歴史について


ラジオから聴こえてくる声。いつの時代のものなのか、誰がこんなところにおいたのか。僕は知らない。おそらく誰も知る者はいない。

---------------

19世紀。


アスファルトのない道路。そんな道路の存在を僕は知らない。しかし100年前にはやっぱりこの道路にはアスファルトははられていなかったのだ。「はられる」という言葉が適切なのかどうか、ちょっと僕にはわからない。


今よりもずっと多くの森と畑があった。今よりもずっとはっきりと山の形が見えて、そして今よりもずっと町は臭ったはずだ。電車も…今日ほどには通っていない。橋は…あったのだろうか?さすがに橋はあったかもしれない。しかし江戸時代には舟じゃないと川を渡ることができなかったのは確実だ。100年以上もたった今では対岸に渡るのなんて簡単だ。でも100年前はそうではなかった。100年後には一体何が簡単になり、一体何がそれでも難しいままで残るのだろう?


94年には日清戦争が起きた。それはやっぱり重大な出来事だった。結果的に日本は清、というよりも李鴻章軍に大勝することができた。しかし将校や政治家たちは必ずしも勝利を確信していたわけではなかったと思う。なぜなら日本はそれまでの歴史の中で2回大陸まで出張って中国と戦い、そして2回とも敗北しているのだから。「今回もやはり負けるのではないか」という思いはタールのように指揮官たちの心にへばりついていたことと思う。彼らはしかしそんな弱気を振り払って全身全霊をこめて戦ったのであった。そして勝った。勝ってたくさんの賠償金を得た。後の日露戦争と比べると、一点のくもりもないほどの大勝利と言っていい。100年後の僕なんかはそう思う。しかし当時の民衆は不満たらたらだったらしい。なぜこんなにはやく講和してしまうんだ、なぜ北京まで一気にせめこまないんだ。うんぬんかんぬん。歴史事実の意味合いというものを正しく判断するのはとかく難しい。

1887年、1人の男が生まれた。1888年には彼には妹が生まれた。彼は妹の手をひいてどこにでも行った…のかどうかはわからない。しかし川岸ぐらいには行ったかもしれない。川岸に行って、小蟹を捕まえていたかもしれない。あるいはまだ生息していた鮎を釣っていたかもしれない。妹は兄のことが大好きだったそうだ。なんといっても19世紀の話だから、着物を着て、下駄を履いていたのだろう。裾をまくりあげ、川の中に入ったかもしれない。当時といえどもさすがに直接川の水を飲むことはできなかっただろう。なんといってもこの辺はかなり下流であるから、水も汚くなっていたことであろう。


僕たちは100年前の町のことについてうまく想像することができない。アスファルトがないから雨が降ったら道路はぬかるんでしまうのであろう。水道管もろくに整備されていない。電柱などもまだなかったのではなかろうか?電気すらまだ普及していない。明かりは基本的にランプを使っていた。町は臭く、乞食がたくさんいた。川岸には渡しの舟が常に停泊していて、新地では鮎丼や鰻丼を食べることができた…。こんな事実を並べ立てても、当時の風景を再現したことにはならない。結局どれだけ事実を調べ上げて過去の世界をこしらえてみたところで、究極的にそれはファンタジーに過ぎないのである…


100年前の兄妹。1人は1912年。明治天皇が崩御したのと同じ年に死んだ。もう1人は…具体的な年代はよく覚えていないが、とにかく終戦前に死んだ。夫と、1人息子が残された。その息子は戦後芸術家として名をはせるようになる。彼は終生母は素晴らしい女性だと主張してゆずらなかった。そんな彼は母について、「母はその兄のことを男性的に愛していた」という言葉を残している。


兄妹というのはある種完結してしまっている。だからこそほとんどの人はそこから逃げたがるのだろう。本能的にも人間的にも、人はそこから逃げ出すように命令される。しかし稀に完結した輪の中に閉じこもって一生そこで暮らしていようと決意する者が現れる。兄妹2人ともがそう決意するのならそれはそれで1つのハッピーエンドなのだろうが、片方1人だけがそう決意するという状態は…何らかの悲劇的結末に至る可能性が高い。1人だけが去っていき、残された1人が孤独に踊る。はたから見ているとこれは実に涙を誘う光景である。


なかなか人はありのままの自分を愛せない。大人になればまた別なのだろうが、子どもの内は自分の町を憎み、家族を憎み、自分自身を憎んでしまうのが常である。兄妹がずっと一緒にいることがまわりに受け入れられず、本人たちもそんなのは気色悪いと感じてしまうのはそのためだろう。人はとにかく一生に一度は大地から離れようとする。塔に登って翼をとりつけて、目の前の広い空を自由に飛びまわろうとするものなのだ。そしてほとんどの人が墜落する。極少数の人がその時に命を落とすが、ほとんどは生き残る。生き残って、分際をわきまえるというわけだ。兄妹2人だけでいることができればいいと考えるのは、自分たちはこのまま永遠にこの土の中で戯れることが出来ればそれでいいと考えるのに似ているかもしれない。


兄妹といえばギュスターブにも妹がいた。ギュスターブは自らの仕事部屋に妹の胸像を飾っていたそうである。死んだ妹の胸像を自分の部屋に飾るというのは普通のことだったのだろうか?それとも当時としてもそれなりに常軌を逸していた行為だったのだろうか?150年以上が経過してしまった現代では、それはなかなかに答えを出すのが難しい問題となってしまった。

---------------
1848年にはルイ・フィリップ王政が崩壊した。

51年だか52年だかそれぐらいにナポレオン3世が帝位についた。

51年にはロンドンで第一回の万国博覧会が催された。

56年にマクシムが編集長をつとめるパリ評論にボヴァリー夫人が掲載される。

61年にはバクーニンが北海道(函館?)を訪れる。

67年には慶喜の弟がパリ万博を訪れる。幻の将軍。

69年にはスエズ運河が開削している。フランス資本によって開削事業は行われたのであるが、後に所有権はイギリスに移っている。いずれにしてもこの開削のために死んだのは多数のエジプト人労働者である。

70年に普仏戦争が起きるが、陸奥宗光はこれを視察している。

事実を並べ挙げることはできる。しかしそれだけではファンタジーを作り上げたことにしかならない。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?