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"正常"の呪いがかくしたもの~weekly ivote #32~

 こんにちは。
 9月に入っても暑い日が続きますね。東京はこれから雨続きでちょっぴり憂鬱です。
 さて、またまた更新が空いてしまいましたが今週の担当はtomohiro🪶です。

まえがきと閑話

 今回のweekly ivoteは、好き勝手書きすぎました💦 ここのとこと気分が上向きだったので、そういう状態で筆をとると制御がきかないですね。
 最近読んだ『コンビニ人間』と先日の定例会議での話についての、およそ私の備忘録のような内容です(ivoteの媒体ながら、以下が私一個人の勝手な考えであることはご了承ください)が、ぜひお付き合いくだされば嬉しいです。
 と本題に入る前に……

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“weekly ivote”ってなんだ、という方も多いと思うのでちょっとご説明を。
https://note.com/ivote_official/m/m6880909f46bb

私たち学生団体ivoteは「若者と政治のキョリを近づける」をテーマに、学校での主権者教育の出前授業をはじめ、若い世代をターゲットに自分の暮らす社会について考える、また選挙に足を運ぶきっかけをつくるための活動をしています。

そんな我々ivoteのふだんの活動を少しでも知ってもらえたらとはじめたのがこの weekly ivote なんですね。
毎週書き手が替わるので、そこで垣間見える各メンバーの素顔や日常なんかも楽しんでいただけたら嬉しいです。

("weekly" と謳うからには毎週更新しなよ、というところですが申し訳ありません。みんなivote以外にも忙しくてなかなか筆が進まないんですよね…… 毎週更新をめざしてがんばりますので是非チェックをお願いします!)
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『コンビニ人間』を読んだ

 閑話休題。

創作物に触れること

 映画や小説、歌にアニメ、何でもそうですが新しい創作物に触れようとするときには、すごくエネルギーを使います。観ること、読むことではなく、観始めることや読み始めることにです。

 私は何かと影響を受けやすいもので、創作物のもたらす莫大な情報(これはことさらに知識ということでなく、思索や感情などあらゆる意味で)を処理するだけの覚悟であったりこころの余裕があるときでないとなかなか戸をたたくことができません。映画も小説もすごく好きなんですけどね。

 本屋に立ち寄るとつい手に取ってしまうのですが、そういうわけで「積読」になってしまいます。そんな私ですが、夏休みの余裕がそうさせるのかこの8月は何冊か小説を読みました。

 いちばん最近読んだのは村田沙耶香氏の『コンビニ人間』です。芥川賞受賞作ですから、手にしたことのある方も多いと思います。
 コンビニでのアルバイトのみが自身の生のよすがである古倉恵子の物語です。彼女の生活の理由も、精神的な支柱もすべてコンビニという空間のみにあるのです。「コンビニ店員」としてのみ社会と交わることのできる彼女と、世界における「まとも」とをめぐる錯綜がコンビニを舞台に描かれます。

正常と排除

 この世界には「正常」な者とそうでない者がいて、私たちは「正常でない」異物を排除しようとします。異物を探し出して排除することによって、その姿勢をアピールすることによって、私たちは自らの「正常さ」を誇示しているのです。

 ここで主語に「私」を含むことが重要です。この作り物語の中では、現代に生きる人間の生き方の実態がグロテスクに描写されています。とちゅう咄嗟に本を閉じてしまう瞬間さえあったこの文章を読み続けられたのは、これがフィクションであることを頭が理解しているからなんだと思います。

 が、具体的にはフィクションであろうともそこに織り込まれた抽象はほかならない私たちの生きる社会の真相です。それを他人の、架空の物語だと言い聞かせることで一種の娯楽として成立しています。
 フィクションの創作物に限った話ではないでしょう。ノンフィクションのドキュメンタリーでひどい仕打ちを見たとて、自分は当事者でないと思い込もうとしてしまいます。もちろん、世の中に起こるすべての事象にたいして当事者として向き合おうと思ったら、どれだけエネルギーがあっても足りませんからそれは必ずしも悪いことではないと思いますが。

 しかしだからこそ、私は物語の世界から抜け出たところで、改めて自らをそのグロテスクの当事者として考えるべきことがあるんだと思います。
 私はきっと、異物を排除する側の「正常」な人間です。そうでないようにとは意識しているつもりですが、「正常さ」を捨てることはこの現代を生き抜くうえであまりにも恐ろしいことです。同時に自身も異物たりえるのですが、人は往々にしてそのことから目を背けてしまいます。
「ふつう」や「まとも」という言葉はとても暴力的です。だからこそそれを疑い、あらがうことは私にとって永遠のテーマだし、他方でそれを脱ぎ捨てることはできないように思われます。

インクルージョンと排除

「多様性」ということばを頻りに耳にします。インクルージョンが大事だと声高に叫ばれます。
 その中にはどうも的を射ていない使い方も散見されるように思います。内実を伴わないスローガンとして標榜されているだけということも少なくないです。
 これらは非常に重要な考え方だし、それがことばとして浸透することはこの理念が実際にひろまるための重要で不可欠な第一歩だと思います。
 しかし、このことばたちが自ら包摂的だと謳っているからこそ、その外に追いやられた人にとっては救いがありません。

