるわしの白百合」という讃美歌
「うるわしの白百合」という讃美歌は、Alice Jean Cleatorというアメリカ人の女性の詩である。
キリスト教会が、イースターによく歌ってきた讃美歌だが、本場のアメリカではほとんど歌われなくなっているらしい。
もしかすると、今は日本だけに生き残り、歌われ続けている歌かもしれない。
1.うるわしの白百合 ささやきぬ昔を
イエス君(きみ)の墓より
いでしましし昔を
うるわしの白百合 ささやきぬ昔を
百合の花 ゆりの花 ささやきぬ昔を
2.春に会う花百合
夢路(ゆめじ)よりめさめて
限りなき生命(いのち)に
咲きいずる姿よ
3.冬枯れのさまより 百合しろき花野に
いとし子を御神(みかみ)は
覚ましたもう今なお
讃美歌496番
インマヌエル讃美歌457番
この讃美歌は、死に打ち勝ったイエス・キリストを現わしていると考えられる。
百合の花が、まるで三日目によみがえったイエスの出来事を歌っているように、「ささやきぬ昔を」と表現しているのだろう。
「死」は、全ての人に訪れる。
これは決して、避けられない現実である。多くの人は、「人間は死んだら終わりだ。」と考えているのではないだろうか。
どんな人も、どんな力も、素晴らしい人生も、「死」の前には無力だ。
人は、墓を目の前にして、ただ悲しみ、痛み、絶望するしかない。「死」と「墓」が、私たち人間の、人生のゴールだ。
しかし、この小さな詩は「死」の先を歌う。死んで、死に打ち勝ち、よみがえられた方を百合の花に託して歌う。
「死」は終わりではない。
「死」は敗北ではない。
「死」は絶望ではない。
「死」で終わらない、力ある「いのち」の歌なのだ。
2番は、「死」に勝つ「いのち」を歌う。
夢路(ゆめじ)よりさめて
死の眠りからの目覚めの朝を歌っているのだろう。神が、「起きなさい、復活の朝が来た」と起こして下さる。しかし、この「いのち」は「死んだ」先のことだけではない。
かぎりない生命(いのち)に 咲きいずる姿よ
と続けて歌うが、これは、「死」に勝つ「いのち」で、今を生きる姿だ。
かぎりない生命(いのち)とは、永遠のいのちのことであるが、これはずっと死なずに生きるということではない。
いつも「今」を力強く生きる「いのち」のことだ。
「今」を生きられなくなることが、
「死」なのだ。
自分が信じていたものに、裏切られる。
見上げていた希望が、崩れ去る。
全ての努力が水の泡となる。
自分のいのちの価値のなさを思い知る。
もう死んでしまいたい。
そんな絶望の「今」を生きているとき、私たちが歌うことができるのが、この讃美歌なのだ。イエス・キリストは、この歌の百合の花のように、いつも、今もなお、私たちにささやいてくれている。
「あなたも、今を、 力に満ちて生きてみないか」「私と一緒生きていかないか」と。
3番の最後に、こう歌う。
いとし子(ご)を御神(みかみ)は
覚ましたもう今なお
この「いとし子」とは、
イエス・キリストのことだけでなく、
私のこと、
そして、あなたのことでもあるのだ。
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