小説「2人の乳母」

・発端


 乳母が子どもと外で遊んでいた。その家の主人は別の部屋で仕事をしていたが、乳母と子どもの叫ぶ声をききつけて外に駆け出した。そこで主人は驚くべき光景を見た。顔形が全く同じ乳母が2人、子どもの手をつかんで自分の方に引き寄せようと引っ張っているのだった。両側から引っ張られ、子どもは痛みで泣き叫んでいた。

 2人いる乳母の内1人は妖怪が化けている姿に違いないと主人は思い、なんとか本物を見極めようとしたが、全く見分けがつかなかった。そこで主人はふと、何日か前にみすぼらしい男に無理やり売りつけられたお札のことを思い出した。すぐに部屋に駆けていき、そのお札を手にして戻ってくると、それを2人の乳母につきつけた。するとたちまち2人の内の1人が悲鳴をあげて跡形もなく消えうせてしまったのである。乳母と子と主人は一安心し、家の中に戻った。

・異変

 しかし異変はその後起こった。それまで乳母が家のことを色々とよくやってくれていたのだが、彼女がうまく仕事を果たさなくなってしまったのである。家の中は荒れ放題になり、食事も到底食べられないぐらいにまずいものが出されるようになってしまった。しかし、先日の奇妙な事件の影響のせいで調子を取り戻すことが出来ていないだけかもしれない、と主人はこの時点ではまだ何も注意はしなかった。

 ある日また乳母と子が騒ぐ声が外から聴こえた。さてはまた妖怪が現れたかと思い、主人は例のお札を取り出して外に出た。しかしそこにいるのは乳母と子の2人だけであった。1人しかいない乳母が罵声を浴びせかけながら子を棒で打ち据えているのであった。痛みで泣き叫んでいた子は主人の姿を見つけると彼の元へと駆けていった。自分がたった今目にした光景の意味を理解できない主人はその場に呆然と立ち尽くしていた。やがて蒼白の表情をしていた乳母は棒をその場に捨てて、門の外に向かって駆け出していった。主人は子を隣の家の者に預け、乳母を追いかけていった。

 主人は方々駆け回ってようやく町外れの公園で乳母を見つけた。主人は乳母に優しく声をかけ、なぜ子にあんなことをしたのか、と問いかけた。乳母は涙ぐんだ声で子どもが全く自分の言うことを聞いてくれないこと、乳母にいたずらばっかりしてくることを訴えた。わがままがあまりにも激しくなってきたのでついに耐えかねて自分はあんな仕打ちをしてしまったのだ、ということを乳母は語った。しかし主人はその説明では納得しかねた。確かに子どもはわがままで乱暴であったが、それはずっと前からそうだったのである。しかし以前の乳母はそんな子どもをうまくあやしていて、全く何の問題も起きなかったのである。それが最近になってなぜ急に子どもをうまく扱うことが出来なくなってしまったのか、それが主人には疑問だった。主人は良い機会だと思い、その疑問を口にしてみた。すると乳母はしばらく黙り込んだ後で、驚愕の事実をぽつりぽつりと話し始めたのである。

・乳母の話

 なんと、以前仕事を上手くこなしていた乳母と自分は別人なのだという。つまり、以前にずっと主人の家で働いていた有能な乳母はあの時お札によって消されてしまった妖怪の方だったのだという。かくのごとき奇怪な事件が起きたのには以下のような訳があると乳母は語った。乳母の両親は早くして死に、親戚に預けられた。そしてそこで雑用などをして暮らしていたのであるが、生まれつき不器用で何の仕事をすることもできなかった。


 ある日、家の人々の目を盗んで庭の片隅で休憩をしていると、声が聞こえてきた。乳母は家の人々に見つかったと思い、とにかく頭を下げてあやまった。しかしどこにも人の姿が見えないので乳母は変だと思った。するとまた声が聞こえてきて、自分は妖怪であるが、姿を持たない、だからお前は私の姿を見ることができないのだ。などということを整然とした口調で語った。乳母は人を信じやすい性質の持ち主だったので、それが妖怪だということはすぐに信じてしまった。妖怪はその後取引を持ちかけてきた。すなわちそれはなんでも願いをかなえる代わりに乳母の姿形をそっくり真似させてくれというものであった。妖怪はただ乳母の姿形を真似るだけで、乳母の顔が変わったりなくなったりすることは絶対にないと説明した。乳母はその言葉も簡単に信じた。乳母は自分の姿形に価値などあると全く信じていなかったので、いとも簡単に妖怪の申し出を了承してしまった。

 すると声はしばらく目を瞑っていてくれと要求した。その通りにすると、乳母は自らの顔を風がしばらく撫でるのを感じた。やがて声が目を開けていいと言ったのでそうすると、自分と全く姿形が同じ人間が目の前に立っている光景が目に入ってきた。その人間はあまりに乳母とそっくりなので、彼女は目の前にいつのまにか鏡がたてかけられたのかと疑ったほどであった。しかしそれは鏡などではなく、れっきとした人間であった。目の前の自分とそっくりな人間、すなわちその妖怪は礼を言った後で、どんな願いを叶えてほしいか、ということを尋ねた。しかし願いといっても良いものを考え出すことができなかったので彼女は「別にいい、何もいらない」と答えた。すると妖怪は少し困ったような表情でお札を取り出し、それを乳母に渡してこう言った。

「そのお札をつきつけると、私は姿形のない妖怪に戻ってしまう。叶えてもらいたい願いがないのなら、それを持っていてくれ」

 乳母は得体の知れないお札を貰うことは拒否したが、しかし妖怪は有無を言わさずにそれを乳母の服のポケットに押し込んだ。そして自分と全く同じ姿をした妖怪はどこかへと去っていってしまったのだった。

 全て終わってみると夢だとしか思えなかったが、しかしポケットの中には確かにお札が残っていたので現実だったといわざるを得なかった。その後しばらく乳母は暮らしていた家の人々に、金を盗んだという濡れ衣を着せられて追い出されてしまった。放浪していると怪しげな男が近づいてきて、お札を持っているだろう、それを売ってくれ、と言ってきた。何日も物を食べていなかったので乳母はそのお札をその男に売ってしまった。そうやって手にいれた金で何とか旅を続けていくうちにある町にたどりついた。それがつまりこの町であった。

 ふと目についた家の中をのぞいてみると、そこには自分と全く姿形が同じ人間が幸せそうに暮らしていた。何日間が物陰に隠れてその様子を眺めていたが、彼女は実にうまく仕事をこなしていた。自分がしたいと思っていた生活を、彼女は送っていた。やがてその生活が羨ましくなった。乳母はたまらず駆け出し、乳母の目の前に現れ、彼女にとって代わろうとしたのであった。その後の顛末は主人の知っているとおりだ、と乳母は答えた。


 それだけ話した乳母は立ち上がり、とぼとぼと主人の下を離れていった。どうしたものかと主人は迷ったが、結局彼女のことは追いかけず、いなくなるのにまかせることにした。その後の彼女の消息を知る者はいないとのことである。

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