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小説 ポンタ探偵事務所(全文)


都内に唯一残された幹線道路上の軌道を、車と並走しながら走る都電の窓から、ポンタは曇天の空を見上げた。都電は車と競り合う様に、飛鳥山公園に沿う坂道をぐるりと周りながら下って行く。

桜で賑わった公園には、そろそろ紫陽花が咲き出す頃だ。雨に映える紫陽花は、ポンタの嫌いな季節の到来を示す。

都電は道路を横切る様に、駅に滑り込んだ。空には黒褐色の低い雲が垂れ込め始めている。湿気を帯びた不快な空気が、駅に降り立ったポンタの大きなオデコにヌルリと触れた。

「ああ、今日も天気予報外れたなあ」

彼の名は本田武史(ほんだたけし)、都電の走るこの街で小さな探偵事務所を営んでいる。小学生の頃から、あだ名はずっと「ポンタ」逆三角形の顔に大きなオデコが、彼のトレードマークだ。

「やばいよやばいよ、早く帰らなきゃ」

ありがちなギャグを口走りながら、ポンタは歩く速度を一段と早めた。ポンタの頭の中は、事務所の屋上に干して来た洗濯物の事でいっぱいだった。

例年この季節は天気予報がめっきり当たらない。昨日も朝のお天気お姉さんの言葉を信じて、洗濯物を外干しして出掛けたが、見事に降られた。

今日は久々の晴れ予報だったが、朝からどんよりと曇り空のまま、結局太陽が顔を出す事は一分も無かった。

事務所まであと少しの所で、ポツポツと雨粒が落ち始めた。ああ、あと少しなのに、頼む、持ってくれ、事務所がある五階建てのオンボロビルにはエレベーターが無い。ポンタは祈りながら、屋上へと階段を駆け上がった。

屋上のドアを開けると、物干し竿にポンタの洗濯物が無い。ポンタは一つ下の階の事務所に降りてドアを開けた。

「もう、ポンタさん!洗濯物しまっといたよ」

助手の百合絵が口を尖らせた。親譲りの美しい顔立ちはどんな変顔も映える。その顔は怒っている様にも、少し嬉しそうにも見えた。

ポンタの洗濯物はきちんと畳まれ、机の上に置いてあった。折り目が綺麗に揃った畳み方から百合絵の育ちの良さが窺える。助かった、ポンタはホッと胸を撫で下ろした。

百合絵は大学在学中から、お天気お姉さんとして全国ネットのテレビに出ていた。そのまま局のアナウンサーとして内々定を貰っていたのだが、それを蹴って安月給のポンタの事務所に助手として入って来た。

「新しいお姉さんになってから全然予報当たらない、私はもっと当たってたわ」

自信満々に言うが、それは違う。百合絵がお天気お姉さんだった頃の予報もしょっちゅう外れていた。ポンタはそのおかげで何度も洗濯物を濡らした事があった。

今の子は皆そうなのだろうか、百合絵は二回りも上のポンタに対して、全く物怖じせずズケズケと何でも口にする。そんな気の強さと度胸は、探偵向きな気がしてポンタは助手に採用した。

ただ一つ難点があるとするなら、その余りにも美しい美貌は、目立ってはいけない仕事の多い探偵にとって、邪魔になる時があるのかも知れない。

某有名企業の社長令嬢で、何不自由無い生活を送って来た百合絵にとって、薄給は関係無いのだろう。下町の雑居ビルの小さな探偵事務所が、助手を探している事を何処からか聞きつけ、好きな推理小説に登場する探偵に憧れていた百合絵は応募して来たのだった。

「百合絵ちゃんありがとう、御礼に晩御飯ご馳走するよ」

「えー、またあの店でしょ、どーしよっかな」

百合絵は切れ長の二重瞼を細め、嫌そうな表情をした。

「まあまあ、そう言わず、オレの行く店はあそこしか無いんだから」

「ま、いっか」

百合絵は渋々了承した。

駅の裏手の細い路地を入ると、昭和風情漂う古い飲み屋街がある。そこをしばらく進むと、紫の看板に黒で、スナック桂(かつら)と書かれた、ポンタ行きつけのスナックがあった。

プラスチック製の看板は中に蛍光灯が数本入っているが、寿命が近い様でチカチカ点滅している。その上、酔っ払いに以前看板を蹴られて、下の半分は割れてしまっていた。

「こんばんは、ママ、もうやってる?」

ポンタはスナック桂のドアを開けた。カランカラン、とドアに取り付けられた鈴が鳴った。飲み屋特有のアルコールの残り香が百合絵の鼻を付いた。

「あら、ポンタさんいらっしゃい、お久しぶりね」

カウンターの中で後ろを向き、グラスを拭いていた房美ママが振り向いた。

「たった一週間来ないだけで、お久しぶりはないでしょ」

「あら、一週間も来なきゃ、もう常連さんとは呼べなわよ、ね、百合絵ちゃん」

房美ママは悪戯っぽい笑みを浮かべて百合絵に目配せした。

「まあまあそう言わず、ママ特製の美味しい焼きそばを百合絵ちゃんに作ってあげて」

「あーあ、また焼きそばかあ、まあいいか、ママの美味しいから」

「あら百合絵ちゃん、あーあとはあんまりじゃない?ところで百合絵ちゃん、バイトの話考えてくれた?百合絵ちゃん可愛いから、お客さん大喜びするんだけどな」

ポンタが百合絵を連れてスナック桂に来る度に、房美ママはいつも百合絵にこの店でバイトしろと誘うのだった。

「ハイ、特製焼きそばどうぞ」

房美ママはカウンター奥の小さなコンロで、手際よく焼きそばを作ると、ポンタと並んで座っている百合絵の前に置いた。

レトロなシルバーの器に盛られた焼きそばから湯気が立っている。太麺に濃いめのソースがテラテラと輝き美味しそうだ。

「ママいただきます、うん、やっぱ何度食べても美味しい。このジャガイモが良いんだよね」

房美ママの作る焼きそばにはジャガイモが入っている、関西育ちのポンタが初めて見た時は驚いた。でも食べて見ると焼きそばのソース味にジャガイモはとても相性が良く美味だった。ママの地方では焼きそばにジャガイモは当たり前らしい。

