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「令和鎖国」 で引き裂かれる家族たち──〈極私的〉記録から(後篇)|新井卓

新型コロナ感染症の水際対策として施行された強力な入国規制について抗議の署名運動を立ち上げたアーティスト・映画監督の新井卓さん。前篇中篇と2本にわたり、入国規制がもたらしたものと当事者の声、政府の施策の推移について、ご寄稿いただきました。では、なぜ、日本は、これほどまでに水際対策にこだわりつづけるのでしょう。最終回となる後篇では、明治初期のコレラや、2009年の新型インフルエンザの流行に立ち返り、考えます。そして、あらためて問います。国とは? 家族とは?(編集部)


日本はなぜ水際対策にこだわるのか?

このテキストを執筆中の2022年4月末時点でも、日本政府は水際対策を抜本的に見直す姿勢を示していない(5月8日追記:5月5日、岸田首相はロンドンで演説を行い「日本は国境統制措置を緩和している」として「6月には他の主要7カ国(G7)並みに他のG7諸国並みに円滑な入国が可能となるよう、水際対策をさらに緩和していきます」と述べた。しかしあくまで「円滑な入国」についての言及であり、観光ビザで渡航する必要のある国際カップルにいつ門戸が開かれるかは依然として不明である)。

3月1日の制限緩和は入国手続きの簡略化や停留措置の免除など、主として検疫措置の運用面での変更が顕著であり、その一部は評価されるべきものがある。しかし実際のところ入国制限そのものの大枠は変わっておらず、結局は2021年11月30日以前の水準に戻ったに過ぎない。

厳格な入国制限を敷いていたアジア太平洋諸国が相次いで制限緩和に踏み切る中、なぜ、日本政府はこれほどまで水際対策に固執するのだろうか。

コロナ禍中の安倍政権、管政権は、いずれもコロナ対策の「失敗」が支持率の低下を招いたことは記憶に新しい(とはいえ国民から批判を浴びたそれぞれの政策が本当に「失敗」だったのかどうか、その実態は水際対策の効果とともに今後検証されていくべきである)。生命・健康のみならず経済、社会生活、スポーツ・文化活動、雇用や学習機会の喪失など、わたしたちの生のあらゆる局面に甚大な影響を及ぼすパンデミックに対し十全な政策などおそらく存在しないし、何をしても有権者の厳しい批判にさらされることは避けられないだろう。

政治のリーダーにとって不幸な時代と言うほかないが、岸田政権はその中にあって迅速かつ厳格な水際対策を国内にアピールすることによって盤石な支持を稼いだ特異な例と言ってよい。2022年2月14日付NHKの世論調査によると、入国制限を「続けるべきだ」とする人が57%、「緩和すべきだ」が32%と未だ高い支持を得ていることがわかる。

この「成功体験」こそ岸田政権が水際対策に拘りつづける理由である、と結論を急ぐ前に、なぜ日本人が水際対策を支持しつづけるのか、歴史を遡って考えてみたい。
 

明治初期のコレラ大流行と日本の検疫

 江戸時代末期の19世紀、インドの地方病だったコレラは海運の発達によって各地に伝播し世界的大流行を見せていた。当時開国して間もない日本でも、明治初頭にかけて10数万人に及ぶ患者・死者を出す深刻な感染状況が記録されており、この大流行が日本における検疫の歴史の幕開けとなったことが知られている。幕府の洋書調所の杉田玄端(杉田玄白の子)らが洋書を翻訳し文久2(1862)年にまとめられた「官版疫毒預防説(かんぱんえきどくよぼうせつ)」はコレラの予防法や治療法、検疫法や検疫組織の必要について記した書で、このとき「検疫」という言葉が「Quarantine」の訳語として初めて使用された。

古くから主要な港湾都市であり兵站基地であった長崎は、国内でのコレラ大流行の端緒となった土地である。日本近代史・医療社会史研究者の市川智生は、明治10(1877)年、中国南岸のアモイから長崎に流入しつつあったコレラが、西南戦争における将兵の移動に伴って神戸、大阪などの各主要港に飛び火し、市中感染を巻き起こしたと述べている。政府軍は入港制限を敷こうと試みたものの、戦勝気分の将兵を留めることはできなかったという。

このとき明治政府は、明治6(1873)年に立案しつつ未公布だった「暴瀉病予防規則」を適用し外国船舶に対する検疫を実施するため各国公使と交渉を行ったが、イギリス公使H・S・パークスらの反対により失敗に終わっている。