 崇高な理想を具えたことばの裏に取り残された人がいないのか。インクルージョンということばがむしろ絶対的で破れないな囲いをつくって一部の人を排斥(exclude)してはいないか。「正常な」私たちは、正常であり続けるために異常な排斥者でもありますから、つねに自らに問い続けなければならないのだと、いま改めて思います。
 鏡の中の自分に問いかければ、正常の皮をかぶった怪物がグロテスクな答えを返してきます。その姿を俯瞰することが必要なのです。

若者の政治離れをめぐり日曜の会議にて

 先日の定例会議には、中学3年のOさんが来てくださいました。世間に云われる「若者は政治的関心が薄い」という命題に疑問がありご自分でもいろいろ調べられているとのことでした。
 会議では、「若者の政治離れ」の原因は何だろうか、またそれにたいして教育にできることは何だろうかというテーマで、彼女を交えてお話しました。

政治離れの原因

 原因についてこんな意見が出されました。ふだんの生活で実感するような不満や不安が少なくなったからではないか、と。
 また、いわゆる自己責任論がいわれるから政治に助けを求めづらくなっているといことも挙げられました

 労働者対資本家という対立構造が絶対性を失った現代においては、もっと普遍的な課題が重要な争点となってきました。人権や環境などがその例でしょう。
 じっさい、20世紀前半のような労働環境は見違えるほど改善され、明日を憂えて政治に訴える人が少なくなったことは事実でしょう。そして、さきに挙げたような現代的な課題が、せわしない社会の中で忙殺される人々にとって見えづらい問題なのもまた事実です。

 しかしこれらの問題から目を背けることも、また自分が「正常」でいるための選択なのかもしれません。政治に訴える人を「自己責任」の一言で嘲笑しようとすることもまた然りです。
 正常さというのは一種の呪いのようなものです。自分が異物である可能性から必死に目を背けては血眼で異物を探して徹底的に排除するのです。自分が異物になったら排除される側にまわるにもかかわらず。恐れを知らないのか、恐れゆえになおさら排除に掻き立てられるのか。

 ロールズは「無知のヴェール」の存在を前提して、この社会は原理的に公正だと説きました。何か選択する際に自らがこの先どんな環境に置かれるか分からないのだから、人々は自らの将来として最悪の状況をも考慮して選択をするはずだというのです。
 しかしこのヴェールは、きっと正常の呪いによって歪められているのだと、私は思います。「正常」なければならない人々には、無知のヴェールの前にいようと思いの至らない可能性が存在するのではないでしょうか。

教育にできること

 さて、では教育はこれにどう立ち向かえばいいのでしょうか。

 民主主義は守られなければならないという前提は勝手ながらおかせてもらいますが、政治や社会への関心をよび起すにはけっきょく、じぶんをときに残酷な社会問題の当事者として捉えるちからを養うことが必要ではないでしょうか。授業でみる社会は、どうにも模式的で、あるいは過去の物語で、(もちろんそれらを学ぶことは重要ですが)、教科書の中にいるそれらはいかんせん実像として目の前に現れてきてはくれません。しかし本来の社会においては、ひとりひとりがときに誰かを抑圧し、ときに抑圧される他ならない当事者なのです。
 そのむごたらしい現実と向き合うトレーニングを積むことが、主権者教育(citizenship education)として浸透していくことが重要なんだと考えます。

 話合いの中では、時事問題を授業内でもっと取り上げられるようにするべきだとか、今起こっていること・実際の政局を考えるような内容が増えるといいという声がありました。

 教育の現場で教師の思想的な偏りが生徒にことさらに影響を与えてしまう懸念は、真剣に向き合わねばならない問題ですが、いっさいの中立をつらぬくためにまったく訓練を積まないままでは、むしろ偏った情報を見極める力も養えないでしょう。
 社会にある事象と自分がどのようにつながっているのか、これを見抜けるようになることが正常の呪いをこえて社会問題をじぶんごとにできる主権者になるカギというわけです。

 Oさんの通っている学校では、先生が現代社会の授業の中で現実の政治の問題を取り上げてくれるといいます。多少偏っていることもあるようですが、授業後には生徒の間でその問題についての話題が上がるのだとか。きっとその繰り返しの中で、多少の偏向はものともでず自分の意見をつくることのできる主権者が生れるのだと思います。
 そして、そんな環境にもまれているOさんが「若者の政治離れ」を身近に実感していないということは、一筋の希望なのかもしれません。

むすびに

 自分のとりとめのない思考をなぞりつつ、話はまとまらないまま4000字を超えるボリュームになってしまいました。
 ひっきょう、私はこの社会の当事者であるのだから自らの残忍な部分と向き合うぞという宣言と、政治関心を喚ぶには当事者性を養うのが要ではないかという考察です。

 最後にこのweekly ivoteの内容は、私の個人的な思索に過ぎないと念を押して、むすびたいと思います。
 ここまでお付き合いいただいた方、ありがとうございました🙇

tomohiro


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