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あの日見た海の色を

 起きた時点で遅刻確定の朝を迎えた私は、重たい足取りで通学路を歩いていた。列車に乗って、私は目を閉じた。学校に行きたくない、学校に行きたくない。そう唱え続けていると、学校の最寄り駅についても足は動かず、目も開けられなかった。いや、足を動かしたくなかったし、目を開けたくなかった。学校に行って、現実を直視するのが怖くて、私はじっと座り続けていた。朝ちゃんと起きるのが難しくなって、学校に行けなくなっていたときだった。

 学校の最寄り駅を過ぎてしまって、すぐに次の駅で降りる発想は浮かんでいた。けれど、そこでも足は動かなかった。とにかく動きたくなかった。そのとき、ふと頭によぎったことは「海が見たい」という気持ち。何かが変わるかもしれないと、私はそのまま電車に乗り続け、海の見える駅で降りたのだった。

 平日のお昼は観光客がいるはずもなく、私はとにかく海が見える場所まで行きたいと歩いて行った。スマホのGoogleマップには頼らず、自分の勘だけを頼りに歩いた。人通りの少ない町を歩く私に、海の香りが届き始めて、胸が躍る。学校に行かずにこんなことをしているなんておかしいけれど、そのおかしさが余計に冒険心をかき立てた。海の匂いがどんどん近づいてくる。段々と速足になる。歩道橋に登れば海が見えそうだったから、階段を上った。

 徐々に、海が見えてくる。そして、海がきちんと見える場所にたどり着くと、私は立ち止まった。そして思う、海って、こんな色だっけ、と。私が想像していたのは、青い海だった。さすがに南国の澄んだ水色を想像していたわけではない。ただ、深みのある青を想像していたのに、私の想像は裏切られた。

 目の前に見える海は、どす黒い青の塊。青というより、黒色に近くて、水というより、一つの塊に見えた。近くに行けば、海が水であることがわかったかもしれない。黒色ではなく、想像したような深い青だったかもしれない。私は何分かその場に立ちすくんで海を見つめた後、来た道を引き返した。そして行きとは違う方面の電車に乗り、学校の最寄り駅で降りて、学校に行った。

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 「イユ」を始めようと思った理由を挙げればきりがないけれど、誰かに言うとしたらこういう感じかなと、ふと思った。人は、行動を決めてから行動を起こすまでに、きっかけを通すと私は思う。よしやるぞ、と決めてから、すぐ行動に移せる人もいれば、計画はしたもののなかなか行動に移せない人もいる。けれど、どちらの人たちも行動を決めてから起こすまでに、起爆剤というか、きっかけというか、とにかくそういうものが身体に認識される過程があるのではないか、と。

 それは、「お風呂に入るのだるいなぁ」とずっと思ってYoutubeの動画をあてもなく見ていたけれど、ふとした動画を見ているタイミングで、体を起こして「はいろっかな」となるとき。それは、「勉強したくない」と思ってマンガを読み始めたけれど、きりもよくないタイミングでマンガを閉じて勉強机に戻るとき。それは、「仕事したくない」と思って朝のベッドの中SNSをめぐっているけれど、ある瞬間にがばっと体を起こして背伸びをするとき。

 そのYoutubeの動画も、そのマンガも、そのSNSの投稿も、「やる気が出る」とか「今すぐに行動に移せるようになる」とか、自己啓発の内容が含まれているわけではない。けれど、なぜかそれらがトリガーとなって、行動に移せるときがある。

 私があの日、あの海を見たとき、特に海を見て「学校に行こう」と思ったわけではない。けれど、当たり前のように学校に足が向かった。あんなに行きたくなかったのに、なぜか。

 私は、「イユ」の中でする表現を、コンテンツを、そういったものに使ってほしいと思っている。見ても、行動に移せないかもしれないけれど、それでも私は発信し続けるから、あなたが見たいと思うときに、見てみてほしい。嫌なことがあって、そういうときに限って雨に降られて、運悪く折り畳み傘を忘れてしまったようなとき。何も理由は言葉にできないけれど、死にたいと呟いたとき。カフェに来たけれど、どうにもやるべきことに身体が向かないとき。速足で駅の中を歩いていて、ふと息ができないような、もう立っていられないような感覚になったとき。そういう、わけもないけれどがんばれないとき、「イユ」に来てほしい。一つ一つのコンテンツに、あなたを癒す力はないし、あなたを助ける力はないけれど、コンテンツを見たときに、もしかしたらまた歩き出せるようになるかもしれない。もしかしたら、また前を向けるかもしれない。保証はないけれど、この「イユ」の場所では、あなただけしか感じられない感性を素直に持っていい場所だから。

 「イユ」を通して、私が伝えたいのは「あなたは世界にたった一人だから、当たり前の存在じゃない。あなただけの感性で、イユに触れて。」ということなんだと思う。イユを通して感じたことが、善いものか悪いものか、美しいものか醜いものかなんて関係ない。他人が決めた判断基準が通用しない場所として「イユ」を使ってほしい。

 あの日見た海の色を、私は未だに覚えている。なまぬるい海の香りと曇り空の下にある暗闇の塊ような青。確かにそれは、私の血肉となって、体じゅうをめぐっている。

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