その後明治12(1879)年に日本が制定した「海港虎列刺(コレラ)病予防規則」(ほどなく「検疫停船規則」に改正)は、コレラ流行地から日本に入港する船舶に対して、沖合いで7日間の停船を定める内容だった。しかし、同年7月に香港を発ち神戸経由で横浜に向かっていたドイツ船ヘスペリア号が、定められた停船期間を無視して横浜に入港する事件が起こった。ヘスペリア号事件として知られるこの顛末の背景には、国際社会における日本の地位の低さに加え、当時すでにコレラ蔓延国だった日本が外来船舶に対して検疫を行うことの論理的矛盾があったようだ。

市川は「感染症の来源がどこにあるのかという点に注目する時、コレラは海外から輸入されるものだとする島嶼国日本の発想は、欧米諸国にとっては全く受け入れられないものだった」こと、そして「事実、記録的大流行となった1879年および1886年のコレラは両方とも輸入感染例ではなく国内の感染例が拡大したもの」であったことを指摘する。その上で、明治期日本における海港検疫の歴史は「日本独自のルールを設定しようとして失敗した歴史」だった、と結んでいる。

現在の「G7でも最も厳しい水際対策」という政府の語り、ネットに溢れる「外国人が感染源である」といった語りは、明治初期と驚くほど相似する、特異な「島国」の語りと言えないだろうか。
 

2009年新型インフルエンザの流行と日本の水際対策

現代の日本がパンデミックの危機に直面し、水際対策に踏み切ったのは、新型コロナウイルス感染症が初めてではない。

2009年4月24日、WHOは米国とメキシコ周辺地域で数百人が豚インフルエンザに感染し、死者が相次いでいることを発表した。2003年のSARS(重症急性呼吸器症候群)の海外流行を受けて法改正などを行っていた日本政府は、国内の感染例が報告されていないことから、島嶼国のメリットを活かして感染の疑いのある渡航者を厳しく検疫する「水際対策(作戦)」に注力することになった。

水際対策とは新規感染症の蔓延を完全に防ぐためのものではもちろんなく、あくまで感染症の流入を遅らせ、国内の準備態勢を整えるいわば「時間稼ぎ」のための施策である。

厚労省が2009年2月17日に策定した「新型インフルエンザ対策ガイドライン」では、水際対策は「新型インフルエンザに感染した又は感染したおそれのある者(以下「感染者」という。)の水際での侵入防止を徹底し、国内でのまん延を可能な限り防ぐこと」および「帰国を希望する在外邦人の円滑な帰国を実現すること」の二つの課題を「可能な限り両立する」べきとしている。言い換えれば、感染症の侵入防止と在外邦人の円滑な帰国は、完全には両立することが難しい課題として、あらかじめ水際対策の範囲内に想定されていた、ということである。

それにも関わらず、舛添要一厚労相(当時)は2009年4月30日の厚生労働委員会で「ウイルスの国内への侵入を阻止するため、水際対策の徹底を図っていくことに万全を尽くします」と答弁し、同年5月9日、麻生太郎首相(当時)は記者団に対し「(感染者を)空港でちゃんと捕捉できた。水際対策がそれなりに効果を上げている」と主張していた。

時間稼ぎのために水際対策を実施しながら速やかに国内の予防態勢を整えること。それこそが本来の政治の使命だったはずだ。しかし、日本の政治のリーダーたちは水際対策の意義について現在まで誤読しつづけ、「水際対策さえ徹底すれば感染爆発を防げる」という誤ったメッセージを発しつづけてきた。新型インフルエンザの危機が去った後、国内の感染症対策が十分に整えられてこなかった背景にも、この誤解があるのではないか。政治のリーダーたちの誤解、何度も危機に直面しながら抜本的な対策を怠ってきた不作為のツケが、10年後のいま、感染源と目される外国人たちに、国籍が違うという理由だけで一方的に押し付けられていると言っていい。

事実、内閣官房新型インフルエンザ等対策室のウェブサイトには当時の政治家の語りとメディア報道が「水際対策を徹底すれば、ウイルスの侵入を防げる」という誤解を招いた、とする分析が掲載されている。

その後の2010年6月10日に行われた厚労省新型インフルエンザ(A/H1N1)対策総括会議では、この反省に立ち水際対策について「体制・制度の見直しや検討、事前準備を要する問題」として提言がなされた。

提言は、① ウイルスの特性、国内外の状況を踏まえ、専門家の意見をもとに機動的に水際対策の見直しが可能となるようにすべきこと、② 水際対策の縮小などの判断が早期に可能となるための仕組みを構築すること、③ 入国時の健康監視の対象者の範囲を必要最小限とするとともに、その中止の基準を明確にすること、④ 水際対策は感染拡大時期を遅らせる意義はあるとする意見はあるが、科学的根拠は明らかでないので、更に知見を収集すべきこと、⑤ 「水際対策」との用語については、「侵入を完璧に防ぐための対策」との誤解を与えない観点から、その名称について検討しつつ、その役割について十分な周知が必要であること、⑥ 新規感染症発生前の段階から、入国地点においてどういった対策を講じるべきかについて検討し、普段から実践しておくこと、を求めるものだった。

