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借金まみれの下町工場。下請けからの脱却で、見事V字回復を実現!

ライフワークとして行なっている社長インタビュー。すでに100人以上の方の人生をお聞きしました。企業を発展、継続させていくために、さまざまな挑戦をし、時にしんどい決断をしている方たち。その生き様を多くの人に知ってもらいたい。そして、その企業とご縁が結ばれる方たちと繋げたい。

三裕製菓株式会社
代表取締役社長 竹内 豪さん

東京の下町・センベロで有名な葛飾立石で生まれ育つ。三裕製菓の3代目として生まれ、小さい頃から後継としての自覚を持って成長した。製菓学校を卒業後は、商社で営業を学び、実家に戻り、赤字経営の立て直しのため、下請けからの脱却を決意。見事にV時回復を果たす。同業種での集まりだけでなく、さまざまな人との出会いや繋がりを大事にしていく中で、多くのビジネスチャンスを掴んできた。現在は、10歳離れた弟と共に家業の発展を目指している。

1948年創業の老舗製菓メーカーの3代目跡取りとして生誕!

うちはお菓子職人だった祖父が1948年に創業しました。戦後の何もない時代、おいしいお菓子で腹を満たしたい、そんな思いで始まったと言います。

ただし、生まれたのは娘ばかりが四人。長女が婿養子を取る形で家業を引き継ぐことになりました。それが私の父です。

そんな我が家に長男として生まれた私は、祖父母から猫可愛がりされ、幼少期から「いずれ自分がこの工場を引き継ぐもの」と思いながら育ちました。なので、地元の高校を卒業すると製菓学校に進学しました。
経営者になる以上、お菓子作りだけでは足りず、必要となるのは営業力です。学校を卒業すると、商社に就職してそこで営業ノウハウを学びました。

バブル崩壊後、卸先からの値引き交渉で
家業は火の車に・・・

↑三裕製菓のメインはペクチンで作られたフルーツゼリー。カラフルな色合いとフルーティな味わいは年齢を問わずに、みんな大好きです。私も大好き❤️

当時は大手製菓メーカーの下請けとしての仕事が約95%でした。4年ほど商社で働いた後に、私が家業を手伝い始めるようになってからも、そのスタイルは変わりません。完全な下請けの町工場で、ある意味でクライアントの言いなりでした。私もそのクライアントである製菓メーカーに1年間丁稚奉公をしに行ったほどです。

ところが、バブル景気が終焉を迎え、私が実家に戻ると家業は火の車でした。価格交渉され、厳しい条件で引き受けても利益はほとんど出ません。それどころか、作れば作るだけ赤字が累積されていくような状況でした。
さらに、古くなった工場ラインで作られるお菓子に不良品が発見されるトラブルが発生するようになりました。ついには、クライアントから突きつけられた継続条件は、“工場を立て替える”ということでした。

大きな借金を抱えて、2001年現在の柏にある工場に転居しました。
三十歳になった私は、会社の状況を見てこのままではまずいと思いました。
いずれは自分が引き継ぐ大好きな会社が生き延びるためには、下請けからの脱却しかないと決意しました。

問屋を片っ端から営業して歩く日々に
出会った救世主

製菓問屋リストというものがあり、そこを一軒一軒尋ねて歩く日々のスタートです。自社の商品を開発し、それを問屋さんに直接おろそうと思ったのです。大手製菓メーカーの下請けとしての実力や実際に製造したお菓子(フルーツゼリー)を見て、少しずつ取引が開始されるようになりました。そして、導かれるように運命の出会いへと繋がって行きました。

ある時、問屋さんの本社と間違えて工場を訪問してしまったことがありました。すると、そこで話を聞いてくれた方が、元々は本社でバイヤーとしてかなりのやり手だった人だったのです。彼は体調を崩したことで、バイヤーから工場勤務に異動になっていたのです。

我が社のお菓子についても知っていた彼は、以前取引していた成城石井や明治屋などの高級スーパーへ下ろせるように手配してくれました。そしてついに、成長著しい成城石井に、三裕製菓のオリジナル菓子を下ろすことができるようになったのです。

↑日常にプチ贅沢を❤️ そんな気分を満喫させてくれる成城石井。そこで販売されている「旬の果実」が三裕製菓の商品です。驚くほどフルーティで柔らかくて本当においしい。

その後、彼がその問屋を辞めるタイミングに、弊社の顧問に就任してもらいました。さらに、彼が問屋時代に培った人脈を生かして、問屋を通さずに直接店舗へ卸をすることが可能となりました。当然利益率は高くなります。