「どう?美味しい?」

房美ママは頬杖付いて百合絵が食べる様子を愛おし気に見詰めていた。

「私にもし娘がいたら、ちょうど百合絵ちゃんぐらいかしら」

「ママが二十歳ぐらいで産んでたら、そうかもね」

「可愛いわね、ああ、子供作っておけば良かったわ」

「ママ若いからまだ大丈夫だよ、僕と結婚して子供作ろうか」

ポンタは房美ママを揶揄うつもりで言ったのだが、

「本気にしてもいいのね、ポンタさん」

房美ママは急に真顔になり、ポンタを見詰めた。

二人の会話を聞きながら、焼きそばを黙々と食べていた百合絵は、箸を持つ手をふと止めた。

房美ママはとても綺麗な人だ、長年水商売をして来た女の人に見られる擦れた感じは一切しない。

百合絵はお天気お姉さんをしていた頃、芸能界の美人と呼ばれる人達を数多く見て来たが、房美ママほど綺麗な人に出会った事は無かった。顔だけで無く何処と無く漂う上質な気品とオーラ、これは生まれ持った物なのだろうか。

育ちの良さには百合恵も自信があった。外見が人並み以上な事も気付いている。だが自分は房美ママには敵わないと、会う度に感じていた。

もう、ポンタさん、房美ママの気持ちがわからないの?男って何でみんな鈍感なんだろう。大人の恋はじれったいな。

百合絵は焼きそばを頬張りながら、上目遣いで房美ママとポンタのやり取りを交互に見ていた。


カランカラン、とドアが開き二人の客が入店して来た。

「いらっしゃいませ」

「お、今夜は先客ありだね」

この聞き覚えある声は上屋(あがりや)警部だ。上屋警部はこの地域を所轄する王子南警察署捜査一課のベテラン刑事。もう一人は、若手の新米(あらこめ)刑事だ。

「誰かと思ったら、インチキ探偵さんかい」

上屋警部はポンタを見て投げやりに言うと、少し席を空け新米刑事と並んでカウンターに着いた。

「お久しぶりですね、さがりや警部」

会う度に「インチキ探偵」と呼ぶ上屋(あがりや)警部に対し、ポンタは負けじと言い返した。

「さがりや、じゃないわい!あ・が・り・や」

いつものボケに上屋警部はしっかりとツッコミを入れる。この二人スナック桂の古参で、本当は仲良しなのだが、何故か会う度お互いライバル心を剥き出しにする。

「あ!百合絵さんじゃないですか」

警部の隣の新米(あらこめ)刑事が百合絵を見て、大きな声を上げた。

新米は刑事に憧れて警察官になった。刑事の昇進試験に合格出来たものの、刑事になる為に必要な署長推薦が中々貰え無かった。今年ようやく署長の推薦を得て念願の刑事になることが出来た。上屋警部の下で修行中の刑事だ。

「こんばんは、しんまいさん」

百合絵はポンタに負けじとボケをかまし、可愛い子振って首を傾げながら新米に会釈した。

「もう、百合絵さんったら、しんまいじゃなくて、あらこめ、ですよ、あ・ら・こ・め」

百合絵に弄られた新米は、少し嬉しそうに頭を掻いた。

「ねえねえ、飛鳥山の殺人事件の捜査進んでるの?教えてよしんまい君」

「百合絵さん、だからしんまいじゃなくって新米(あらこめ)です。あの事件は今、」

「おい!しんまい、ダメだ喋っちゃ、捜査の状況は機密事項だ」

「す、すみません、警部」

「矢吹さん、ホント良い人だったのにね、可哀想に」

房美ママは悲しそうな顔をした。殺されたのはスナック桂の常連の、矢吹と言う年配の男だった。

「上屋警部、私達は第一発見者ですよ、少しくらい教えてくれてもいいじゃん」

推理小説が大好物な百合絵は、身近で起きた殺人事件に興味津々だ。

「いや、それは無理、かわいい百合絵ちゃんのお願いでもだめだめ」

上屋(あがりや)警部は両手でバツを作った。


ポンタと百合絵は飛鳥山公園で起きた殺人事件の第一通報者だった。ポンタ探偵事務所が請け負った素行調査の最中に、アスカルゴのレール沿いに設置されている点検用通路の下に横たわっている遺体を、二人が最初に発見した。

飛鳥山公園は八代将軍徳川吉宗によって造られた。春は桜、梅雨時は紫陽花で知られている。山と呼ぶには余りにも低い小高い丘の上にある都内有数の大きな公園だ。

アスカルゴの正式名称は飛鳥パークレール。飛鳥山公園入口駅から飛鳥山山頂駅まで、高低差僅か十八メートルを約二分で結ぶ。一つの車輌が急勾配のレールを上り下りする斜行エレベーターの様な小さなモノレールだ。

高低差十八メートルと言えども、階段で登ると結構な段数がある。エレベーターの無い事務所の階段を毎日五階まで上り下りしているポンタは、飛鳥山公園に来ると階段は避けいつもアスカルゴを利用していた。

運賃は無料で、冷暖房も完備、車椅子やベビーカーにも対応していることからとても人気があり休日はいつも行列が出来る。かたつむりに似た愛嬌のある外観と飛鳥山に掛けて「アスカルゴ」という愛称が付けられ、飛鳥山公園のシンボルとなっている。

アスカルゴは公園入口駅から山頂駅迄、飛鳥山の土手沿いに敷かれた一本のレールに跨って登る。車両のほとんどはガラス張りで、山頂駅が近づくに連れ大きな窓から道路を走る都電と街並みを見下ろせる。鉄道好きならずとも、中々の絶景が楽しめる。

