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【解説】竹田青嗣『欲望論』(1)〜イントロダクション〜

はじめに

 「苫野一徳オンラインゼミ」に掲載している「名著紹介・解説」コーナーより、竹田青嗣『欲望論』の解説を一般公開します。

 現在、英訳プロジェクトが進行中です。世界で読まれるようになれば、おそらく、哲学史が大きく動くことになると思います。

 でも、それまでしばらくの間、この本の哲学史的意義は十分に理解されないままかもしれない……。

 そう考えて、弟子としては、少しでも多くの方にこの本を吟味していただきたいと思い、こちらに紹介・解説を載せることにしました。

 第1回目の今回は、まず簡単な紹介から。ご興味を持ってくださった方には、ぜひ、本書を直接お読みいただけると嬉しく思います。

哲学史を総覧し、未踏の地へと踏み出す著作

 21世紀、ついに日本から、哲学史を塗り変える革命的な哲学書が登場した。

 自分の師匠の著作について、あまりこのような言い方はすべきではないのかもしれないが、しかしどうしても、そう断言してしまいたい気持ちに駆られる。

 古代ギリシアや古代インド・仏教哲学などから、現代の最新哲学にいたるまで、ほとんどの、と言っていいほどの膨大な哲学およびその周辺領域を総覧し、現代にまで続く哲学最大の問題を明らかにするとともに、その問題を、自身の「現象学–欲望論哲学」が徹底的に解明しうることを論証する。

 その歴史的インパクトは、近代におけるカント『純粋理性批判』に匹敵する。

 さらにその内容は、カント三批判書(『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』)をカバーする。

 壮大さにおいては、ヘーゲル『精神現象学』をさえ思わせる。

 100年後、現代哲学の本流は、ニーチェ→フッサール→(部分的にハイデガーとウィトゲンシュタイン)→竹田青嗣と言われることになるのではないか。

 そのためにも、できるだけ早い英訳が望まれる。

形而上学的独断論 VS 相対主義

 哲学最大の問題とは何か?

 ひと言で言うなら、それは「形而上学的独断論」と、これを相対化する「相対主義」の終わりなき対立だ。

 古代哲学は言うにおよばず、現代の最新哲学もまた、この対立図式を一歩も抜け出すことができていない。

 これを竹田は、本書において「本体論」の問題として提示する。

 ありていに言うなら、「本体」とは「絶対の真理」のこと。

 神、世界それ自体、物自体、語りえぬもの……。

 哲学史において、「本体」はさまざまな形で変奏されてきた。

 哲学の歴史は、この「本体」を何らかの仕方で表現しようとする「形而上学的独断論」と、その不可能性を主張し続ける「相対主義」の対立の歴史であったとさえ言っていい。

 相対主義は、一見「本体論」を解体しているように見えるが、その基本的戦略は「帰謬法」を用いて「本体」の認識不可能性を主張することにあり、そのため実態は「本体論」と表裏一体のものである。

 つまり相対主義は、一見そうは見えないとしても、「本体」を想定しつつその不可能性を暴くという方略をとっているのであり、その意味で、形而上学的独断論と支え合っているのだ。

 そしてこの相対主義は、相対化の論理による限り、自身の正当性もまた相対化せざるを得なくなるというパラドクスと同時に、わたしたちの言説の世界を、結局は「パワーゲーム」に帰結させてしまうという重大な問題を抱えている。

 「確かなものは何もない」と言い続けることは、結局のところ、現実世界においては「力ある者」の理屈だけが跋扈する事態を招来してしまうからだ。

ニーチェとフッサール、そしてその先へ

 哲学史上、この問題を原理的に終わらせる可能性を持っていたのは、ニーチェとフッサールの哲学だった。

 しかし残念ながら、ニーチェには「本体論」の最後の残滓をなお見て取ることができる。

 また、フッサール現象学は、徹底的な「本体論」の解体を完遂したが、「本体論」解体後に本来であれば可能になるはずの、人間的「意味」や「価値」の原理論の展開にまでは至らなかった。

 フッサールには、竹田が本書で展開する「欲望論」的構えがほとんどなかったからだ。

 ニーチェとフッサールによって切り開かれた新しい哲学を、竹田が徹底する。そして、「本体論」の徹底的な解体後にその可能性が開かれる、人間的「意味」と「価値」の原理論を展開する。

 すなわち、善とは何か、美とは何か、芸術とは何か……。

 本書では、これら人間的価値の本質解明も展開される。

 哲学史を画する仕事が、どのような原理の解明によって果たされることになるのか、皆さんにもぜひ見届けていただければ幸いだ。

 あらかじめ言っておくと、哲学は、徹底的な“確かめ可能性”を追求するものでなければならない。

 哲学史には、他者が確かめ得ない何らかの「フィクション」を、絢爛豪華なレトリックで彩り(ごまかし)、圧倒し、さも真理であるかのように言い立てる(見せかける)言説があふれている。

 しかしそのようなレトリックは、すべて無効である。

 竹田が提示する理路を、わたしたちは本当に後追いして“確かめる”ことができるのか、ぜひ、吟味検討いただければと思う。

竹田哲学の批判的継承に向けて

 「大物」哲学者が登場しなくなって久しいが、この同時代に、今後200年の哲学の基礎を打ち立てるような著作が出たことを心から喜ばしく思う。

 と同時に、われわれ後続世代は、そのバトンを真摯に受け取る必要がある。

 竹田哲学を批判的に吟味検証し続けるとともに、彼が切り開いた原理を土台に、21世紀の新しい哲学を展開すること。

 かつてフッサールが述べた表現を借りるなら、今わたしたちの目の前には、新しい哲学の「無限の領野」が広がっている。

 哲学はついに、形而上学的独断論と相対主義を解体し、「意味」や「価値」の本質を解明する方法を手に入れたのだ。

 それはつまり、「よい社会」や「よい教育」のような社会構想のための哲学を力強く展開することが可能になったということであり、また、「愛」や「美」といった、実存論的世界の本質を明らかにすることが可能になったということである。

 わたしもこれまで、この現象学的思考によって、『どのような教育が「よい」教育か』『「自由」はいかに可能か』『愛』などの著作を書いてきたが、思索を深めれば深めるほど、竹田が切り開いた哲学的思考の“凄まじさ”を深く認識せずにはいられない。

 本書でも論じられるように、種々の理由により、哲学はこれまでほとんど死にかかっていた。

 しかし本書を通して、哲学は、その本当の威力をよみがえらせることになる。

 この長大な著作を読み通すには、哲学や哲学史にかなりの程度精通している必要があるが、次回以降ではできるだけ分かりやすく、本書を紹介・解説していくことにしたいと思う。

 手っ取り早く本書のポイントが知りたい方は、第5回「フッサール現象学の原理」と、第11回「欲望論の哲学とは何か」をお読みいただければと思う。

 ちなみに、現在第3巻に向けての準備が進められている。テーマは「倫理」の原理論になりそうだ。

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