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保育園で音楽とアニメーションをどう取り扱うべきか。

私は都内で働く、男性保育士です。最近の子どもたちの姿、私が考えていることを綴ります。

「既に確立された技や知識を十分に吸収するからこそ、自分らしさを豊かに表現できる」ということが幼児教育では言われています。

では保育の中で、既存の音楽やアニメーションをどう取り扱うべきなのだろう…。

「べつにきーみをもとめてないけど〜♪」と瑛人さんの『香水』を子どもたちが自発的に口ずさんでいます。
保護者の話によると、筆頭格のA君は、テレビで一度耳にしただけでその曲にハマり、親にそれを流して欲しいと伝えて、自分から聞いているそうです。保護者の嗜好が子どもに影響することはありますが、A君は曲そのものの魅力を感じたようです。他の子どもたちも、家庭で聞いていたり、細長い積み木をマイクに見立て歌遊びをする際(2歳児クラス)にA君の影響を受けてか、歌えるようになっています。みんなで合唱し、さながら若者がカラオケで歌っているようです。


子ども向けに作られた曲に限らず、大人にも耳障りがよくつい口ずさんでしまう曲の魅力は、子どもたちも同じように、いや、大人よりも敏感に感じ取っているようです。

ただ、保育園という体質は「流行り物」を毛嫌いする傾向があります。

しかし、流行の積み重ねが「確立された知識、技能」を築いていくのであり、その過程の1つ1つの流行も、確かな知識や技能が詰まったものであると考えています。

『パプリカ』はオリンピックの公式ソングでもあり、どの園でも頻繁に使用されていることでしょう。パプリカと香水の線引き、それらとEテレで流れる子ども向け曲の線引きは何によってされるのでしょう。お母さんと一緒の中で使われる曲も、流行り廃りがあります。

また、アニメーションでは『鬼滅の刃』が流行っています。女の子たちはこぞって製作ゾーンへ向かい、口元に付ける小道具を身につけ、ネヅコ?ネズコ?、になりきっています(私は拝見したことがありません)。


落合陽一さんと、映画やドラマのサブスクリプションサービスを運営されている方々の対談で「日本のアニメは各国の映画やドラマを差し置いてトップをとる日がくる」と語られていました。それだけ、世界的に評価の高い、日本の1つの産業なのですね。そうであれば、教育機関である保育園として、その業界やそのコンテンツの取り扱いについて考え直さなければなりません。「アニメ」というだけで、教育的でないという固定観念が強く感じられ、それだけで毛嫌いし、活用しようとする姿勢がまったく無いからです。

鬼滅の刃の全然内容を知らないのですが、「鬼」が出てくるそうで、現代版「桃太郎」とでも言えるでしょうか…?。元祖『桃太郎』をはじめとする、日本の昔話も、その時代に流行り、語り継がれて今に至るのでしょう。話を覚えて語り、描いた絵を用いて語ることが、最新の発明であった時代があるわけです。それが当時のアニメーションだったのでしょう。

鬼滅の刃も百年単位で語り継がれていくでしょうか。スタジオジブリ作品にも、その時々の社会をテーマにした素晴らしい作品が多数あります。それらを活用せず、昔話ばかりを取り扱うことが乳幼児教育のあり方として良いのでしょうか。

海を旅した竜宮城、空を飛ぶ天空の城ラピュタ、今生まれているアニメーションも、先人たちの知識と技能から学んでいることを感じます。

そうであれば、同様に園で取り扱うことがあっても良いと感じますが、そうとはなっていません。なぜでしょうか?

商業的な側面が強いから?教育的に良くない?各家庭の価値観が大きく異なるから?

個人的には、正義vs悪という構図で殺し合うような表現は良くないと思いますが…。

とはいえ、昔話も多く売るために作られています、桃太郎は鬼を倒し、3匹のこぶたはオオカミをやっつけます。アニメーションを教育で活用しない手はないはずです。

例えば、「ごっこ遊び」は人間関係力や非認知能力を育むために、幼児期において重要です。子どもたちはアニメーションの内容を用いての、ごっこ遊びを盛んにしています。一つの表現であることを強く感じます。

大人にとって魅力的なものが、子どもにとっても魅力的であり、ある意味大人よりも敏感に何かを感じ取り感性を働かせて、自らそれを育んでいます。おおよその大人は絵を描くこと、見ることが苦手な人が多いようです。子どもたちは描かれていないところまで想像し、自由に描きます。音楽やアニメーションにも同様のことが言えそうです。

家庭で子どもたちが触れるコンテンツが変化している今、音楽とアニメーションの取り扱いについて、保育の現場から考え直していきたいです。


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