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【連載】明けない夜はない コロナ病棟の現場から(1)|ブラジルで迎えたパンデミック|渋谷敦志

世界各地の紛争や飢餓、災害の現場で、人びとの姿を写してきた、写真家の渋谷敦志さんに、コロナ専門病棟を取材されてのルポルタージュをご寄稿いただきました。連載(全3回)の第1回目です。

マナウスで接したパンデミック宣言の報

 2020年3月11日、世界保健機関(WHO)が新型コロナウイルスの感染拡大を「パンデミック(世界的大流行)」と宣言して、まもなく1年が経つ。2021年2月中旬の現在、国内のワクチン接種の動きがようやく始まり、終息まで続くトンネルの先にほのかに明かりが見えてきたかな、そんな心持ちでこの原稿を書いている。

 3月11日といえば、東日本大震災が起きた日でもある。2011年のその日、ウガンダにいたぼくは、発生の1週間後に帰国し、すぐに被災地に駆けつけ、しばらくのあいだ無我夢中で取材した。

 そして昨年の3月11日、COVID-19と名づけられた新たな感染症が人類の存亡にかかわる脅威だと認定されたその日に、ぼくはまたもや日本から遠く離れた場所にいた。パンデミックは地震や津波とはまったく異なる現象だが、未経験の大きな出来事の発生を海外で知った偶然が重なって、当初は不思議な既視感を抱いたものだった。

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 そのとき、ぼくはブラジル・アマゾンの中心都市マナウスにいた。ベネズエラとの国境近くにある難民キャンプを取材することになっていた。マナウスに来る途中に立ち寄ったブラジリアで日本大使を訪ね、大使館から難民キャンプを管理するUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)へとつないでもらい、キャンプに入る協力を得ていた。ブラジル最北ホライマ州の州都ボアビスタへのフライトも購入、準備は万端、さあいよいよ明日出発というタイミングで、UNHCRのスタッフから電話がかかってきた。キャンプに入る許可が取り消されたのだ。「難民キャンプにコロナウイルスを持ち込むリスクがある」のが理由だった。ぼくが日本から来たからだろうか。真意は不明だったが、返す言葉が見つからないまま、お礼だけ伝えて電話を切った。

 心配がまったくなかったわけではなかった。正体不明の新型ウイルスの感染が中国からイタリアへ急激に拡大しているさなかだった。それでも、3月4日にブラジル最大都市のサンパウロに到着したとき、マスクをしているのは自分くらいで、思っていたよりも楽観的な空気に触れ、東京にいるよりもむしろ安心だと感じていた。ただ、ブラジルとイタリアの結びつきが強いのは気がかりだった。たしか3月4日時点で、イタリア帰りの男性から2例目の感染者が判明していた。遅かれ早かれ感染拡大は避けられないだろうが、それはまだ少し先の話だろうと自分に都合よく考えていた矢先、計画は頓挫した。

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アマゾン川の上流域を飛行機から撮影

忌避され、留め置かれ

 時間を持て余したぼくは、気分転換をかね、前から行きたかったペルーとコロンビアとブラジルの3か国が隣接する町タバチンガへ飛んだ。かなりの奥地だ。我ながらなかなかの迷走ぶりだ。でも、こんな成り行きの旅でしか巡り合えない光景もあるかもしれないと考え、こりずにカメラを持って国境の町に繰り出した。

 すると、市場や街角を歩いているだけで、「コロナ、帰れ」「マスクしろ」などと言葉を浴びせられたのだ。ブラジルは学生時代に1年間暮らした国で、そのあとも何度も訪れている第二の故郷のような場所だ。これまでどんな田舎を旅しても、そんな幼稚な嫌がらせを受けたことは一度もなかった。未知の感染症に対して不安を抱くのは仕方のないこと。とはいえ、「ジャポネース(日本人)、シネース(中国人)は近づくな」といった物言いは些事として受け流せない。人を差別しないウイルスより、ある意味でたちが悪いと感じた。偏見という毒を矢尻にぬり、アジア系を一括りに的にして、言葉の矢を放つ。悪意さはさほどなかったと思いたいが、見ず知らずの人が自分をどう見ているのかわからない薄気味悪さは嫌だった。

 もちろん、ブラジル人の大多数がそういう心性の持ち主ではないことを知っている。むしろ、差別的言動に厳しいお国柄だ。それでも、ごく一部の人がウイルスに感染するよりも早く不安に感染してしまっていたのはたしかで、ブラジルが誇る寛容の精神が思っていたよりも壊れやすいものだということを肌身で感じた経験だった。

