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春嵐

春の嵐。
少し前に君の背中が見えた。細い坂道には君と僕の2人だけがいた。
坂道を登り切れば、すぐに校舎が現れるだろう。
坂道の途中の曲がり角で、突然、君は自転車を降りた。不意に振り返り、僕を見つめた君の瞳を今でもはっきりと覚えている。
生暖かい風が僕の頬を撫でた。

僕と君が言葉を交わすことは無かった。それでも、2年の間、僕を学校に引き止めたのは君の存在だったんだ。
君の周りはいつも賑やかで華やいでいた。君は学年でも目立っていたし、君が廊下を歩けば、男達が君を振り返るのは、至極、当然の事に思われた。

グランドの向こう側で腕を組んで佇む君。机を囲むハンサム達に笑顔を向ける君。
僕は遠くから、近くから君を見ていた。月に一度か、ふた月に一度、君と目が合うことがあった。僕にはそれで十分だったし、それ以上、何も求めてはいなかった。

高校を卒業して、大学に通い始めた日々、僕は余計に君を想った。
額の真ん中で分けられた黒い髪。奥二重の静かな瞳。小さな鼻。尖った上唇。君の姿はけして色褪せる事なく瞼の裏にいつでも現れた。

ある朝、僕は大学の校門近くで数人の友人と談笑していた。
僕は駅の方から歩いてくる君にすぐ気づいた。君は真っ直ぐに僕へと歩いてくる。それから、僕の前に立つなり、「久しぶり」と一言挨拶をした。「私もここに入学したの。知ってた?」
僕はその声を聞き、何かを答えたはずだ。なんと答えたかは、どうしても思い出せない。

その日以来、僕は校舎の中で君と出会う事を期待していた。僕の目はいつも君を探していた。
君を見つけることが出来ずに、春は過ぎ、夏も去ったが、それでも僕は学校に行くことが嬉しかった。君がどこかにいるであろう、この学校に。

次に会ったのは学祭の日だった。
君は数人の女友達と連れ立っていた。僕に挨拶をする君。君はますます垢抜けていた。流行りの柄のスカートをとても素敵に着こなしていた。
それにくらべて、僕の方は、学祭の準備で忙しく、連日あまり寝ていなかったし、3日前から家にも帰れていなかったので、あまり清潔とは言えない姿をしていた。
だから、僕は君の顔をあまり見ることが出来なかったんだ。僕は間抜けな目線を、君の隣にいた女の子の方へずっと向けていた。その子は胸元深くまで開いたシャツを着ていた。
僕は自分のみすぼらしい格好に引け目を感じていた。そんな些細な事で、君の方へ顔を向ける勇気を無くしていた。
君とサヨナラの挨拶をした時、君の目は僕を見ていなかった。笑顔の無い横顔。それが僕の記憶に残る最後の君。それ以来、君に会う事もなく、僕は大学を卒業した。

僕は少しづつ、君を忘れていった。新しい出会いや経験が、君との青春の風景を淡くぼんやりとしたものへと変えていった。
それは、数年後のある冬の日。
久しぶりに会った同窓の友と僕は夜が更けるのも忘れて、安い酒を呑みながら昔話に花を咲かせていた。
その友から、“君”が高校生の頃、僕にずっと片思いをしていたことを聞いた。
その刹那の僕の胸中。
ただ、ひとつ強く思い出されたのは、あの風の強い坂道の原風景だった。

春の嵐。
あの坂道で、どうして僕は君の隣で、自転車を降りなかったのだろう?
君が振り向いた時、僕はなぜ一言でも声をかけられなかったのだろう?
僕は君の隣を、君から視線をそらし、走り抜けた。
幾千の桃色の花びらが舞う坂道を、僕は走り抜けていった。

僕と君の青春は微笑んでくれなかった。
けれど、〈片思い〉は恋愛の一番、美しいカタチには違いない。

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