その夜ポンタと百合絵は仕事でアスカルゴの山頂駅付近から、都電の通りを挟んだ向かいのアパートの一室を張り込みしていた。

赤い行先板を光らせた、都電最終電車が坂を下って行った。今夜の張り込みは終わりにしようと帰り掛けた時、ポンタは足元の土手の草が不自然に倒れている事に気付いた。

アスカルゴのレールがある土手はかなりの急斜面で、人が踏み入る様な場所では無い。ポンタは不審に思い土手の下に向け懐中電灯を照らした。するとアスカルゴの点検用通路の下に人の手の平らしき物が白く浮かんで見えた。

「百合絵ちゃん、大変だ!」

土手を下る階段に向かい先を歩いていた百合絵は、ポンタの声に慌てて戻って来た。

百合絵はポンタが照らす懐中電灯の先を見て、ハッと一瞬表情を硬らせたが、取り乱すこと無く冷静に110番通報した。

近所の交番からすぐに警官が駆けつけて来ると、その後けたたましいサイレン音と共にパトカーに救急車、消防車迄もやって来た。静寂に包まれていた夜の公園は、無数の赤色灯にぐるりと囲まれ、物々しい雰囲気に変わった。

「警部、こちらが第一発見者の方です」

規制線の黄色いテープを潜って来た上屋(あがりや)警部と新米(あらこめ)刑事に、交番の警官が言った。

「何だよ、第一発見者って、アンタらか」

上屋警部はポンタと百合絵を訝しげに見た。

「アンタ達、こんな所で、こんな時間に一体何やってたんだ、まあ探偵なんてアコギな商売だからな。詳しくは署で聞こう、来てくれよ」

「さがりやさん、協力者に向かって、その言い方は無いでしょ、行きたくないなあ」

「あがりやだよ!まあまあ、言い方悪かった。お二人共、後で署までお願いします」

「ああ、お腹空いたなあ、警察署ってカツ丼出るんでしょ、だったら行ってもいいかな、ね、しんまい君」

百合絵は、自分に見惚れている新米(あらこめ)刑事に悪戯っぽくウインクをした。

数人掛かりで急斜面の土手の上迄運ばれて来た担架は、顔までシートで覆われていた。ポンタはその人が既に息絶えている事を悟った。

「探偵さん、仏さんはあんたも知ってる人だよ」

上屋警部はポンタにそう言うと、遺体の顔に掛けられたシートを剥がした。

「矢吹さん...」

ポンタはスナック桂で矢吹さんと知り合ってからかれこれ十年近い。矢吹さんはこの地域に何店舗も構えるクリーニング店の社長で、一店舗から一代で会社を大きくした。

地元では、やり手経営者の経営者で知られる矢吹さんだが、好好爺そのものの外見には叩き上げの社長の雰囲気は微塵も感じられない。優しそうなお金持ちのおじいちゃん、と言った印象の人だった。

「上屋警部、首を絞めた跡がありますね、絞殺ですか?」

「恐らくそうだな、首を絞めた後、土手の上から突き落とされたんだろう」

「なんて酷い事を、こんな良い人が何故こんな目に...」

ポンタと百合絵は言葉を失い、矢吹さんにそっと手を合わせた。


「房美ママ、矢吹さんについて何か知ってる事は無いかな、悩み事とか話して無かった?」

上屋警部が房美ママに聞くのを、ポンタと百合絵は耳をそば立てていた。

「そうねえ、矢吹さんは本当に良い人だったから、恨みを買う様な人では無いし、悩み事と言われてもねえ...」

房美ママは目を伏せしばし考え込んでいた。

「まあ、お金は持ってたわね、財布にはいつも数十万円は入ってたわよ、綺麗なピン札でね、おつりはいいからって置いて行くの、カッコ良かったなあ」

ポンタと上屋警部は、自分の財布を取り出すとママに見られない様にカウンターの下で薄い中身を覗き、ふうとため息をついた。

「遺体が発見された時、財布が無くなっていたので、物取りの犯行の線も今追っている所です!」

新米は目を輝かせて言った。

「おい!しんまい!余計な事喋るんじゃ無い」

「あ!すみません警部」

ふむふむ、そうなのね、一言も聞き逃さすまいと、耳を攲てて聞いていた百合絵は、ニヤリと微笑んだ。

「後はそうね、早くリタイヤして奥さんと別荘でゆっくり暮らしたい、と常々言ってたわね。矢吹さん伊豆に大きな別荘があるらしいの」

その話は、ポンタと百合絵も矢吹さんから酒の席で何度か聞いた事があった。

「一人で会社を起こして、身を粉にして働いて、やっと悠々自適な生活が送れると思っていた矢先、神様はなんて残酷なのかしら」

いつもキラキラ輝いて見える房美ママの瞳は、涙にカウンターのスポットライトが反射し一段と輝きを増した。

「ママ、貴重な情報をありがとう、事件が解決したらゆっくり飲みに来るから、インチキ探偵さん、百合絵ちゃん、またな。おい、しんまい、行くぞ」

「あ、ハイ!」

カランカラン!スナック桂のドアを勢い良く開けて出て行く上屋(あがりや)警部の後を、新米(あらこめ)刑事が慌てて追った。

「がんばってねえ、しんまいくん」

百合絵が声を掛けると、閉まりかけていたドアが再び開き新米がひょいと顔を出した。

「新しい情報わかったら、私にも教えてね」

「ハ、ハイ!ゆ、百合絵さん、僕がんばります!」

新米刑事はぴょこりとお辞儀をし、百合絵に向かって敬礼した。

「ウフフ、しんまい君可愛いわね、百合絵ちゃんどう思ってるの?お似合いだと思うんだけどなあ」

「物取り、財布、リタイヤ、別荘...」

百合絵は、カウンターに頬杖着き、宙を見て何やらぶつぶつ独り言を言っている。房美ママの言葉は全く耳に入っていない様子だった。

「ねえ、ママ、やっぱり物取りの犯行なのかなあ、でもリタイヤって事は後継ぎの問題もあるでしょ?と言う事は怨恨の線もあるかな」

「もう百合絵ちゃんの頭の中は、事件の事でいっぱいね」

房美ママは半ば呆れ顔でポンタに言った。

「推理モードに入った百合絵ちゃんはいつもこうなんだ、しばらく何を聞いても無駄だよ。推理小説に出て来る探偵に憧れて僕の事務所に来たのに、それらしい仕事なんて全く無いからね。まあ現実の探偵の仕事なんてそんなもんだから」