 インターネットもろくにつながらないし、くさくさした気持ちで宿でゴロゴロしていてもつまらない。せっかくここまで来たのだからと陸路でブラジルからコロンビアへ移動し、レティシアという町からアマゾン川を周遊する船旅に出た。

 ところが、まもなくブラジルとの国境が封鎖されるようだと同船していたコロンビア人から聞かされる。レティシアはアマゾン奥地にある陸の孤島のような場所。そこに取り残されるのはまずいと思い、慌ててブラジル側に戻った。その翌日、国境は閉じられた。人の自由な往来が制限されて鎖国に向かっていくさまを、ただただ見ているしかなかった。

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 同じころ、リオデジャネイロやサンパウロに住む友人らから、「申し訳ないが、今回は会えない」と立て続けに連絡が入る。アマゾンをさまよっているあいだに、事態はどんどん悲観的な方向へと変わっていたのだ。ブラジル・アマゾンの終着地の町で友人に会う楽しみまで奪われたことを悟り、気持ちの行き場もなくなっていく。消沈に追い討ちをかけるように、日本への帰国便が欠航した。

 八方塞がりの中、とにもかくにも、サンパウロまで戻った。代替の帰国便があてがわれるのを待ちながらの自主隔離生活だ。宿泊先はAirbnbで借りた1泊1000円強の部屋。初夏のカラッとした青空を窓から茫然と眺めていると、ふと気がついた。旅を住処とするようにカメラを持って世界のさまざまな土地を移動し、自分の力ではどうにも抗えない不条理によって隔離された人びとを取材していたつもりが、いつのまにか自分が世界から締め出され、サンパウロに留め置かれてしまっている。まるで写真のネガが白黒反転してしまったかのようなオチがそこで待っていようとは。

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銀⾏や外国企業のビルが⽴ち並ぶ南⽶⼀のビジネス街
「パウリスタ⼤通り」でも⼈通りはまばら

サンパウロのロックダウン

 3月23日時点でブラジル全国の感染者数は1891人、死者数は34人。ブラジルでもステイホームが求められていたが、自宅にこもっていては仕事ができない人たちのあいだで感染がまたたく間に拡がっていた。サンパウロがもっとも深刻な状況だった。イタリアのような感染爆発が起きると、脆弱な医療体制ではとても太刀打ちできない。そんな焦燥感は日増しに強まっていた。

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“共にウイルスに打ち勝とう”
3⽉23⽇の朝刊全紙共通のメッセージ

 感染拡大を抑えるため、サンパウロ州政府は21日に非常事態を宣言し、24日からは外出自粛と商業施設の営業停止を命じ、市境の移動にも制限をかけることになった。ロックダウン(封鎖措置)というやつだ。食料や薬など生活必需品を売る店は営業を続けるというが、品不足を心配し、カップヌードルなど食料を買いだめして備えた。

 閑散としたバールで最後のカフェを飲みながら、世界中で同様に隔離生活を余儀なくされている友人らと電話やSNSで情報交換する。それぞれの場所でそれぞれの苦労がある。それを知ったところで自分が直面している問題が解決するわけでもないが、程度の差はあれ、世界中のすべての人が同時に困難を経験していると知って、塞ぎがちな気持ちはいくぶん和らぐ。パンデミックが起きたときにどうなるのかを、異国で身をもって経験するなんてなかなかないこと。そう互いを励ました。そうすると、この前代未聞の出来事にくしくもブラジルで遭遇するなんて、運命的な巡り合わせではないかという思いも湧いてきたのだ。

 ロックダウン前夜、この瞬間にこの場所にいたことを記録しておきたくなり、留学時代から馴染みのあるエリアを駆け足で見て回った。パウリスタ大通りからリベルダージ街を回り、セントロ地区のセー広場へ。普段なら夜でも賑わう街路に、見慣れた光景はなかった。ルース駅やサンタ・イフィジェニアの家電街は、人通りが少ない分、路上生活者や麻薬中毒者、売春婦(夫)の姿が際立つ。こんなに多かっただろうか。自然界から発生したコロナ禍が、この国が長らく背を向けてきた「持てる者」と「持たざる者」との格差という根の深いところにあった問題をあぶり出しているということか。富裕層の男性がイタリアから持ち帰ったウイルスが、ステイホームするホーム自体がない極貧層へと拡がっていくのは時間の問題だが、置き去りにされている弱者への手当てなくして、コロナ禍に打ち勝つ術などあるのだろうか。

