山城_栄太郎

名物編集者▶️北海道で家業の花屋を継承。カレー評論しつつDJとしても活動する日々

僕が社長になった理由-山城栄太郎さん-
山城さんは共に編集部で汗を流した先輩でした。会社を辞めて実家に帰り、家業を継いだ話は風の噂で聞いていましたが、お話するのは実に10年以上ぶり。初めて聞く趣味の話や近況に新鮮な驚きを覚えました。20代で伝説の雑誌を実質的に運営していた敏腕編集者でありながら、生花店に転身した、その人生についてお聞きしました。

2019年夏、”いわみんプロジェクト”として、社長や起業家、独立して活動している方を対象に100人インタビューを実施しました。彼らがどんな想いで起業し、会社を経営しているのか? その中での葛藤や喜び、そして未来に向けて。熱い想いをたくさんの人に伝えたいと思っています。

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山城 栄太郎(やましろ えいたろう)さん

有限会社山城屋生花店 代表取締役社長
小樽観光協会 理事

青山学院大学卒 株式会社学習研究社入社 女性誌編集部所属 
東京ストリートニュース副編集長
33歳で地元の北海道小樽にある実家の山城屋生花店で下積みからスタート
43歳のときに、社長だった父が亡くなり跡を継ぐ

音楽と文学が好きな北海道の青年が
あこがれの東京で編集者生活をスタート

 僕の家は小樽でいくつかチェーン店も持つ生花店。父は早稲田大学の法学部に行ったのに、卒業と同時に小樽に戻って家業を継ぐべく働いていました。でも、僕は家のことをあまり考えておらず、高校生のころから音楽がとにかく好きでバンド活動もしていたし、漠然とミュージシャンになりたいなって思っていました。
 青山学院大学に受かって東京へ! 都会へのあこがれも強かったんです。ところが、青学のくせに(笑)1,2年は厚木キャンパスだったため、僕も本厚木住まいで、まったく東京の刺激がない大学生活だったんです。毎日音楽を聞いて、読書しまくっていました。そのころは1年間で300冊くらい読んでいたんじゃないかと思います。ハマりやすい性格なんです。
 大学で軽音楽部に入りながら、早稲田大学の文学サークルを見つけて所属、そっちでも活動していました。自分で小説を書いて、それを寄稿した冊子をみんなで作るようなサークルで、そのころは小説家を目指していました。繊細な青年の心の動きを敏感にとらえて、小説を書きたいと思っていたんです。かなり青臭い内容だったと思いますが。。。(笑)

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 そんな思いもあって、就職は出版社しか受けませんでした。当時は雑誌部門が盛り上がっていて、うちの会社では本流である学習参考書などより雑誌部門へ希望を出し、女性誌編集部という当時の花形部署へ配属されました。今ではあり得ないことですが、当時は月に100時間残業なんてザラで、土日も取材や仕事をしていました。それでも楽しくて楽しくて。
 遊ぶ時間なんてなかったから、稼いだお金の8割ぐらいレコードを買うことに使っていました。CDの時代になってもレコードが好きで、ちょうどDJなんかが流行りだした時代だったこともあり、渋谷や下北沢のレコードショップに通って、クラブミュージックやダンスミュージックを買いあさってはよく聞いていました。夜中に帰って、家で好きなレコードを聞くのが至福の時間でした。

 ずっと東京の女子高生を取材していく中で、地方の女子高生と東京の女子高生のギャップの大きさを感じ始めました。僕たちが作っていたのは全国誌なので、どうしても地方の女の子たちに合わせた内容にしなくちゃいけなかったので、取材したそのままの女子高生たちのリアルな姿を紹介する雑誌を作りたいと思うようになりました。
 20代後半のとき、僕と先輩とで提案して新しい雑誌を創刊させました。『東京ストリートニュース』といって、主役は東京の高校生たち。いわゆるカリスマ読者モデルなんかが生まれて、かなり話題にもなりました。最初こそ、首都圏限定で発売していましたが、すぐに全国誌として創刊させることができて、高校生のバイブル雑誌と呼ばれたりもしていました。

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編集者は朝まで仕事して、昼過ぎから出社するのが普通だった時代。どんなにつらくても仕事は楽しかったと言います。そんなとき、まったく違う生活もあることに気づくキッカケがあり、山城さんは実家の小樽へ帰る決意をするのでした。そして、東京ではできなかった、自分の好きなことを趣味として始めるようにもなったそうです。