ポンタは房美ママに苦笑いした。

房美ママはフッと笑み浮かべ、ポンタと百合絵の前にある空のグラスを下げ、大きめのロックアイスが、グラスからはみ出んばかりにたっぷりと入った新しい水割りを、二人の前にそっと置いた。


「百合絵ちゃん、留守番頼むよ」

「はあい...」

百合絵は、事務所の自分の机に頬杖付き宙を眺めながら何やらぶつぶつ呟いている。

今朝からポンタが何を話し掛けても生返事しか帰って来ない。困ったもので百合絵は朝から推理モード全開だった。百合絵を仕事に連れて行くつもりだったが、今日は使い物にならないと判断したポンタは諦めて一人で行く事にした。

もし今日天気予報が外れても百合絵が屋上の洗濯物を取り込んでくれる事は無いだろう。ポンタは事務所の暗い階段を一階迄一気に駆け降り、眩しそうに空を見上げた。

「こんにちは、おや、百合絵ちゃん一人かい、どうしたん、暗い所で」

ノックもせずにドアを開けて事務所に入って来たのは大家の婆さんだ。部屋の蛍光灯のスイッチをカチカチと勝手に点けながら言った。

「ああ、大家さん、今月の家賃ならもう少し待ってください、って所長が言ってましたよ」

「全く、しょうがないね、ま家賃が遅れるのはいつもの事だから。でも今日はその事で来たんじゃ無いのよ」

「なんですか?」

百合絵が気の無い返事をすると、大家は待ってましたとばかりに耳元に近づき小声で言った。

「いや実はね、この前飛鳥山で矢吹さんが殺された事件について、ちょっと気になる話を聞いたんだよ」

「お、大家さん!どんな話ですか!き、聞かせてください!!」

大した材料も無いのに堂々巡りの推理をし続けていた百合絵は、大家さんの話に食い付いた。

大家の婆さんはこの町きっての情報通だ。朝から晩まで界隈を歩き周り至る所で井戸端会議をして、各家庭の個人情報に至るまでありとあらゆるネタを仕入れて来る。

探偵と言う仕事柄、ポンタは情報通の大家の情報に助けられた事が何度もあった。ただ事務所の家賃支払時期になると、滞納常習犯のポンタはいつも大家から逃げ回っていた。

この町の事を何でも知っている大家の情報とあらば、きっと大きな手掛かりに違い無い、百合絵は身を乗り出した。

「矢吹さん家、色々揉めたらしいの。ほら娘さん三人いるでしょ、で最近結婚して出て行った長女が出戻って来たらしいのよ。そしたらクリーニング店の事をあれこれ口出しする様になった様なのね」

「ふむふむ、それで」

百合絵は大きく頷きながら、身体を乗り出した。

「長女は突然帰って来て仕事の事など何も知らないのに、上から口調で社員達に命令したり、ヒステリックに怒鳴ったり、もう大変だったそうよ。矢吹さんほとほと困り果てていたらしいの」

「ふむふむ」

「矢吹さんは長女では無く、ずっとクリーニング店を手伝ってくれている三女に事業を継がるつもりだったみたいなの」

大家の婆さんは話にエンジンが掛かって来て、矢継早に話し続けた。

「長女は三女に継がせる事が気に入らなかった様で、何とか自分が跡取りになれる様に色々画策し始めたらしいの、ゔゔん」

喋り続け痰が絡んだ大家の婆さんは、手で飲む仕草をし、百合絵に飲み物を要求した。

「あ、すみません、いまお茶淹れますから」

百合絵は慌ててポットから急須にお湯を注ぎ、お茶を大家の前に置いた。大家はそれをグイと一口飲み、また話し始めた。

「長女はね、先ず次女を味方に付けようとしたの。次女は大企業のサラリーマンと結婚してタワマンに住んでて、それなりにセレブな生活をしているから、実家のクリーニング屋の跡目争いなど興味無かったんだけど、ほら、やっぱり相続でお金が絡むと人って変わるでしょ。しかも矢吹さんの本店は持ちビルじゃない、それが欲しくなっちゃったみたいなのね」

「なるほど、ですよね、お金は人を変えますから」

「長女と次女は家族会議で、遺言書を書け、って矢吹さんに迫ったらしいの」

「矢吹さんはそれは凄い剣幕で、何が遺言じゃワシはまだ死ぬつもりは無い!って怒り出しちゃって、奥さんは、もうやめて、って泣き出すし、もう家族会議は大変な修羅場だったそうよ」

そんな内輪の話、一体誰から聞いたのだろう、大家の婆さんの情報収集能力は半端無い。

「土地を分けるとなると大変よ、ちゃんと測量して、文筆して、登記して、お金が掛かるし、登記書に名前が載るだけで手元にお金は来ないの。会社の経営を引き継ぐのはもっとややこしい、いくら姉妹と言えどもそれぞれ考え方が違うし、共同経営なんて難しいわよ」

これが長く生きて来た経験値という物なのか、大家の婆さんが言う事には一々説得力があった。

「ここは東京の下町だけど、相続になるとどこの家も必ず揉めるわね。猫の額程の小さな土地を、兄弟で裁判起こして取り合いし兄弟の縁を切る人だらけよ。ま東京に土地を持っているって事は、大きな強味だから仕方無いけどね」

