キリスト教についての雑文


 僕たちはキリスト教についてどう考えるべきなのであろうか?


 日本人がキリスト教を知ったのはいつの時代か?という問いに答えを出すのは意外と難しい。奈良時代にすでに日本人は景教の存在を知っていたとする説もあるぐらいだ。公式な記録に記載がなくても、民間レベルで受容していた、ということもあったかもしれない。しかしあまり細かくこの問題に首をつっこむのはやめにしておこう。


 基本的には戦国時代、日本を訪れた宣教師たちを通じてキリスト教を知った、と言っていいだろう。それが一番無難な答えである。

 しかしキリスト教は間もなく弾圧されてしまったので、本格的にキリスト教を知ったのは開国して以降である。しかし基本的には「戦国時代に初めて知った可能性が高い」と言っておけば問題はないであろう。


 キリスト教を考えることはアメリカを考えることであろうか?しかし今のアメリカでキリスト教を大事にしている人間が果たしてどれだけいるであろうか?日本にとってアメリカとの関係は非常に重要である。アメリカでキリスト教は時代遅れになっている。だからキリスト教については深い理由をする必要はない…などということを言っていいものであろうか?



 ヨーロッパを考えるということはキリスト教とギリシャ・ローマ文化について考えることである…みたいなことを言ったのは三島由紀夫であったろうか?この言説は正しいのであろうか?ケルト文化もヨーロッパというものを考えるのには必要な要素なのではないだろうか?…しかし中世にはキリスト教が非常に強い存在感を持って君臨し、それを克服するためにヨーロッパの知識人たちが争って身につけようとしたものがギリシャ・ローマ文化だったということを考えると、やはりこの2つが突出して強い存在感を放っているといわざるをえないのである。

 時代、場所によってキリスト教の意味あいは違う。中期帝政ローマ時代においてキリスト教徒だった人の心性は近代における革命家のそれと非常に似通っていたのえはないか。しかしもうちょっと時代がくだるとキリスト教は「常識」となり、「それを信じているのが最も無難で、厄介事も起こらない」ものになってしまった。中世になるとまた意味合いは変わり、近代になってもまた大きく変わってしまったことであろう。


 では現代の日本におけるキリスト教の意味とは一体何なのであろうか?それはヨーロッパの宗教か?アメリカの宗教か?近代を育み、そして近代に裏切られた何かか?僕たちはキリスト教についてどう考えるべきなのであろうか?

 聖書は初めヘブライ語で書かれ、後にそれがラテン語に翻訳された。長い時間聖書はラテン語で書かれているものと決まっていた。司祭たちはラテン語の聖書を読み、自分なりにその意味を解釈した上で信徒たちに教えを垂れた。一般の信徒たちは司祭の口を通じてでしか聖書の物語に親しむことができなかった。しかしルターが聖書をドイツ語に翻訳してから、状況は激変した。人々は自ら聖書を読み、解釈するようになった。印刷革命によって本の価格が劇的に低下したことも本としての聖書の普及に一役買った。人々は皆自国語に翻訳された聖書を読むようになった。僕たち日本人が読む聖書も、大抵の場合は日本語で書かれている…。そのことの意味について僕たちはどう考えるべきなのだろう?翻訳された聖典を読むということは、正しい行為と言えるのだろうか?


 多くの人間が聖書の物語を読んだ。そしてその物語の光景を想像し、絵に描いた。宗教の情景というものは描かなければこの世界には現れてこない。これだけは写真で撮るわけにはいかないものなのだ。

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