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利用価値?非利用価値?

私は都内で遊んで暮らす、男性保育士です。

先日、あるトークショーに参加しました。そこでは、生態学?環境経済学?で用いられる、利用価値と非利用価値(その中でも【存在価値】)を引用して、人のこと、教育保育のことについて語られていました。

私がサッカー部で日々汗を流していた頃、「使えねーなー」などと指導者が選手を罵倒することは日常でした。

社会に出ても、ビジネスに携わる人たちはあらゆるスキルの有無や成果によって、「使える」「使えない」という価値観に晒されているのではないでしょうか。

そして「少しでも有能になろう、自分自身の(利用)価値を高めよう」と日々研鑽に努めているのではないでしょうか。(私も保育士になる以前、営業をしていたことがあります。)

振り返れば、義務教育を受け始めた小学校から、高校・大学の受験、部活動、習い事、就職活動と、ずーっとこのような価値観の中に身を置いてきたという人も少なくないのかもしれません。

もちろん、何かを成し遂げるために努力することは賞賛されることです。新しい知識や技術を身につけることは楽しいことです。

しかしその一方で、私たちは人や自然、そして子どもたちを見る眼差しさえも「利用価値」のフィルターを通して見ていないだろうか?と問われた時、なんと答えられるでしょうか。

地球上には人には見えない、まだ知らない生物、物事、事象がたくさん存在しています。その存在が地球に何かをもたらし、私たちは知らず知らずのうちに、それらが存在することの恩恵を受けています。人が利用しないまでも、それが存在する価値があるのです。

しかし私たち人は、人の経済活動にとって利用価値のない、もしくはコントロールし切れないものを排除することを続けてきました。東京都心にはほとんどの生き物がいなくなりました。

「これからの社会は○○な時代だから、△△な力が必要になる!××な子どもを育てよう…」こんな話は教育業界でよく耳にします。

大人は子どもに何を求めるでしょうか。1つでも多くの知識を覚え、技能を習得し、少しでも大きな舞台で力を発揮することを望んではいないだろうか。

それらは決して悪いことじゃない、むしろ良いことです。それを、その子ども自身が「熱望している」のであれば。

その人の持つ魅力はなんだろう?興味関心は何に向いているだろう?どんな気持ちで、何を考えているんだろう?声、表情、身体、動き、その人がそこに存在する価値ってなんだろう?

私たちは、社会やそこにある評価を通さずに、「その子だけ」を見ることができているでしょうか。

子どもたちすらも、社会に利用され、消費されてはいないだろうか。

「ウチの子は生きていればそれで良いんです!」保育園へお迎えに来た保護者が、泥んこになって遊ぶ我が子を見て放った言葉を思い出しました。

何をするわけでもなく、一緒にご飯を食べてお茶をしながら話をするだけなのに、「来てくれてありがとう。本当に良い子ね。」と、いつも温かく迎えてくれる、遠く離れた祖父母のことを思い出しました。

私たちは、子どもたちの、そのまま、ありのままを見つめ、受容することができているだろうか。

その子が、その子として存在する価値を、ちゃんと伝えられているだろうか。

子どもたちがいるから、私は先生でいられる。子どもたちと接することで、毎日心から笑える、幸せを感じられる、成長できる。

いつも本当にありがとう。

明日から気持ちを新たに、子どもたちと向き合いたいと思います。



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