しばらくは長年付き合い続けてきた大手製菓メーカーの下請けと、直接卸との両輪でやってきました。大手製菓メーカーにしてみたら、下町の小さい工場は思い通りになると思っていたでしょう。要求はどんどんエスカレートしていき、値引き交渉や横柄な態度も見られるようになっていました。
下請けと直接卸の利益が半々になった頃に、ついに下請けからの脱却を果たしました。直接取引をするようになって10年ぐらいはかかったと思います。

下請けからの脱却後は
自社の強さで差別化を測る

弊社が作っている柔らかいゼリーは、一般的なゼリーで使われるゼラチンや寒天を使用せずにペクチンで作られています。そのため、非常にやわらかくて美味しいのですが、実は設備投資などの観点で考えた時、特別な機械でないと作れないため、 競合が出づらいという特徴があるのです。 実際に関東では4社しかこのゼリーを製造している企業がありません。もちろんその中には、弊社よりも規模が大きく、しっかりブランディングされたオリジナル商品としてデパ地下などで販売されているところもあります。

↑フルーツゼリー以外にも、ウイスキーボンボンの中身を作っているのも三裕製菓。空洞チョコに注射でウイスキーを入れていると思ってた人? はーい、それは私w 

実はこの技術を持つメーカーはかなり少ないんだそう。砂糖とウイスキーとを特殊配合して固めると、周りの砂糖が固まり、中は液体のまま。この周りにチョコレートをコーティングしたら完成。

弊社でも同じようにブランディングしていくことは可能ですが、フルーツゼリーというのは、そこまで大きな市場ではありません。同じ戦い方をしても意味がないと判断し、 弊社では、そこがやらないことをしっかりやる戦略で、差別化をしています。

例えばOEM商品やある商品の一部分だけを提供するなど、他の製菓メーカーとコラボレーションすることもできます。先ほども言った通り、フルーツゼリーを作る機械は簡単に参入できるものではありません。そのため、弊社と組みたいというリクエストはとても多いのです。

もちろん、自社のオリジナル商品を直接お客様に買っていただけるのであれば、最も利益率が高くなります。ペクチンゼリーはグミなどと違い、柔らかい食感が特徴です。そのためお年寄りの方にも食べやすく、贈答品ニーズも高くとても喜ばれます。また、カラフルな彩りもポイントで、女性からとても人気があります。

実際にショップチャンネルで販売した時は、出演時間はたったの30分なのに、2000個ほどのオーダーを取ることができて、お客様に直接訴えることも可能だと感じました。
なので、今後はそういった直接販売も必要になってくるかもしれませんが、 現状ではそこに対してリソースをかける時間と人手がないのが現実です。

↑一時期は、工場直販でアウトレット販売を行っていたことも。ただ、人が集まりすぎて、近隣のご迷惑になって今は休止しているのだそう。

まだまだやれることはいっぱいある!
地域とコラボしたソフトゼリーが好評

父は七十歳の時に病気を患い、私は42歳の時に社長に就任しました。
社長に就任する前から、会社を立て直すためとはいえ、かなり無茶をしたと思います。オリジナルのお菓子を作ることや、長年取引していた大手製菓メーカーとの関係性を断ち切るなども、私が方向性を示したものです。でも、父はいつだって私の味方で、いつだって自由に挑戦させてくれました。

生前の父と仕事の話をしたことはないのですが、職人気質だった祖父に対して、婿養子だった父はいろいろと気を使っていたに違いありません。きっと、だからこそ私には自分ができなかった自由な挑戦をさせてくれていたんだと思います。

↑柏に工場があるため、「チバニクル」という千葉の特産品をアピールする活動にも参加。写真は千葉産のイチゴとブルーベリーを使ったフルーツゼリー。

これからやりたいことは、たくさんあります! なぜなら、弊社のフルーツゼリーにはまだまだたくさんの可能性があると思っているからです。最近では、地域の特産物である果物とのコラボレーションを行っています。最高においしい果物の風味を生かして仕上げていくのです。
日本の国産フルーツや海外の珍しい果物などを弊社のフルーツゼリーにして、各地域の特産菓子となって盛り上げていけたら最高に嬉しいです。

【あとがき】
私が生まれ育った葛飾。正直、幼少期から大人になってもなかなか好きになれなかったw  でも、実は暮らしていてもちっとも葛飾のことを知らなかった。。。そこで、まずは知りながら、私がお世話になったこの地域に貢献できることをしていきたい。
これからしばらくは、そんな思いで葛飾地元の企業を少しずつ紹介していきたいと思っています。

 


下町の2D&3D編集者。メディアと場作りのプロデューサーとして活動。ワークショップデザイナー&ファシリテーター。世界中の笑顔を増やして、ダイバーシティの実現を目指します!