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夕立あとの木漏れ日に――お盆によせて

 夕立が通りすぎたあと、久しぶりにお墓参りをした。家族を乗せた車が、濡れた路面の上を走っていく。

 ラジオでは、月命日で故郷の石巻に帰ったという人のリクエストで、秋川雅史さんの「千の風になって」が流れている。雨上がり、車の外のコンクリートは濡れていて、ところどころに水溜まりがあった。曇っていた空はだんだんと晴れ間を見せて、太陽の光が差し込んで眩しい。

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に 千の風になって
あの大きな空を吹きわたっています

 ふと、目の前に広がる木々と太陽が作り出す木漏れ日に目が行く。晴れた夏の木漏れ日は、強い日差しで濃い影を作り出していて、はっきりしている。
 けれどそのときは、雨で濡れた路面が光をキラキラと吸い込んで、ぼんやりと発光しているような幻想的な景色が広がっていた。影と光の境目はぼやけていて、湿気の高い空気は太陽光を乱反射しているようだった。

 お盆のはじまり、人々は祖先を家へと迎え入れるため、お墓まで提灯を持って歩いていったという。
 お盆という文化が根付いて以来、お盆のはじまりに夕立はどれだけあっただろうか。そのときの道はどうなっていたんだろうか。もしかしたら、私が見たようなぼやけた光を、今は祖先となった彼らも見ていたかもしれない。

 天界はあるのかもしれない、と無遠慮にも思う。そういう自然が作り出す風景の繊細な濃淡を見ると、そんな考えが浮かんできてもおかしくないなと納得するのだ。

   ・ ・ ・

 そういえば、小学校低学年のころ、ひどく死ぬことが怖かったことがある。死ぬということがどういうことかわからなくて、どうなってしまうのか、広がっている世界がないことの意味が理解できなかった。
 死んだら無になるというから、死は暗く冷たい海の底みたいなんじゃないかと子どもながらに考えた。

 そして少し歳を重ねて、曾祖父を亡くした。慣れない場所、儀式、食事と服。せわしなく親戚の人たちが動く中、曾祖父が眠る棺と私は葬儀場のホールに取り残された。明るく笑う曾祖父の顔写真を、並べた椅子に寝転がりながら見ていた。

 そのとき、何を考えていたのか、今では思い出せない。でも私は泣いていた。もういないんだという喪失感と、それが当たり前のように、どこかの誰かのもとで起こっていること。さっき見た曾祖父の死に顔と、笑顔の顔写真。大人たちの声。

 お焼香とお線香を何回あげたころだろうか。それがどんな意味を持つのかもわからずに、ただ手を合わせて願う。手を合わせている間、暗闇に包まれた視界で強く思った。

――どうか穏やかに。

 死ぬのが怖い、そう思っていたのに、気持ちは穏やかになっていく。死というものに間近で触れたとき、死ぬことが怖く、恐れるようなことにはどうしても思えなかった。思いたくなかった。

 大切な人を亡くしたとき、死んだ後に行く場所が暗く寂しい場所じゃ嫌だと思った。穏やかで、優しい場所であってほしいと願うようになった。どうか曾祖父の行く場所が、あたたかい場所であるように。

   ・ ・ ・

 お盆は私たちが祖先を迎えに行くものだ。けれどその光景を眺めながら、もしかして、と思う。

 夕立のあとに広がる湿り気を多く含む空気と、少しだけ気温が上昇する感じ、世界は雨によって景色を変えて、太陽は沈む準備を始めるあの瞬間――それは祖先が住む世界の空気がこちらに流れ込んだようなときで、本当は私たちがその光に導かれていたのではないか。

 お盆のお墓参りの、ほんのささいな一幕だ。そうやって考えてしまうことが壮大で、ちょっとだけ笑われてしまうかもしれない。でも、そうやって感じられるような経験ができることは、きっと貴重なことなんだろうとも思う。

 やわらかく光る木漏れ日が、お墓参りへ向かう道を照らす。私はラジオに耳を傾けながら、揺れる光を見ていた。

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