 そうわかったふうに思うだけで実際は何もせず、現実に背を向けるようにカメラで擦過して通過していくだけの己の不遜さに嫌気を覚えながら、タクシーで宿に戻った。

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 「コロナはグリッペジーニャ(ちょっとした風邪)みたいなもの」
 ボルソナーロ大統領はこのウイルスの危険性を軽視し、経済重視の発言を繰り返して火に油を注ぐ。さすが「トロピカル・トランプ」だ。この期に及んでなおぶれていない。そう斜に構えてビールを飲んでいた夜、周りの住民が、家の窓を開けて鍋を叩く「パネラッソ」で、心ない為政者に対して抗議の意思を表している。ぼくも窓を開けて手拍子で呼応しながら、自分にとって叩くべき鍋は何だろうと考え、悶々と夜空を眺めた。

帰国、そして、ぼくの課題

 紆余曲折(本題が遠ざかるので詳細は割愛)を経て、3月29日に帰国を果たす。羽田空港でPCR検査を受けたあと、結果が判明するまでは公共交通機関を使ってはいけないと厳命され、やむなく徒歩で帰ることにした。自宅までおよそ40キロメートル。妻に連絡すると「時間たっぷりあるし。100キロの半分もないし」と鼓舞された(ぼくと妻は学生時代に100キロを寝ずに歩いた経験がある。この詳細も割愛)。 
 
 桜が咲き始めていたが、その日の気温は真冬並みだった。汗腺がひらき気味のブラジル帰りには距離よりも寒さがこたえた。東日本大震災のときの帰宅困難者はこんな感じだったのだろうか。世界にはロックダウンで交通が止まって何百キロも徒歩で帰る人がいるだろう。そう思えば、ただ40キロを歩くくらいなんでもないことだった(最終的には途中で友人が車で迎えにきてくれた)。

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 31日にPCR検査の結果が陰性だったと連絡があったが、ほっとしていたのも束の間、志村けんさんが新型コロナウイルスによる肺炎で亡くなったというニュースが飛び込んできた。これは日本もただ事では済まないかもしれない。そんな切迫感をリアルに持ったきっかけは、子どものころからお茶の間で親しみをもって観ていた一人の人間の非情な最期だった。自分がまさに第一波のただ中に帰ってきたことをあらためて認識した。

 海外を飛び回っていた生活は一変した。4月はコロナ禍がなければイタリアに行くはずだったが、そこはいまもっとも行ってはならない場所だった。5月の海外での撮影は中止、6月から始まる大学の講義は延期、さらに10月に開催予定の過去最大の写真展も延期。あらゆる予定が吹き飛んだ。急に人生が狂ったのは自分だけではない。そうわかっていても、心を乱さずにはいられなかった。

 感染対策として家族以外の人と極力会わないことが求められ、家に引きこもる生活となった。行動範囲は一気に狭くなったが、その分、家族と過ごす時間は増えた。やりきれない気持ちを紛らわそうと、3人の息子を外へ連れ出し、近所で一緒にランニングをした。これまでめったになかった親子の親密な時間だ。こんな非常時だからこそ、平穏でささやかな時間の過ごし方に意識を向けていこう、そう心がけるのだが、コロナのことがどうしても気にかかる。テレビやスマホを見れば、コロナ禍にまつわる数字が目や耳に入ってくる。感染者数と死亡者数は連日記録を更新し、保健所は感染者の集団であるクラスターを追跡しきれない事態に陥っている。その必然の結果として、コロナ患者を受け入れている医療機関がどんどん厳しい状況に追い込まれつつあった。

 次々と押し寄せる情報の中で、ぼくの気持ちをざわつかせていたのは、コロナとの闘いの最前線にいる医師や看護師など医療従事者への故のない差別だった。周囲から避けられたり、子どもを保育園に預けるのを拒まれたり、配偶者がテレワークを命じられたりしているのだという。そういったひどい言動にとくにさらされていたのは、コロナの患者と一番近くでもっとも長い時間接している看護師だった。

 ソーシャルメディアを見渡せば、彼女ら(圧倒的多数が女性だ)を、未知の病気に苦しむ患者を受け入れ、いのちをつなごうとする社会に不可欠な「エッセンシャル・ワーカー」と呼び、その役割の大切さに感謝するポジティブな言葉はずいぶん多かった。それと比べれば、ネガティブな言葉は少なかったし、悪意や偏見のある嫌がらせは数としてはさらに少ないだろう。でも、たとえ少数でも、所在のわからない場所から発せられる匿名のつぶては、強い拡散力で遠くまで飛んでいく。そんな顔なしの悪意を打ち返し、医療の支え手を守っていくためには、医療現場にいる当事者ではない人たちのあいだで問題に対する理解や想像力が共有される必要がある。メディアの仕事にたずさわるもののはしくれとして、そこの部分で微力でも力になりたかった。