30歳を前に副編集長になり、
将来を有望視される存在へ
多忙な日常から離れたときに考えた別の生活


 月刊誌としてスタートできることになったタイミングで副編集長になり、会社の幹部候補生としての研修に呼ばれることもありました。相変わらずハードな日々を過ごしていた30歳のころ、じつは過労でノイローゼっぽい症状が出て、丸2日間何も考えられず、会社にも行けなかったことがあったんです。2日休むことで元気になったものの、心と体は密接につながっていることを再認識したキッカケでした。
 その後、1週間くらい船上研修を受ける機会をいただき、昼間はハードな研修なのですが夜は自由に過ごせるため、自分のことや仕事のことをいろいろと考えました。実家の父の体調があまりよくないという知らせも受けていて、小樽へ帰ることを考えるようになったのも、このときぐらいからです。
 編集の仕事は楽しくて、残業することも苦ではなかったけれど、こうやってゆっくりと星空を眺めたりできる生活、自分の好きなことをできる時間を大事にする、そんな生活もあるんじゃないか? って思ったりするようになりました。

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 実際には33歳で会社を辞めて実家に戻るのですが、東京でこれだけやってきた自信もあり、小樽でも何かできるんじゃないかって思いもありました。家業をやるとはいえ、危ないと言われた父が意外に長生きして、その間、僕はずっと一番下っ端として働いていました。メインは配達。20人くらい従業員もいたから、いきなり帰ってきた長男を跡継ぎ扱いしないのは、父にも考えがあってのことだと思っていました。
 父が亡くなったのは自分が43歳の時。それまで、経営のことにもノータッチだったから、一気にすべてやることになってしばらくは大変でした。
もちろん、今でも大変です(笑)。地方の人口減とさまざまな祭事が地味にシンプルになってきたんです。花を使う機会自体が減ってきています。商売をやっていて、日本の経済力が弱くなっていることを如実に感じる出来事がたくさんあります。
 サラリーマンとして働くときも苦労はあったけど、今は経営者として賃金をしっかり支払い、コンプライアンスも守っていかなくてはならなくなっているので、やるべきことが増えたってことがいちばん大きな違いです。地方の中小の企業では似たような状況でしょうが、うちもすべての業務を家族で運営しなくちゃいけないんです。

北海道での生活は大変なことも多いけど、
自分の好きなことが楽しめる幸せもある

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▲小樽のライブハウスのちらし。DJ:BIG-YAMAが山城さん

 こっちに帰ってきてよかったことは、DJデビューできたことかな。もともとレコードを買いあさっていたことや、DJ取材も多かったことから、じつは自分のターンテーブルも持っていたんです。帰ってから誘われてやるようになって、今でも月に1回はDJをさせてもらっているんです。

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小樽のスープカレー。FBでは日々のカレー記録がつづられています。書籍化の話も来たりするそうですが。。。私が担当させてもらおうかな(笑)

 あと、東京では食べたことのなかったスープカレーとの出会いも衝撃的でした。ハマりやすい性格も手伝って、カレーの持つ奥深さにハマり、カレーについていろいろと調べるようになりました。「何をもってカレーというのか?」「玉ねぎはカレーには必要だけど、スパイスは何が入っていればカレーなのか?」とか。さらに、1日1カレーを目標にして、食べたカレーリポートを3年くらい継続してやっています。基本は小樽や北海道のカレーを中心に、あとはチャンスがあったときに行った先のカレーを食べてリポートしてるんです。

 小樽に帰ってからも、意識的に続けていることは、好奇心の尽きない人であること。もともとの性格もあって、興味のあることにはのめり込んじゃうほうだから、周囲からもそれが僕の個性だと思わるようになりました。
 人生を楽しく、終末をカッコよく終わらせられたら最高だなって思っています。仕事も勢いがある状態で終えられたらいい、そんなことを考えながら暮らしています。

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毎年2月に開催される『小樽雪あかりの路』というイベント(▲雪の中にキャンドルをともす)の委員長を5年連続でやっていたり、ライオンズクラブの小樽会長をしていたり、観光協会の理事を務めていたりと、地域活動にも積極的に参加していたという山城さん。これからも山城さんの周りでは、楽しいことがたくさん起こっていそうですね。

下町の2D&3D編集者。メディアと場作りのプロデューサーとして活動。ワークショップデザイナー&ファシリテーター。世界中の笑顔を増やして、ダイバーシティの実現を目指します!