1920年代、パリ


 1920年代のパリの街をうろつく1人の若い中国人。彼は郊外のルノー工場で働いて生活費を稼いでいた。今日は休日だった。彼は朝から陽光のふりそそぐ街をぶらぶらと歩いていた。中国人の名前は鄧小平といった。

 鄧小平はこの頃少年と青年の中間のような年齢であった。育ち盛りの大事な時期に食うや食わずの生活をしたためか、平均よりも大分低い水準までしか身長が伸びなかった。が、権力者を目指す者にとって低身長というのは決して悪いことではない。曹操を見よプーチンを見よ。規格外れの独裁者というのは大抵が低身長である。この頃の鄧小平が独裁者を目指していたかどうかということは知らない。彼が本当のところ何を求めてパリまで行ったのかということも知らない。パリから何を持ち帰ってきたのかということも僕は知らない。

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 エッフェル塔は1889年に完成した。だから1920年代にはすでにあったということになる。1920年代のパリにはヘミングウェイもフィッツジェラルドもいた。多分ゼルダもいた。スコットとゼルダは出版社から金を借りては豪華なパーティを開いた。そして借金を返すために一生懸命小説を書いた。まず山盛りのフルーツありき。ボルドー産のワインありき。その後に小説があった、というわけだ。ようするに彼らは現代のアメリカ人を先取りしていたというわけだ。


 彼らが去った後にヘンリーミラーがやってきた。最後のロストジェネレーション。先輩たちが汚さずになんとか残していったものに片っ端から彼は唾を吐き、精液をかけ、糞をたれていった。それでもやはりそこには美学があった。唾の吐き方にも、センズリのこき方にも、糞の配置にもやはり一定の美学を感じとることができた。それを感じ取ることができるからこそ北回帰線は立派な小説なのである。決してむやみやたらに唾を吐いてセンズリをこけば文学が出来るというわけではないのである。

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 あるいは鄧小平は廃兵院を見たかもしれない。パリをぶらぶら歩いていたらその内廃兵院にも行き当たるだろう。きっと見たはずだ。

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 1921年。フローベール生誕100周年。フローベールはパリには全然期待をしなかった。自分の死後パリが自分の望む形に戻ってくれるなどということは一切信じなかった。パリは僕の心底憎んでいる部分ばかりを増長させ、そして自滅していくことだろうと彼は考えていた。実際のところパリはそうなった。フローベールの考えていたパリの良いところは木っ端微塵となり、さらに100年がたった現在では、パリはイスラーム国化しようとしている有り様である。


 しかしそうはいっても僕はパリのことについてはほとんど何も知らない。そんな僕がパリについて何か書いていいものだろうか?…こんな問いははっきりいって無意味だ。「書いてはいけない」と言われてもどうせ僕は書くのだろうから。無意味な問いでも、せずにはいられないのが人間というものだ、と呟いておけば許されるだろうか?


 廃兵というとどうしてもセルバンテスを思い出す。レパントの海戦で腕を失ってしまった兵士。若い時の彼を形容する言葉としてはそんなものがふさわしいのだ。

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