ここで特に注目すべきは ④ と ⑤ である。2010年の段階で課題をこれだけ明確に認識しながら、2020年以降のコロナ・パンデミックに際して、日本政府はまるで振り出しに戻ってしまったかのように見える。

日本の政治家と国民が容易に水際対策を手放そうとしない背景には、すでに定着してしまった誤解、「水際対策を徹底すれば、ウイルスの侵入を防げる」という誤解があることは明らかである。入国制限への高い支持が維持されつづける理由は、論理的に破綻した水際対策を疑うことを知らない大多数の意識構造と、入国制限の被害当事者たちに対する想像力の圧倒的な欠如である、と言えるだろう。

今から13年前に策定され、コロナ禍の水際対策の基礎となった政府指針には、在留資格を持たない国際家族や同性婚・事実婚者、国際カップル、元日本人等についての言及は見当たらないし、留学生や労働者たちへの対応も記されていない。このままでは、将来ふたたび強毒変異株や未知の感染症が現れたとき、全く同じシナリオが繰り返されることになる。

日本が「開国」する日

いつか日本の国境はふたたび開かれ、豊かな文化、風土、人々の優しさやビジネス・チャンスに魅せられて、数多くの外国人たちがやってくる――そうであってほしい、と切に願ってやまない。

しかし、今後日本が独自に敷いてきた水際対策を科学的・論理的・倫理的に検証しようとせず、また不用意な入国制限によって失われた2年間を、何事もなかったかのようにやり過ごそうとするなら、人々の心は少しずつ、この国から離れていくだろう。

日本を諦めて他国に留学先を変更した学生たち、日本との互恵関係を解消した大学や企業を一つずつ例に取るまでもなく、日本社会への信頼は、たった今も失われつづけている。わたしたちがその事実をどれほど認めたくなかったとしても、一度傷ついてしまった信頼関係は、いつか否定しがたく、もっと具体的な形をとってわたしたちのもとへ返ってくるはずだ。

2022年初頭、Twitter上で#crueljapan(クルーエル・ジャパン=残酷日本)というハッシュタグが流行した。鎖国状態の日本に向けて、かつて日本政府が掲げたスローガン「Cool Japan(クール・ジャパン)」を、皮肉を込めてもじったものだった。

わたしは日本が諸外国に比べてとりわけ「残酷な」国であるとは信じていない。未解決の社会問題が山積みとはいえ、第二次対戦後70余年も直接の戦火に見舞われることなく、行政サービスがこれほどまでに充実し、安全で、ある程度の教育水準が維持された国が世界にどれほど存在するだろうか?

しかし一方で、わたしたちが自らの姿を顧みることなく今までのあり方に引きこもりつづけるなら、「残酷日本」の汚名を返上する機会はいつまでも訪れないだろう。政治家や財界人、メディアのみならず、わたしたち個々人が過去二年間をどのように振り返り、世界に向けて――あるいはもっと身近な人々、これから出会う留学生や労働者、技能実習生、移民や難民、国際家族やカップル等々に向けて――どう働きかけ、語りかけるのか。わたしたちは今、目に見えない、重要な岐路に立っている。

2月初旬、妻とわたしは同じ便で日本に帰国した。

「あんなに日本に来たかったのに、今はどうしてここにいるか分からない。日本でやりたいこと、行きたい場所、全部どうでもよくなった。家族で一緒なら居る場所はどこでもいいのかも知れない……。」

到着後6日間のホテル隔離を終え、帰路、レンタカーの窓外を眺めながら車中でそうつぶやく彼女の言葉は、諦めか皮肉のようでもあり、同時に希望のようでもあったが、わたしは、その意味するところをよく理解できる気がした。

今、日本の入国制限をテーマにしたドキュメンタリーを作っている。将来この問題が忘れられることがないよう、一人の当事者であるわたしの「極私的」記録を通して多くの人に知ってもらいたい、そう思ったからだ。

3月からの入国制限緩和とその後の入国者数上限の上積みに希望を見いだす間もなく、ロシア軍によるウクライナ侵攻が始まってしまった。12月、実態調査に回答してくれたロシアの国費留学生は、今どうしているだろうか。銃声の聞こえる街で待ちつづけるミャンマーの学生は、もう渡航の準備をしているだろうか……。たとえば「留学生」や「カップル」という言葉の背後に埋蔵された個別の生と多様な現実に向かって、どれだけ想像力の翼を拡げることができるか。

