理不尽な力と、闘っている。
「私は生き抜くために闘っているの。
理不尽な力に屈する気なんて毛頭ない」
草凪みずほ『暁のヨナ』より引用
ふとした瞬間に、この世界はなんて生きづらいんだろうと、思ってしまうことがある。私はこの世界で生きていけるのだろうか、と。誰しもが、純粋な気持ちを持っていたのに、いつの間にかそれを忘れてしまうのは、その人のせいではなく、きっと、世界の仕組みがそうさせてしまっているからなんだと思う(そしてその仕組みが私たちの生活を便利にしている側面もあるから、なんか煮え切らない)。
理不尽な力と言われて、何を思い浮かべるだろう。私は、中学生のときに言われた言葉が、いつまでも取れない棘のように心に残っている。学校に行けなくなったとき、気分が落ち込んでもうどうしようもない、そんな気持ちになっているときに、言われた言葉。
「思春期だからね」
私はその場で死んでやろうかと思ったくらいに、その言葉に腹が立って、そしてすぐに諦念が襲ってきた。この痛みは、きっと誰にも伝わらないのだと。「わかるよ」と言われても、それは本当の意味でわかっていない。この痛みは、そういうものなのだと気付かされたのだ。
私が死んでしまいたいくらい悩んでいることを、「思春期」のせいにされたこと。思春期ならば、死にたくなるんだろうか? 思春期ならば、この悩みも、この痛みも、当たり前のものなんだろうか? いっそ死んでしまえば、相手もわかるんだろうか。遺書に「思春期だから、死にました」と遺せば、伝わるのだろうか。
私にとっての理不尽なことは、「絶対に理解しあえない他者のことを、自分の枠組みの中で分析すること」だ。そして理不尽な力とは、あたかもそれがやさしさのように捉える風潮だ。「わかるよ、つらかったね」その言葉を言っていい存在は限られている。そのことを、多くの人は理解していない。理解しているつもりでも、自分も似たような感情を抱いたことがあれば、つい「わかるよ、私も…でね」と自分の経験に引き寄せてしまう。それが全く同じであることは絶対にないのに、同じであるようにしゃべるのだ。私はそのことが、やさしさで言っているのだろうと理解しつつも、私はそう言わないようにしようと勝手に心掛けている。
それぞれに人は、自分だけの領域を持っている。その領域を、やさしさを盾に自分の都合で踏み荒らしてはいけないのだ。
特に、年齢に関することは、誰もが通ったことのある道だからこそ、言われやすい。私が言われた「思春期」もそうだったのだろう。「18歳」であれば、18歳の経験がある人は18歳以上の人すべてだから、自分の18歳と相手の18歳を混同して「18歳のときは○○をすべきだ」なんて言う人もいる。けれど、それはあくまで相手の枠の話だ。自分の枠とは違う。
それでも、年齢を重ねるにつれ、人は自分の中に多くの枠を持つ。自分だけの領域を作っていく。それは、死への準備だと私は考えている。自分なりの答えを見つけておかなければ、死ぬときに後悔が残るかもしれないし、自分の生への正当性(裏を返せば自らの死の正当性)を保てない。だからこそ、大人になるにつれ、自分だけの軸を持ち、大人はそれを理解してもらおうと、相手の承認を得ようと、あたかもそれが世間一般の常識のように自分の軸を相手に押し付けることだってあるのだ。しかし、それをされた相手はたまったものではない。「あなたとわたし、全く同じ環境で生きていないのに、どうしてそれをわたしに押し付けるの?」――そういうことである。人の話を聞けない大人というのは、死を怖がっているにすぎない。
だから、きっと私も、大人になるにつれ、自分だけの軸を持ち、自分だけの枠を持ち、自分だけの領域を確保する。それだけなら悪いことではないけれど、ふと気が抜けたとき、相手の背景事情を考慮せずに自分の経験を相手に押し付けてしまうかもしれない。それが、怖い。理不尽なこと、理不尽な力だと思っていたものの中に、私が含まれてしまう可能性があることが、怖い。
けれど、自分の領域を守れないのもまた、怖いのだ。自分を守る術でもあるそれを手放すのは、怖い。だからこそ、私は闘っている。理不尽な力と、理不尽な力ではない、その境界線の上で、私は揺れている。私が思う理不尽な力に屈せずに生き抜くというのは、そういう矛盾を抱えて生きていくということなのだと、ふと考えた。
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