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ほぐす

言い聞かせられ強制されて取り組むことがらから秩序感は育たない。その取り組む姿勢は秩序感ではない。子どもは自然な欲求として秩序感を持っており、それが発揮される環境を整え、調整することが保育である。

「なんでもかんでも自由ではなく…」というが、子ども、いや人は「いつだって不自由であり自由であって、不自由さの中に自由がある」のだから。その環境をどうデザインするかが問題だ。環境設定、ルールやきまりのデザインを子どもたちへの「提案」として捉え直すのだ。ルールやきまりを、子どもを拘束するものではなく「自由と楽しみを広げ深めるもの」にできるはずだ。もっともっと柔軟にいこう。

それと同様に「社会性」という言葉を振りかざし、子どもを拘束し何かをさせようと試みる大人のどれほど多いことか。子どもを自然な欲求のもと育むには、大人の不自然な拘束を与えてはならないではないか。子どもたちは、人との関わりを自ら求める、なんど喧嘩しても友だちと関わろうと向かっていく。自然な欲求に、社会性も含まれているではないか。20〜30人の子どもが、興味関心の無い、聞いたところで好奇心が湧いてこない話や取り組みに、嫌々ながら静かにして参加することが社会性を育んでいるのだろうか。いや、そんなことはあり得ない。
広く社会に通用する性質が、社会性だという。その性質を持った人々がより良い社会を築いていくのだろう。そうであればこそ、全員が同じ興味関心を持ち、同じだけの感度を持って、同じことへ取り組むことの方が不自然だ。社会は異なる興味関心を持った人々によってこそ豊かな営みを生んでいく。人の種としての生存戦略として「多様性」がある。

もういい加減に分からなければならない。どんな優秀な教育学者や教授の話を聞かずとも、目の前の子どもに目を凝らし、思いを巡らせ、寄り添おうと試み、「今を最もよく生きること」すなわち「楽しく過ごすこと」を考えればこそ「一人一人」を尊重した営みが必要性から生じてくる。

それが保育所保育指針にも、繰り返し、繰り返し、まるで乳児の絵本のように繰り返し、述べられているではないか。一人一人を尊重し「一人一人の楽しさ」を追究すればよい。と言うとまた、自由や社会性と同じような口撃がとんでくる。「楽しければいい、だけではない」と。何を言っているんだろう?何を考えているんだろう?私には到底理解できない。「楽しさ」とは何かを明確に持てていないからそんなことが言えるんだ。
誰かを傷つけること、迷惑をかけることが楽しいことな筈がない。いつまでも1人で遊んでいても楽しさは広がらない、深まらない。例え、一見、1人で遊んでいるように見えたとしても、社会、保育園という社会の中で遊んでいる以上それは1人ではない。その営みは社会的なのだ。そこにはその子なりの気づかいが存在する。その子なりの社会集団内での立ち振る舞い、表現がある。それを画一したデイリープログラムに沿わせようと、枠組みにはめ込もうとするから、痛み苦しんでいることが、大人たちにはなぜ分からないのか。多くの場合子どもたちは発しているはずだ「嫌だやりたくない」と言っているし、怪訝な表情を浮かべ、その場から離れようと自己防衛している。気づかないわけがない!!!
その時、子どもは何も楽しむどころではない。楽しさは遊び心に通ずる。遊びとは「主体的、探究的、創造的、協働的」な営みである。すなわちその要素が含まれる営みから楽しさを感じられる。自由の表現と似通うように「人は利他的であり、どこまでも利己的」なのである。良いことも悪いことも、周り回って自分に返ってくることを分かっている。はたまた、それを体験的に学んでいくことが、教育であり、それはどんな教育施設や施策がはじまる以前から、健全な人の営みに含まれていたことである。

先生としてではなく、1人の大人として、いや1人の人として、子どもたちと接するのだ。自然な必要性に応じてのみなにかを施すのだ。「子どもたちのため」と言って何かをすることよりも、「なにをしないべきか」考える必要がある。その必要性に迫られている。

その時々の子どもとの関わりにおいては「見守る姿勢」を大事に「応答的援助」を大切にしよう。必要以上の過保護過干渉はやめよう。子どもの必要には100%応えよう。ただ、見守るという言葉を用いて、子どもと遊ぶこと、触れ合うことをやめてしまった保育者もいるようだ。いったい何をしているんだ?何のためにあなたはそこにいるんだ?
「見守る」ということを確かに捉えなければならない。見守る前には、子どもたちの姿から思考を凝らした環境設定が不可欠だ。しかし、完璧な環境設定などあり得ないこと、なにより人的環境が最大の環境要因であることを理解するのだ。
そして、大人がモデルとなる。基本中の基本。どんなモデルになるか。愛情溢れるモデルであって欲しい。子どもたちが「もう十分」「もう大丈夫」と言うほどに愛情を注げばいい。抱っこもハグも、何歳児だって、子どもたちが喜ぶだけ、大人ができるだけ、したらいい。できる限りでいいから、そうしたら、子どもが愛情をまた返してくれるから。それを実感して欲しい。愛情の相乗効果はすごい。子どもに社会はあったかいと伝えて欲しい。愛情を十分に感じた子どもは自然に自立していく。自律できるようになっていく。めいいっぱい遊んだら良い。心ゆくまで、飽きるまで夢中に。大人と十分に遊び尽くしたら、子どもは大人の提案を超える何かを必ず創造してくる。

もうなぜそれに取り組み始めたのか、どうして取り組んでいるのか、なぜその方法を取り入れているのか、分からなくなっている実践があるならば、そんなものは一度やめてみたらいい。「当たり前を見直すこと」からはじめよう。当たり前なんて存在しない。その国、地域、園、クラス、家庭、年齢が異なる、一人一人に完全に当てはまる、当たり前なんてあり得ない。

午睡がその分かりやすい例だ。「子どもたちは育ちに必要な自然な欲求を持っている」ことを念頭に置き、なにがあったも動かさないように重石を乗せておこう。遊びたいから遊び、食べたいから食べ、眠りたいから眠る。よく遊び、よく食べ、よく眠るとはそういうことだ。より良く生きるとはまた、そういうことだ。

「一人一人」が「今を最もよく生きる」こと、保育園で生きるということ。

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