 それがぼくにとっても看過できない課題だったのには、妻が看護師で他人事にできないという理由もある。これまで海外の現場でマラリアやデング熱、リケッチアや肝炎など数々の感染症に苦しみ、その度にそばにいた医療者に救われてきたので、医療者への感謝が人一倍あるのもある。自分の仕事が困難を生きる人の写真を撮るばかりで、助けることに何ら役に立っていない負い目はずっとある。医師でも看護師でもないぼくが感染症という医療的問題に対してできることなど、せいぜいマスクをして、3密を避けるぐらいが関の山かもしれない。そう承知しつつも、医療現場の外で起きている差別や分断といった社会的問題に対しては、自分なりの方法で誰かのために何かをしたいという意志を表したかった。それが思いやりの欠くものごとに抵抗する小さな力となると信じていたのだ。

コロナ禍の医療現場へ

 4月7日、ついに日本でも緊急事態宣言が出された。住民に相当の負担と不自由を強いてでも、人と人との接触を「最低7割、極力8割」減らし、感染爆発を押さえ込む最後の切り札的方策だ。その1番の狙いは、医療崩壊を防ぎ、死亡者や重症者をできる限り少なくすることだった。ただ当初は宣言にはたしてどれほどの具体的効果があるのか、はっきりしなかった。医療崩壊だ、病床切迫だと聞くけれど、そもそも医療現場がどのような状況にあるのかもよくわかっていなかった。コロナ禍の第一波を受けて、世の中がますます混沌としてきたさなか、以前から仕事でお世話になっている日本赤十字社広報室の塚原二朗さんから電話があった。

 「いつから動けますか」

 その電話は緊急事態宣言が出た日のたしか翌日だったか、渋谷区にある日赤医療センターからかかってきたものだった。

 「隔離期間は11日までなので12日から動けます。で、どうなんですか、医療現場の状況は」

 「伝えたいことがいっぱいすぎて」

 何も具体的には語らなかったが、ただ事ではないということはいつもと違う声のトーンでわかった。

 「和歌山の病院を取材してもらおうと検討していたんですが、緊急事態宣言で地方に行ってもらうのは難しくなりまして。なのでいま、武蔵野赤十字病院で調整中です。でも、その前に、そもそもコロナ病棟に入ってくれるかどうかなんですが、まずは渋谷さんにその意志があるかどうか、たしかめたいと思いまして」

 即答した。答えはもちろんイエス、「意志はあります」だ。

 医療の最前線でいままさに何が起きているのか。それを自分の眼でたしかめるまたとない機会だ。行かない選択肢はなかった。むしろ、ここでやらなければいつやるんだという意欲があふれてきた。

 写真家がすべきことは何か。それは、オンラインでは共有できないことを共有することだ。カメラを持って問題が起きている現場におもむき、当事者がいる場所に立ち、たとえ短くても同じ時間を「共にする」。そこにある現実を見せてもらうことで、縁もゆかりもなかった部外者からゆるやかにつながる関係者へ近づこうと意欲する。そのようにして写真を撮ったところで、それ以上のことはできない。ただ無力感を覚えるだけかもしれない。それでも、何かを共にしようとする視線で見て、心が揺さぶられた瞬間にシャッターを切る。そのこと自体がコロナ病棟の最前線で働く人たちへの敬意であり、共感するあり方でもあり、それこそがぼくのパネラッソなのではないか。かっこつけていえば、そのように思ったのだ。

 「ではまた連絡します。健康観察を続けてください」

明けない夜はない コロナ病棟の現場から(2)|最前線の看護師たちの声|渋谷敦志

渋谷 敦志(しぶや あつし)
1975年、大阪生まれ。立命館大学産業社会学部、英国London College of Printing卒業。高校生の時に一ノ瀬泰造の本に出合い、報道写真家を志す。大学在学中に1年間、ブラジルの法律事務所で働きながら本格的に写真を撮り始める。大学卒業直後、ホームレス問題を取材したルポで国境なき医師団主催1999年MSFフォトジャーナリスト賞を受賞。それをきっかけにアフリカ、アジアへの取材を始める。著書に『まなざしが出会う場所へ——越境する写真家として生きる』(新泉社)、『回帰するブラジル』(瀬戸内人)、『希望のダンス——エイズで親をなくしたウガンダの子どもたち』(学研教育出版)。共著に『ファインダー越しの 3.11』(原書房)、『みんなたいせつ——世界人権宣言の絵本』(岩崎書店)、『今日という日を摘み取れ』(サウダージ・ブックス)など。JPS展金賞、視点賞などを受賞。

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