「大家さん、このビルの相続は大丈夫なんですか?」

「私は平気よ、こんなオンボロビルとっとと売っぱらって、ハワイに別荘でも買って、悠々自適全財産使い果たしてから死ぬわ。でもアンタらの事務所が出て行かないと売る事出来ないわね、ガハハ」

大家の婆さんは豪快に笑い飛ばした。


百合絵はスナック桂の焼きそばを食べながら、今日大家から聞いた話を事細くポンタに報告した。

「まさに大家さんならではのトクダネだ、警察の聞き込みより早いかも知れないな、ハハハ」

「三姉妹ならよく覚えてるわ、三女の子、名前何だったかしら、クリクリした大きな目の可愛いい子よね。長女の子は活発で、いつも子分の男の子を何人も引き連れてたの覚えてるわ。次女の子は色白で大人しくて上品そうな子ね。矢吹さん家の娘さん達は美人三姉妹で有名だったのよ、恐らく矢吹さんに似たんでしょう、矢吹さんにはイケメンの面影があったから」

房美ママが思い出話をしていると、カランカランとドアが開き、上屋(あがりや)警部と新米(あらこめ)刑事が入って来た。

「こんばんは、おっとまたアンタらか」

「さがりやさん、どうしたんです?事件が解決するまで来ないはずじゃ、もしや捜査に行き詰まってるとか」

「あがりやだよ!余計なお世話だ、捜査はすこぶる順調よ、息抜きで来ただけさ」

ポンタと上屋のいつものやり取りを苦笑いしながら聞いていた新米刑事は、カウンターの百合絵に気付いた。

「ゆ、百合絵さん、こんばんは」

「しんまい君、どう、捜査は進展してる?矢吹さん家の三姉妹のアリバイは?」

「何で捜査情報が漏れているんだ?まさかお前漏らして無いだろうな」

上屋(あがりや)警部は新米(あらこめ)刑事を睨み付けた。

「け、警部!そんな事する訳無いでしょ、だって僕はまだ百合絵さんとLINE交換すらしてないんですから」

「あらあら、百合絵ちゃん、LINEくらい教えてあげなさいよ」

房美ママが二人を揶揄う。

「え、イヤだあ、しんまい君と話す事なんて無いし」

「百合絵さん、そんなあ」

「わかったわ、LINE交換しよ、その代わり捜査状況を逐一教えてね」

百合絵は自分のスマホを差し出した。すると新米はニヤニヤしながらポケットからスマホを出した。

「おい!しんまい、それやったらどうなるかわかってるよな」

蛇に睨まれた蛙の新米刑事は、残念そうに自分のスマホをポケットにしまった。

「さては大家の婆さんから聞いたな、あの婆さん抜け目無いからな、いつも俺達警察より先に聞き込み紛いの事しやがる。そしてある事無い事言いふらすから厄介なんだよ」

上屋警部は頭をポリポリ掻きながらカウンターに着いた。

「って事は、やっぱり三姉妹が疑われてるのね」

百合絵は身を乗り出した。

「婆さんから聞いたなら仕方ないか」

上屋警部は長女と次女を任意同行し取り調べ中である事、そして二人には事件当夜のアリバイを証明する人物がおらず、長女には離婚直後なのにも関わらず、若いホストの愛人が居る事までポンタ達に明かした。

願望が混じるのか、面白おかしく話すうちにそうなるのか、大家の婆さんの情報は盛られている事が多いのだが概ね正しい様だった。

「上屋さん、大家さんは愛人の事は言って無かったわ、警部っていつもサービス良いわね、ありがと」

房美ママが上屋警部を揶揄う。

「おっと、いけね、またやっちまった!みんな頼むから黙っといてくれよな」

元来おしゃべりで正直な性分の上屋警部は、お酒も入りついつい余計な事まで話してしまう。

長女の金が目当てで付き合っている愛人のホストは、地元の半グレ連中と付き合いがあり共犯の可能性も十分にある。次女はセレブに見えるが、無理して買ったタワマンのローンに相当苦しんでいたらしい。二人に動機は十分にある様に思えた。

上屋あがりや警部は行き詰まっている現在の捜査状況を、ぼやく様にほぼ全て話すと、ふうと一息ついてすっきりした表情になった。

「もう警部!全部言っちゃったじゃ無いですか」

「新米(あらこめ)、大丈夫さ。探偵には守秘義務がある。ママは口が固いから客の個人情報を人にペラペラ話したりしない。だからここで話すのは良いんだよ、な、ママ、探偵さん」

「じゃ警部、僕も百合絵さんとLINE交換して良いですよね」

「お、おう、別に俺はダメとは言って無いぞ、好きにしろや」

「ゆ、百合絵さん、お願いしますLINE」

「ほら、貸して、スマホ」

百合絵は新米からスマホを取り上げると両手で操作し、ものの数秒で新米に返した。

「あ、ありがとうございます」

「ゆりえ」と言う新しい友達が追加されたLINEを見ながら、新米刑事はニヤニヤしている。

「いいわね、若いって」

ポンタを流し目で見ながら房美ママが呟いた。


「おはようございます!」

ポンタは自宅アパートを借りてはいるが、ほとんど事務所で寝泊まりしている。今朝も応接用の長ソファーで寝ていると、出勤して来た百合絵に起こされた。

「ううん、お、おはよ」

「もう、また事務所で寝てたんですか?」

百合絵が事務所の窓を全て開けると、部屋の籠った空気が一気に新鮮な外気と入れ替わった。

「今日は良い天気ですよ!洗濯日和です」

「おお、大変大変!貴重な梅雨の晴れ間だ」

ポンタは屋上に上り、大家に黙って勝手に置いている洗濯機に溜まった洗濯物をぶち込んだ。

洗濯機を回しホッとしたポンタが事務所に戻ると、待ってましたとばかりに百合絵が話し掛けて来た。

「ポンタさん、矢吹さんの事件で新しい情報が入ったんですよ」

「ふうん、どんな情報?」

「やはり長女と愛人のホストの線が有力みたいで、今重点的にホストの取り調べをしてる様なんです」

「しんまい君から聞いたの?」

「事件が解決したらデートしてあげる、と言ったらもう何でも教えてくれて」

百合絵はあっけらかんと言い放った。

百合絵が新米(あらこめ)刑事から聞き出した事件の経緯はこの様な内容だった。

長女は若いホストに入れ込み連日店に通い詰めた。店で一度に使う金額は次第に増して行き、全財産を使い果たした挙句、多額のツケまで作った。

ツケの総額は一千万を超える金額だった。ツケを回収するまで給料を差し押さえられたホストは、ツケを払え無いなら別れる、と長女に切り出した。別れ話に動揺した長女は、父の遺産でツケを払うと言い出したらしい。

