小説「イカ」

「あいつはすげえよ」誠はそう言ってビールをあおった。「本当にすげえ」さらに小皿に盛られた枝豆を何個か取って、さやごとむしゃむしゃやった。

「俺らじゃ到底かなわねえや。真面目にね。」


僕はどう反応すればいいのかわからなかったから、ずっとテレビを見ていた。


「本当にかなわねえ。すごいよ本当。俺らと同い年でさ。なあ、一度お前にも会わせたいわ。まじで」

 僕はやはりテレビを観続けている。けれど誠が絶えず話しかけてくるのでテレビの内容は全く頭に入ってこなかった。

「一度会ったらわかると思うんだよね。一目会ったらもう。一目会ったらもうね。すごいよ。俺も最初はうさんくさいと思ってたんだけどさ。一目会ったらもうね。最早イッてたね。今考えたらあの時の俺は。凄すぎて最早イッてたわ。最初にあいつを一目見た時の俺はね。今考えたらね」

 何も言わずに誠はチャンネルをNHKに変えた。丁度ダイオウイカとマッコウクジラの死闘を追ったドキュメンタリーが放送されているところだった。クジラがダイオウイカの足の一本を食いちぎり、負けじとイカも残った足でクジラのことを締め上げているところだった。それはなかなか迫力のある映像で、誠もしばらく話すのをやめて見入ってしまうほどであった。

「イカやばっ。イカやばいね。イカでもここまでできるんだね。つうかクジラ死んだね。クジラ負けたね。あのイカが勝ったね。あのイカがね。俺らにいつも食われてるイカがね。あのあいつ。俺らにいっつも釣られて、『んだよまたイカかよ』なんつって言われてたイカがね。『今日は勘弁してくださいよ。まじ勘弁してくださいよ』とか言ってたイカがね。クジラに勝つんだね。まじやばいね」

 ドキュメンタリーに一区切りがつくと誠はテレビの電源を消してしまった。誠はひっきりなしにビールをあおりながら枝豆をくちゃくちゃとやっていたけれど、もうずいぶん前からビールは空き缶になっているし、枝豆は全部さやだけになってしまっているようだった。

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