随想

〇モンテーニュあるいは隠遁について

 今まで本は確かにそれなりに読んできたが、ただ読んだだけのことである。たとえば今日はモンテーニュを読んだ。モンテーニュを読むのは面白かったが、モンテーニュが具体的に何を言っていたのかということは、即座に思い出すことができない。それでもモンテーニュについて何かを読んだと言うことができるのだろうか。

 モンテーニュは16世紀という時代を生きた。フランスの16世紀は対イタリア戦争に区切りがついたのも束の間、間もなくユグノー戦争が始まり、あちこちで人が死んでいった激戦の時代であった。その中でモンテーニュは(少なくとも本の中では)非政治的態度をつらぬいた。自分は実務的なことは何もできないと宣言し、自分は何も判断したくないと言い切ったのである。


 モンテーニュは確かに30代後半で公務をやめて引きこもったが、その後市長になったり、アンリ4世と交流をしたりもしている。そういうこともあわせて考えると、必ずしも「隠遁派」の人間ではないと評することができる。


 大体社会に関わっていくべきなのか、いくべきではないのかというのは難しい問題だ。古今東西ありとあらゆる思想家がこの問題について討論している。嵆康は晋に仕官することを決めた山巨源に絶交を申し付けている。たとえ身が汚れるとしても社会に関わっていくべきなのか、そんなことになるぐらいなら隠遁して社会からは永遠に距離をおいて生きるべきなのか。答えは誰も教えてくれない。誰も答えを出すことができていないのだ。結局嵆康は政争に巻き込まれて殺され、その息子は父の敵である晋に仕官してしまっている。いくら社会と距離をとりたくても、向こうの方から距離を縮めてくる、ということもありえるのだ。


 彼らが追ってくるのならどこまでもどこまでも逃げればよいのだ、と言う人がいるかもしれない。しかし地球のスペースというものも限られている。安全に生き続けることができる場所などというものはそれほど多いわけではない。たとえ命を危険にさらしてでも隠遁して生きるべきだ、という意見は理解できなくもないが、そういう生き様を長く続けることができるのは本当に強い人だけであろう。

〇言説について

 普遍的に通用する「言説」。そんなものが果たしてあるだろうか?貧乏人だろうが貴族だろうが本質的に見ている世界は同じである、という前提にたてばそういう言説を見つけることも可能だろう。しかしこの「本質的に」というのが曲者である。「本質的に同じである」、などということをわざわざ人が言う場合、その人は「形式的には違う」という思想をかくしている可能性が高い。貧乏人は欠けた茶碗で麦を食う。貴族は銀の器で肉を食べる。貧乏人は明日の食べ物のことについて心配し、貴族は社交界での自分の地位について頭を悩ませる。なるほど貧乏人も貴族も同じように物を食べ、何かについて頭を悩ませながら生きている。それは確かにそうだろう。どちらも本質的には同じと言うことができるのかもしれない。どちらも等しく人生なのかもしれない。しかしその人生を形成している要素は全く違うのである。そして、「言説」というものの99パーセントが言い当てることができるのは、指し示すことができるのはこの「要素」の方なのである。貧乏人を慰めるための言説ではなかなか金持ちは慰められない。逆もまたしかりであろう。誰もが皆身の回りの具体的な事物を指し示してもらいたいのである。欠けた茶碗でもそれは大切な思い出の詰まった宝物であり、食い飽きた麦も大地からの慈愛の詰まった贈り物なのであると思い込みたいのである。

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