見出し画像

教師を辞めて目指したのは、もっと多くの人が主体的に生きるためのお手伝い

僕が教師を辞めた理由-米元洋次さん-
高校教師を辞めて独立し、教育ジャンルで活動しているというお話を聞いて、インタビューをお願いした米元さん。学校教育の場と外からの教育支援。別の立場からアプローチすることで、何を目指しているのか、どうしてその決断に至ったのか、教師になる前からの心の内をお聞きしました。

2019年夏、”いわみんプロジェクト”として、社長や起業家、独立して活動している方を対象に100人インタビューを実施しました。彼らがどんな想いで起業し、会社を経営しているのか? その中での葛藤や喜び、そして未来に向けて。熱い想いをたくさんの人に伝えたいと思っています。

画像4

米元 洋次(よねもと ようじ)さん

合同会社Active Learners
大学卒業後
2010年 私立高校の教員としてのキャリアをスタート
教員時代に、さまざまな勉強会などに参加し、刺激を受けて
2017年 独立
産業能率大学兼任講師としても活動(2019年度より専任講師)

音楽の世界にもあこがれていた大学時代
一方、教育実習での感動から教師への道へ

 親が教師だったこともあり、自分も教師になりたいと思っていました。大学入試では一浪。1年生のときは勉強ルームに通ってCNNニュースを聞いたりして、ものすごい勉強に打ち込んでいたんですが、1か月もすると飽きてきちゃって(笑)、中学から好きだったバンドのサークルに入り、バンド活動にのめりこんでいきます。ちょうど居酒屋のバイトで知り合った先輩のギタリストの方と仲よくなって、住んでいる駅も同じだったこともあり、いつもつるんで過ごしていました。先輩に呼ばれてバンドの手伝いをしたり、その当時はそっち方面での出会いが増えました。

 就活では、昔からぼんやり考えていた教師になるか、大好きな音楽業界に進むかで悩んでいました。ただ、実際にレコード会社の面接に行ったとき、周りの人たちがめちゃくちゃ尖った人ばっかりで、「音楽業界に行くような人は、こういう独特な体験や経験をした人たちなのか」と思い、断念しました。一方で、教育実習に行った学校の最終日が体育祭だったんですが、めちゃくちゃ感動したんです。挨拶も嗚咽で何を言ってるんだかわからないような状態でした。そんな感動体験もあって、やっぱり教員になろうと決意しました。

画像2

▲学校を辞めて、新しいスタートを切ったお祝い?として、電子ドラムも購入したのだとか。自分らしい生き方への一歩でもあったようです。

 実際に教員になるとして、地元の千葉県の公立高校と自分が経験したことがない私立の附属高校とが候補に挙がりました。父に相談したところ、「どっちも変わらない」ということだったので、大学受験する子たちが少ない附属高校を選択しました。通常の高校だと、大学受験や就職など進路にかかわる時間が多くなり、自由な高校生活を楽しむ時間が少ないんです。附属高校なら、高校生活を満喫するためのカリキュラムやサポートができると考えたのが理由です。

先生同士での学びを深め
学校外での活動の幅を広げました

 教員生活では、若手の先生たちで授業を変えようという活動を行いました。会議の在り方を変えるためのファシリテーションを学んだりもしました。先生同士でつながれる活動やコミュニティが学校の外にいろいろあったので、そういった活動に積極的に参加して、いろいろなつながりを作っていきました。休みの日には、おもしろい取り組みをしている大学や高校などを視察に行ったりもしました。
 そんな活動をしていると、僕の教えていた学校があった地域でまちづくりの活動している社団法人の方と知り合いました。彼は同年代ということもあり話も合い、彼の活動の手伝いをするようになりました。彼から「独立して一緒に事業をやらないか?」と誘われたのは、僕が教師になって6年目ぐらいのときです。ある程度学校内で自分がやるべきことはやったかな、という感覚があり、今の学校から別の学校への転職を考え始めていたタイミングでもありました。

画像3

私立の学校教員というのは、企業と同じで自分から動かなければずっとそこの教員のままです。米元さんは学校外活動で多くのネットワークを広げ、そこで学んだ知見や経験をもとに、学校内でもさまざまな改革を進めたそうです。そんな変革家としての血が騒ぎ出したようで、新たな活躍の場を求めて旅立つことを決意します。

独立すると決めたものの
収入の確保のためにダブルワーク

 当時、彼は地域活動を中心としていたのですが、この活動を地域選ばずに展開するためには、教育的観点をもった僕の知見やネットワークが必要だというのです。彼は大学を休学して世界中をバックパックで旅行し、その後ひとりで団体を立ち上げて活動しているような人です。そんな彼が言うことなら間違いないんだろうな、と素直に受け入れられ、「よしやろう!」と決心できました。

 とはいえ、いきなり独立してもそれだけで食べていけるほどの収入は期待できません。最初の仕事は、行政関連に提案して予算取りしてもらった上で行う仕事が多かったので、仕事のない時期もありました。結婚はしていましたが、妻も仕事をしているので、僕の意思を尊重してくれ反対はされませんでした。ただ、彼女の職場の人たちからは「ダンナさん、大丈夫なの?」とかなり心配されたそうです。
 スタートさせた事業のほかに、大学での英語講師の仕事も入ったので、それらの両方で収入を得られるようになりました。また、せっかくなので、キャリアコンサルタントの資格も取得し、学びのシーンでこの資格も活用させていきたいと思っています。

画像5

 独立して2019年度は3年目。市民や学生などが協働する場で、ファシリテーションさせていただくことも多く、みんなが主体的に活動するお手伝いをしています。でも、自分たちのやりたいことをさらに具現化させるために、もっと多くの人に活動を伝えていこう! と、2019年初めにクラウドファンディングを行い、自費出版で本を作ることにしました。この本をきっかけとして、さらなる広がりをもたせたいと考えています。
 とはいえ、僕たちの活動は、みんなが主体的にアクションを起こせるようになることをサポートすることです。僕たちが早くいなくなってもいい世の中にすることが目標だったりします。だから、将来は農業での自給自足生活か、大好きなドラマーとして活躍できるようになっているといいな、なんて思っています。

社会では協働や共創といったことが主流になり、学校現場ではアクティブラーニングや探究型の学習といったものが、これからの時代に求められてきます。そんなときに活躍するワークショップ型の学びの場作りやファシリテーションスキル。米元さんの目指す社会に日本がなるには、まだ少し時間がかかりそうですが、だからこそ活躍の場が多くあるはずです。今後の飛躍を期待しています!

下町の2D&3D編集者。メディアと場作りのプロデューサーとして活動。ワークショップデザイナー&ファシリテーター。世界中の笑顔を増やして、ダイバーシティの実現を目指します!