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伝えるって事を考えさせられた。--- 映画「長崎の郵便配達」レビュー

最近ドキュメンタリー映画がちょっと面白いなーと思っていて、上映中の「長崎の郵便配達」を観てきました。

英国人ジャーナリスト、ピーター・タウンゼント氏が戦後の長崎で原爆の惨禍を生き延びた郵便配達員の谷口稜曄氏と出会い、取材を通して交流を深め、やがて一冊のノンフィクション小説を上梓します。タイトルは「THE POSTMAN OF NAGASAKI(長崎の郵便配達)」。映画はピーター・タウンゼント氏の娘のイザベルさんが、タウンゼント氏の没後に長崎を訪れ、父親の記憶を追体験する姿を追ったものです。

この作品はことさらに原爆の悲劇であるとか、反戦を訴えるものではありませんでした。確かに谷口氏の悲惨な体験に関する描写や映像は出てきますが、それは主にイザベルさんによる長崎の郵便配達の朗読という形で表現されます。そしてイザベルさんが追っているのは原爆投下という出来事ではないのです。

イザベルさんは、なぜ自分の父親が谷口氏と交流し、小説を書くに至ったのか、そして何を伝えたかったのかが知りたい。もっと単純に言い表してしまえば "父親の仕事ぶりを知りたい" ということになると思います。

私にもなんとなくわかる気がします。多くの人がそうであるように、私も父の家庭での顔しか知らず、彼の仕事場での顔や、自分が生まれる前の父の姿など、知ろうともしませんでした。そして父の年齢に近づくにつれて、今の自分なら、もっと父といろいろな話ができただろうなと感じることがあります。しかしそう思うようになった今、私の父もこの世にいません。

父親のピーターさんは小説家・ジャーナリストで、娘のイザベルさんは女優であり、演出家です。形は違えど何かを表現し、伝える仕事を生業としています。同じ表現者としてもイザベルさんが亡き父親と対話したいと思う気持ちはよくわかります。

途中でイザベルさんが号泣するシーンがあります。それはピーターさんが、仕事の合間に鳥の鳴き声や風の音などの環境音を、折に触れ録音していることを取材相手から聞かされた時でした。それはイザベルさんが父親としてよく知るピーターさんの姿そのもので、彼が確かにこの長崎の地で生きていたことを実感した瞬間だったと思います。

このエピソードの中には戦争も原爆も登場しません。この作品は記憶をつなぐという行為の尊さがメインテーマなのだと私は受け取りました。

ネットでひょいひょいと調べて、ふむふむそういうことがあったのかと知識を得ることは簡単です。私も実際そんな感じで記事を書くことが大半です。しかし、それだけでは強くひとを動かすことはできないなあと映画を観ていて思いました。

イザベルさんが朗読している本のページを観ていると多分書籍の終盤だと思いますが、谷口さんが子供たちに自分の原爆に焼かれた体を見せる逸話が紹介されます。子供たちはその体を見て泣いてしまうのですが、そんな子供たちを見て、彼らに自分の体験をきちんと話そうと決意します。これから生まれて来る者たちのために、自分が伝えなければならない。その純粋な思いにピーターさんは心打たれたのだと思います。

映画では前後しますが、後にピーターさんは谷口氏を英国に招き、テレビ番組に一緒に出演することになります。その時ピーターさんはイザベルさんをスタジオに呼んでいるのですが、そのスタジオで谷口さんは服を脱いだそうです。ピーターさんもまた、谷口さんの想いを自分の子供たちに伝えるという使命感を抱いていたのかもしれません。

谷口さんの伝えたいという気持ちにピーターさんが共鳴した、その気持ちを今度は娘のイザベルさんが受け継ぐことになるわけですが、それにはイザベルさんが今の時点まで人間的に成熟する必要がありました。今のイザベルさんだからピーターさんの想いを受け止めることができる。その時にはピーターさんはいないわけですが、イザベルさんに伝えるための材料をきちんと残している。それが素晴らしい。正確に思いを伝えるってのは、やっぱりすごく手間も時間もかかることなんだと思いました。

そしてイザベルさんは、今度はイザベルさんのやり方でピーターさんの想いを伝えていく。イザベルさんは言います。

「なんだか私が郵便配達みたいですね。」

この映画のタイトルは
「長崎の郵便配達」
ですが、

英語名は
"THE POSTMAN FROM NAGASAKI"
です。

書籍のタイトルと少しだけ違いますね。

私はとても素敵なタイトルだと思います。

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