国家によって、国境で家族と引き裂かれること。それは当事者でなければ到底理解できない苦しみである。世界で最も多くの国に渡航できる特権を生まれながらに享受する日本人にとって、国境を「越えない」自由と「越えられない」不自由の致命的な隔たりを理解する機会は、あまりない。

パンデミックの災いがウイルスという自然の力だけでなく、政治や国家、民族というヒトの力によってももたらされる以上、わたしたちの主戦場は力のかぎり想像すること、視界の外に取り残されたもの、忘れられた人々への想像力にある。

家族とは何か――わたしのドキュメンタリーは尽きるところ、この不可能な問いに集約されるだろう。

デュッセルドルフで日本人のパートナーと二人の娘と暮らす友人、写真家のトーマス・ノイマンは、わたしのインタビューで「家族とは何か?」という質問に「家族とは、その人が家族と思うすべての人」と答えた。

時代とともに多様化し変遷する人間関係のどの部分を「家族」に含めるかは、それぞれの社会における尽きない議論の中で時々に提案され、受容され、あるいは否定されるものであるに違いない。しかし今、冒頭に引用した「家族とは、だれひとり取り残されたり、忘れられたりしないことを意味するんだよ」というリロの言葉が、わたしにはとりわけ確からしく響く。

いまもどこかで、だれかの「家族」が取り残され、忘れられていないだろうか。「島国」というにはあまりにも大きすぎる列島の片隅で、想う。
 

 ■参考文献
※電子文献の最終閲覧日はいずれも2022年3月29日

秋山肇「COVID-19対策と日本国憲法が保障する人権:新型インフルエンザ等対策特別措置法に着目して」『F1000Research』2021年9月14日。
https://f1000research.com/articles/10-230/v2

伊藤隼也「新型インフルエンザ徹底検証 麻生官邸「対策マニュアル」敗戦」『週刊文春』2009年6月4日号、文藝春秋。
 
一般財団法人アジア・パシフィック・イニシアティブ『新型コロナ対応・民間臨時調査会 調査・検証報告書』ディスカヴァー・トゥエンティワン、2020年。
 
市川智生「9 水際作戦の歴史――明治日本の海港検疫」秋道智彌・角南篤編著『シリーズ 海とヒトの関係学④ 疫病と海』西日本出版社、2021年。
 
小畑郁「コロナ・パンデミックの中の外出・移動制限と国際人権法――個別的救済・制裁志向と構造是正志向の結合にむけて」『国際法外交雑誌』2021年8月号 (120)、国際法学会。
 
川村真理「新型コロナウイルス感染症と入国制限」『杏林社会科学研究』2020 No.1、2(36)、杏林大学総合政策学部。
2020Vol.36no1,2_kawamura.pdf (kyorin-u.ac.jp)
 
林裕二郎「日本政府の対応――水際対策の強化にかかる措置」『国際法外交雑誌』2021年8月号 (120)、国際法学会。
 
半田英俊「明治初期における衛生行政と長与専斎」『杏林社会科学研究』2020 No.1、2(36)、杏林大学総合政策学部。
2020Vol.36no1,2_handa.pdf (kyorin-u.ac.jp)
 
前村聡『2009年新型インフルエンザ ――「未知の感染症」をどのように報じたのか?』内閣官房新型インフルエンザ等対策室、2019年4月16日。https://www.cas.go.jp/jp/influenza/backnumber/kako_09.html

 宮村達男監修、和田耕治編集『新型インフルエンザ(A/H1N1)わが国における対応と今後の課題』中央法規、2011年。
 
棟居徳子「新型コロナウイルス感染症対策における「人権を基盤としたアプローチ」の重要性」『早稲田ウィークリー』早稲田大学、2020年11月9日。https://www.waseda.jp/inst/weekly/news/2020/11/27/80787/。 

*記事見出しの写真は、2021年12月19日、成田空港にて筆者撮影

新井 卓(あらい たかし)
1978年、神奈川県生まれ。アーティスト・映画監督。ダゲレオタイプ(銀板写真)の技法で写真を撮る。2016年に第41回木村伊兵衛写真賞を、2018年に映像詩『オシラ鏡』で第72回サレルノ国際映画祭短編映画部門最高賞を受賞。写真集に『MONUMENTS』(PGI)など。
TAKASHI ARAT STUDIO(公式サイト)https://takashiarai.com/
twitterアカウント @TakashiArai_78

[参考]以下の動画は、藤原辰史さんが主宰するパンデミック研究会のトークプログラムに新井卓さんが招かれ、藤原さん・石井美保さんと、執筆中であった本稿の内容を踏まえて話されたものとなります。


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