任意で引っ張られたホストと長女だか、ホストの方は素直に取調べに応じているのに対し、長女は、全く知らぬ存ぜずで黙秘を続けている様だった。

ホストが完落ちするのに、それほど時間は要しないだろう。なにせ上屋(あがりや)警部は「語れば落ちる、王子南のスプリット」と言う名で本庁の捜査一課まで名を轟かせている程の人物だ。

容疑者の目をジッと見詰め、感情を一切表に出さず静かに語り掛ける。その独特な語り口で完落ちさせた容疑者は今まで数知れない。上屋警部に掛かれば、若いホストなどお手の物だとポンタは思っていた。

「さすが上屋警部だ、ホストは間も無く落ちるな」

「私、上屋さんの事、ただの面白いオジサンと思ってたけど、実は凄い刑事なんだってしんまい君が言ってた。でも女の人の取調べはからきしダメなんだって。長女の聴取は手こずりそうだなあ」

しんまい君も百合絵ちゃんには相当手こずるだろうなあ、ポンタは百合絵を見ながらフフフと笑った。


「ポンタさん、起きてください!とうとうホストが完落ちしました」

朝ソファーで寝ていたポンタは、百合絵に叩き起こされた。新米刑事がホストの自供内容を全て教えてくれたらしい。

ホストクラブのツケを払う為、父の殺害計画を立てたものの、自分の手を汚したく無い長女は、ホストに100万円を渡し、これで半グレの知り合いに父親殺しを頼んで欲しいと依頼した。ホストはその半分の50万円で半グレ仲間の中で一番の荒くれ者の男に矢吹さんの殺人を依頼した。

警察は半グレ男を矢吹さん殺害の重要参考人として呼び出した。上屋警部の取調べの前に男はもう嘘はつき通せないと判断し、事件の全容を自供した。

矢吹さんが毎晩の日課にしている飛鳥山公園の散歩を毎晩の日課にしていた。その途中いつもアスカルゴの山頂駅に立ち寄り見晴台から都電と街の夜景を眺めていた。道路上の軌道を走る都電の姿が矢吹さんは大好きだった。それを知った半グレ男はそこで待ち伏せすることにした。

なだらかなカーブの坂道を車輪を軋ませながら下って行く都電の姿を愛おしく見守る矢吹さんの背後から、木の陰に潜んでいた半グレの男が襲い掛かった。

「ガタン、ゴトン」

都電の車輪音に紛れ、半グレ男は矢吹さんの背後にそろりと忍び寄った。図体の大きな男の右手には大きな石が軽々と握られている。

完全に油断している矢吹さんは、背後の男に全く気付かない。そして男は無言で矢吹さんの後頭部に石を思い切り振り下ろした。

「ズン...」

鈍い音と共に矢吹さんは、ウッと小さく声を上げ、頭を抱え蹲った。

多少の喧嘩には自信のある半グレ男だが、殺人は今回が初めてだった。目の前で頭から血を流す矢吹さんにビビッたのか、震えながら立ちすくんでいた。

我に返った男は血の付いた石を見て、うわあ、と声を上げ、草むらに石を投げ捨てた。そして辺りをキョロキョロ見回し誰にも見られていない事を確認し、あたふたとその場を立ち去って行った。

百合恵が新米刑事から聞き出した半グレ男の供述はこんな内容だった。


「なるほど、でそれから?」

話し終えて満足気な百合絵にポンタが問い掛けた。

「ん?これで終わり」

「ちょっと待って百合絵ちゃん、なんか変じゃ無い?だって矢吹さんの死因は絞殺なんでしょ」

「うん、そう」

「しかも、矢吹さんの遺体を発見したのはアスカルゴのレールがある崖の途中だよ。今の話だと、矢吹さんは崖の上で撲殺された事になるよね」

「さすが名探偵ポンタ!鋭い!」

「オイオイ、誰でもわかるわ、なめとんのか」

半グレ男が殴った石は既に現場で発見されていた。男は矢吹さんを殴ってすぐ現場を去ったと言い張っているらしい。死因が絞殺である事も知らない様子だった。

「ウフフ、この事件、まだまだ面白くなりそうよ、楽しみ」

やれやれ、百合絵ちゃんの推理モードはまだしばらく続く事になりそうだ、ポンタはため息を付いた。


「ふうん、それじゃ事件は暗礁に乗り上げたって事ね、一体誰が真犯人なのかしら」

房美ママが呟いた時、カランカランとドアが開いた。

「あら、あがりやさん、しんまい君、いらっしゃいませ、どうぞ」

ママはポンタと百合絵の座るカウンター席に上屋(あがりや)警部と新米(あらこめ)刑事を手招きした。ふう、と二人は同時にため息を吐くと、肩を落として席に着いた。新米刑事はしんまい君と呼ばれた事に言い返す事すら忘れている。

「あら、お二人共、元気無いわね、事件の方、進展無いみたいね」

「ママ、どうせ知ってるんだろうけど、また振り出しに戻っちまった。それにしても、あのふてえ長女この期に及んでもまだ白ばっくれてやがる、どうにも女はしたたかで苦手だ」

