中国南朝畜生列伝

〇前廃帝

 南朝宋には途中で廃されてしまった皇帝が2人いて、最初に廃された方を前廃帝、後に廃された方を後廃帝と呼んで区別する。


前廃帝の父親は孝武帝であるがこれはなかなかの名君だった。後を継ぐ息子が少しやばい奴だということには気づいていたようで、普段からかなり厳しく教育を行っていた。さて、孝武帝が崩御して前廃帝が後をつぐことになったがすると前廃帝は父親の墓を掘り返して今までの恨みをはらそうとした。さすがにこれは臣下に諫められて思いとどまり、墓に糞尿をかけるだけにとどめておいた。

 前廃帝は父親の弟、すなわち自身の叔父たちが目障りだったようで、彼らを動物の檻に入れて四つん這いにして飯を食わせるなどしていた。叔父の中で一番ひどい目にあったのが太っていたために「豚王」と呼ばれていた劉彧である。彼は前廃帝の命令で裸にされ、泥水を張った大穴に入れられ、飯と雑食を混ぜた桶を直接口から食わされたこともあったそうだ。彼はやがてそんな仕打ちに耐え切れなくなり、反乱を起こして前廃帝を殺害した。討ち入りをした時前廃帝はハーレムの女性たちと鬼ごっこをしている所だったという。

 後にこの劉彧が即位して明帝となった。彼は兄である孝武帝の息子、すなわち自分の甥を28人ほど殺したとのことだが狂人の多い南朝宋の皇帝の中ではまだましな方であった。

 この明帝が亡くなった後その長男が跡を継ぐわけだが、これが後廃帝である。


〇後廃帝

 後廃帝は前廃帝以上の悪行で知られ、それがあまりにひどすぎたためについに南朝宋そのものが崩壊してしまう。本当は彼の後にもう1人皇帝がいるであるが、宋の実質的な最期の皇帝は彼であると言っていいだろう。


 彼は若い頃から乱暴で、同じような非行少年を集めては夜宮廷を抜け出し、出会うものは人だろうが動物だろうが手当たり次第に切り殺していったという。これが本当なら完全にただの快楽殺人者である。

 将軍の蕭道成はこの後廃帝に理由もなく殺されそうになったので逆に反乱を起こして後廃帝を殺害した。蕭道成はとりあえず後廃帝の弟を皇帝にする。これが順帝であるが、蕭道成に南朝宋を存続させていく気などさらさらなかった。間もなく禅譲が行われ、蕭道成が皇帝位につき、斉が建国される。

 順帝は当時8歳で、宮中から別邸へ移送されることになったが使者に対して「命だけはお助けください」と懇願したそうだが、「私にはどうすることもできません」と答えられ、「後世生まれ変わっても二度と帝王の家には生まれまい」と言って泣いたそうである。

 こうして創設された斉王朝だったがこれがまた宋以上に残虐な皇帝を多数輩出した王朝であった。何しろ廃帝が3人もいるのである。ここではその廃帝の内、悪行が理由で廃された2人だけに的を絞ってみていくことにしよう。



〇蕭昭業


 一人目は蕭昭業である。彼は武帝の孫で、父にも祖父にも愛されていたが実は裏表のある性格だった。病気になった父や祖父を見舞い涙をした後で一歩外に出ると酒宴を開き、あげくのはてにはやく彼らが死ぬよう呪詛までするというありさまだった。即位してからも奢侈にふけり、1年ほどで国庫のたくわえを空にしてしまった。政治のことは親戚の蕭鸞にまかせきりだったが、最終的にはこの蕭鸞に殺され、皇帝を廃されてしまう。

 蕭鸞は蕭昭業の弟の蕭昭文を帝位につける。が、実権は蕭鸞が握っていて、彼の許可なしでは食事の献立すら自由にすることができなかった。結局間もなく廃されて蕭鸞自らが即位して明帝となった。その翌月に蕭昭文は殺されてしまった。この蕭昭文が二人目の廃帝であるが、彼は悪行によって廃されたわけではない。


 明帝は有能だったが猜疑心の強い性格で、即位後に武帝の子孫を全員誅殺するなどの所業を重ねた。晩年は重病にかかり、道教に没頭し、まもなく死去した。次男である蕭宝巻が跡を継ぐが、彼こそが斉王朝3人目の廃帝である。


〇蕭宝巻

 彼は即位後早々6人の重臣を殺害し、独裁体制を作ると奸臣を近づけ、民衆から収奪して享楽的な生活を送った。彼はまた多くの宮殿を造営して国家財政を破綻させた。また通行人を馬蹄で踏みつける奇行があり、妊婦もその対象となり母子共に命を落とす事件を頻発させた。後宮では幼馴染であった潘氏(潘玉奴)を寵愛し、足の小さかった彼女のために庭園の歩道を黄金で作った蓮の花で敷き詰めたと言う逸話が残されている


 こういった悪行に怒り、蕭宝巻の弟である蕭宝融を奉じて挙兵するのが蕭衍である。宝巻は殺され、首は蕭衍のもとに届けられた。


 潘玉奴(あるいは潘玉児)もなかなかいわくつきの女性である。彼女の父親も相当な権力を持つにいたり、彼の告発で相当な数の金持ちが失脚してしまい、その財産は彼の下に集められたとのことである。失脚した金持ちの男系の親族は皆殺されてしまったそうだ。


 蕭衍が宮殿の中に入った時、蕭宝巻は潘玉奴とたわむれていたそうである。蕭衍もこの潘玉奴を妾にしようと思ったが、重臣の強い諌めの言葉で考え直したそうである。潘玉奴は潘金蓮のモデルという説もある。

 蕭衍は後に皇帝に即位し、梁を建国して様々な施策をうち名君と崇められる。彼は50年近くも皇帝位にあったが、最後の最後で候景の乱にあい、結局牢獄に幽閉され餓死するという最後を迎えることになる。ハッピーエンドというものが存在しないのがこの南朝の特徴である。


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この時代のことに興味を持った人は宮崎市定「大唐帝国」「隋の煬帝」を参照すべし。それが大体元ネタである。

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