「ある朝、飴玉」

「世界は言葉で構築されているの。わかる?」

「わからないよ」

「あなたが見ているのは全て偽物の世界。真っ黒なインクで、真っ白な紙に綴られた文字だけが本物なの。わかる?」

「わからないって言っているじゃないか」

「昨日京都へ行ったんだってね?」

「ああ」

「確かに行ったのね?そういう記憶があるのね?」

「もちろんあるよ。四条駅で降りてさ。通りをずっと歩いていって、四条大橋を渡ってさ。適当なところで曲がって路地に入ってうどんを食べてさ。それから清水寺に参拝したんだ。何もかも覚えてるよ」

「でもあなたはその記憶を、記憶のままで他人に伝えることはできないの。私の言っている意味わかる?」

「だからわからないんだ。何度言ってもダメだよ」

「わからなくてもいい。話を聞いてくれるだけでいいから。…いや、聞いてくれるだけじゃダメだ。聞いて、そしてわかった振りをして。うんうんと頷いて。お願い。飴をあげるから…」

 そう言うと彼女はかばんから飴玉がたくさんつまった袋を取り出した。そしてそこから一粒飴玉を取り出して僕の手のひらの上にのせた。僕は彼女を喜ばせるためだけに飴玉を口に入れた。風味も何もない、ただ甘いだけの飴だった。彼女に悲しい表情をさせたくないという、ただそれだけの理由で僕は「おいしい」と言った。


「あなたは記憶を1度言葉になおさないといけない。そうじゃないと人には伝わらない。写真を撮っても、動画を撮ってもダメなんだ。結局それらは言葉の手助けがないと何もできない赤ちゃんのようなものなんだ。とても可愛いけど、とても愛おしいけど、ただそれだけでは何の役に立たない。言葉がなければ、言葉の世界を1度くぐりぬけさせないと、何も意味のあるものにはなってくれないんだよ」

僕は頷いた。口の中にはまだ飴玉が残っている。

「でも言葉は記憶そのものじゃないから。あなたはいずれ失望する。あなたがどれだけ吟味しても、高級な布に包んだとしても、相手は心の底からは喜ばない。”なんだまたこれか。これにはもうあきあきしてるんだよな。でもまあ礼儀だしお礼だけ一応言っておくか。いやいや素晴らしいものをどうも…”本当は違うのに。本当はもっと素晴らしいものなのに。それは内臓を取り除いて、風と陽にあてて十分にかわかした干物にすぎないからつまらないのであって、生のままの、新鮮なものだったらきっともっと喜んでくれるのに…。あなたはそれをわかっていながら、記憶をそのままの姿で伝えることができない。贈り届けることができない。その歯がゆさがあなたを少しずつ少しずつむしばんでいく…」

口の中の飴がとけていく。それと同時に彼女の姿も薄れていく。いつのまにか夜が明けようとしているのだ。カーテンの隙間から漏れる朝日が、彼女を透かして僕まで到達する。

「どうすればいいのかということが私にはわからない。この悔しさも、歯がゆさも、何もかも言葉で伝えなければならないということがまた私は悔しい。こんなことを繰り返して、どこかに辿りつくことができるかもしれないなんて、本当は私は信じていない。でも…願っているのは本当なんだ。どこかに、何かが…。あれが…」

彼女の姿はかすれていく。声もどんどん聞き取りがたくなっていく。もうほとんど彼女の姿は見えない。僕は立ち上がり、カーテンをあける。朝日が部屋の中を照らした。影はたった1つ。僕の分しか現れていなかった。彼女の姿は完全に消え去ってしまっていた。もう、朝だった。

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