「さすがのさがりや警部も、あの長女の前では伝家の宝刀スプリットも落ちませんね」

ポンタが突っ込んだ。

「ママ、落ちてる二人に焼きそば焼いてあげて、私の奢りで」

百合絵が言うと、項垂れていた新米刑事が顔を上げた。

「焼きそば食べて元気出してね」

百合絵が微笑み掛けると、新米はハイと大きな返事で微笑み返した。

「あらあら、何だかお二人、いつの間にやらいい感じじゃないの」

「ち、違うのよママ、これからも情報よろしくねってこと」

百合絵は頬を赤らめて訂正した。


アスカルゴは公園口駅から山頂駅に向けて、ラックオピニオンと呼ばれる一本のレールにギアを噛ませる方式で急勾配を静かに登って行く。ポンタは翌朝一番のアスカルゴに乗車した。

「ちょうどこの辺りか」

ポンタは矢吹さんの遺体を発見した辺りに差し掛かると手を合わせた。そこから見上げると崖の上まで数メートルの高さがある。

点検と緊急避難の為にアスカルゴのレール沿いには金網製の簡易な通路がある。この通路を使っても急斜面のこの崖で矢吹さんを絞殺することは困難だ。

おそらく真犯人は、半グレ男が矢吹さんを石で殴った後に、崖の上で矢吹さんを絞殺し崖から突き落としたと考えられる。そして矢吹さんの遺体はレール沿いの通路に引っ掛かり止まったのだろう。

全長48メートル、高低差18メートルを僅か二分で登り切るとアスカルゴは山頂駅に到着した。見晴台から眼下に都電の軌道が見える。矢吹さんはここで殺され崖から突き落とされたに違いない。ポンタは目を閉じ静かに黙祷した。


振り向くと、数本の大きな木がある。半グレ男はこのどれかに隠れて、矢吹さんが来るのを待ち伏せしていたのか。

真犯人は、半グレ男が矢吹さんを殴る姿をこの近くで見ていたに違い無い。殴られた矢吹さんに近づき、息があるのを確認し首を絞めてとどめを刺し崖から突き落とした。ポンタは殺害時の状況を想像した。

矢吹さんの散歩コースを知る人は数少ない、家族とごく親しい人だけだ。散歩コースを知っていて動機もある長女がやはり一番疑わしい。

半グレ男の線は消えた、と長女に伝えた時「あの馬鹿ミスりやがって」と舌打ちした以降完全黙秘を決め込んでいる、と昨夜上屋警部がぼやいていた事から、長女が現場で半グレ男が殺害失敗する様子を見ていたとも思えない。

ポンタが考え事をしている間に、何本もの都電が坂道のカーブを車と同じスピードで登り、下って行った。

長女が真犯人の可能性が低いとすると次女はどうだろうか、とポンタは考えた。大家の婆さんの話では、生来プライドの高い次女は結婚する男はとにかく高収入な事が絶対条件だったらしい。

理想の男は中々おらず、三十を過ぎてようやく婚活パーティーで外資系サラリーマンだった夫に出会った。真面目で年下の気弱な夫は、経験値で勝る次女の持前の美貌と計算ずくな外面の良さにまんまと引っ掛かり、二人はめでたく婚約に至った。

豪華な結婚式と百万円を超えるハネムーンは全て次女主導の元で決められた。そして新居に選んだのは流行りの湾岸エリアに建設予定だったタワマンだった。

CMの様な現実離れしたモデルルームの煌びやかな内装は次女のプライドを擽った。セールスマンの筋書き通りの営業トークに見事に乗せられ、もう少し熟慮しよう、と止める夫を無視し、即決で契約してしまった。

いくら高収入と言えども所詮サラリーマンの夫の年収では、億を超える上層階には手が出せず、契約出来たのはぎりぎりローンの組める50階建の7階という中途半端な部屋だった。

次女の見栄っ張りは親譲りのもので、矢吹さんはタワマンと聞くと大賛成し、次女夫婦の為に頭金のほとんどを用立てたらしい。

タワマンの地下駐車場は、スーパーカーの展示会と見間違える程の高級車がズラリと並んでいた。それを見た次女は早速、タワマンの居住者目当てに近所に続々と現れた外車ディーラーに赴いた。

子供が出来たら今よりお金が掛かるから、とまたも冷静な夫の意見は全く聞かず、国産車より安い最低グレードの外車を残価設定型ローンで買った。

次女夫婦には一男一女の二人の子が生まれた。タワマンに住むママ友達は子供はお受験させるのが当たり前で、次女は御多分に洩れず二人の子供にお受験させ私立の小学校に通わせた。

旦那は公立でも良いのでは、と何度も意見したが、公立はレベルが低いし不良が居る、と言って次女は聞く耳を持たなかった。

外資系企業に勤める夫の年収は世間一般から見ればかなり多い方だったが、タワマンのローンに外車のローン、私立に通う二人の子供の学費、と身分相応を遥かに超え、見栄と欲に塗れた無計画な次女の家計はすぐに火の車となった。

自身も大の見栄っ張りでプライドが高い矢吹さんは、タワマンに住む次女と可愛い孫が自慢だった。

学費は全て出すと言う条件で、孫二人のお受験を勧めたのも実は矢吹さんだった。そして事ある毎に次女の生活費も援助していた。

だが最近になって、次女の夫は会社を辞めたいと言い出した。元来穏やかな性格の夫は、いつ首切りされるかわからない外資系企業で、ピリピリしながら働く事には向いていなかった。辞めたいと常に思ってはいたが、家族の為、ローンの為、その一歩は踏み出せずにいた。

土日も無くがむしゃらに働き続け、心身疲れ果てた夫はふと、一体自分は何の為にこんなに頑張っているのだろうか、と考えた。そしてそれが次女の見栄の為であったという事に気が付いた。

会社を辞め、タワマンも外車も売り払い、田舎でかねてからの夢だった農業を始めたい。値上がりしているタワマンは、今売ればローンは全て返済出来る。無駄な外車は軽トラに乗り換える。

気弱な夫の人生を掛けたカミングアウトだった。

当然のごとくそれは次女の逆鱗に触れた。これまで全ての事において、次女の意向を優先して来た夫だが、今回だけは譲れないと意思は固かった。

既に会社に辞表を提出した、と聞いた次女はヒステリーを起こし、食器棚の皿と言う皿を全て夫に投げつけた。床には割れた皿やグラスが散乱し、テレビにタンス、冷蔵庫までも倒し破壊した。

そろばん塾から帰って来た次女の娘が、家の中のただならぬ雰囲気を察し、恐る恐る部屋に入って来た。そこで目にしたのは、泥棒にでも入られたかの様な部屋の惨状と、髪の毛を振り乱し狂乱する鬼婆の様な母の姿だった。娘は恐ろしさのあまり大声を上げて泣き出し、玄関のドアを開け外に逃げ出そうとした。

子供の泣き声を隣近所に聞かれでもしたら大変な事になる。我に帰った次女は、慌てて娘を家の中に引き戻し、玄関のドアを締め鍵を掛けた。

ただでさえタワマンカーストの最下層にいる次女のお家騒動は、上位のママ友達の格好のネタとなる。こんなみっともない惨事をもし知られようものなら、見栄の館タワマンに住み続ける事はもう出来ない。

金の切れ目が縁の切れ目とはよく言ったものだ。その出来事以降、次女の夫に対する態度は急速に変化した。夫婦の関係は完全に冷え切り、次女は夫に離婚話を持ち出した。

その様な状況でも、娘可愛い親バカな矢吹さんは次女の方が正しい、悪いのは全て夫、と周囲には漏らしていたらしい。

すぐにでも引退して伊豆の温泉付き別荘で妻と二人で悠々自適に過ごしたい、と話していた矢吹さん。釣りはいらないよ、といつも一万円札をダンディーに置いて帰る矢吹さん。スナック桂での矢吹さんはお金持ちの好好爺にしか見えなかった。

だが、現実はホストに溺れたジャジャ馬の長女と、見栄っ張りな次女に振り回され、さぞかし心労していたに違いない。人は見掛けに寄らない、ポンタは探偵と言う仕事柄、そう思わせられる出来事が今まで多々あった。今回も正にそれだった。

収入源の夫を失っても、自分のプライドだけは失いたくない次女にとって、一番必要だったのはお金。ゆえに矢吹さんの遺産は、喉から手が出る程欲しかったはず。

そうなると、次女には矢吹さん殺害の十分な動機があった事になる。ポンタは公園を下る緩い坂道を歩きながら考えていた。

左手の土手に紫陽花が蒼く咲いていた。咲き終わった花もポツポツとある。そろそろポンタの嫌いな雨の季節も終わろうとしていた。

土手の紫陽花に目を遣ると、水色の花の中に緑色の花が混じっている。だがこれは花では無い。花が葉になってしまう葉化という病気だ。葉化した木は次第に弱り枯れてしまう。

飛鳥山公園の紫陽花も、最近緑色の花が増えた気がする。やがて全て緑色になって枯れてしまう日も近いのか、ポンタは土手の紫陽花を見て足を止めた。

物思いに耽りながら花を眺めていたポンタは、目を止めた水色の花の影に、何やら水色の塊がある事に気が付いた。

何だこれは、ポンタは腕を伸ばしその塊を手に取った。それは丸まった薄汚い水色のタオルだった。うわ、汚な、雨露で湿り重くなったタオルを足元に投げ捨てると、指先に残る不快な湿り気を乾かす様に擦り、指に残る臭いを嗅いだ。

くさっ!ポンタは声を上げ、触るんじゃ無かった、とうらめし気に足元に転がる水色の物体を睨み付けた。そして踵を返し歩き出そうとした時、ふと立ち止まった。

ポンタは水色のタオルを摘んで持ち上げた。ポタポタと水が滴るタオルを両手の指先で広げて眺めた。

汚れたタオルは所々がほつれ、かなり使い込まれている。よく見ると、薄く消えかけた文字で「矢吹クリーニング」と印刷されていた。

何故こんな所に矢吹さんの店のタオルが、ポンタはタオルを眺めしばし考えた。

そう言えば、矢吹さんの首には太い紐の様な物で締められた跡があった、と上屋(あがりや)警部が言っていた。もしかしてこのタオルは犯行に使われた物かも知れない。

警察は既に大規模な公園の捜索を行っていたにも関わらず、このタオルは発見されなかった。紫陽花の路は現場からかなり離れた所にある上に、水色の紫陽花が保護色となり見つからなかったのかも知れない。

ポンタは水色のタオルを指で摘んで持ち帰り、事務所ビルの屋上の物干しに掛けて干しておいた。


ポンタはスナック桂で焼酎水割りのグラスを傾けていた。隣では百合絵が黙々と焼きそばを食べている。カラン、とドアが開き上屋(あがりや)警部と新米(あらこめ)刑事が入って来た。

「ああ、あかん、完全に行き詰まった、ママ、いつもの」

「お二人とも、大分お疲れのご様子ね」

ママは手際良く水割りを二つ作り、二人の前に置いた。

「ああ、重要参考人としてしょっ引いた奴ら悉く空振りだよ。この歳になってやらかしたら即運転免許試験場送りだ。あそこは敵わん、朝から晩まで毎日ロボットみたいに同じ台詞言って、まるでペッパーだよ」

上屋と新米は同時にふう、とため息を吐いた。

「ハハハ、ペッパーさがりや警部、やっぱり来ると思ってましたよ」

「うるせーインチキ探偵、コッチは落ち込んでんだ、おちょくって楽しいか」

「あ、そんな事言うんだ、いい物あるんだだけどなあ、見せるのやーめた」

「はあ?何だよ、いい物って」

上屋警部は訝しそうな目でポンタを見た。

「いや実はこの前、飛鳥山公園でちょっと気になる物を見つけまして」

ポンタはいつも持ち歩いている愛用の黒のリュックを覗き込みガサガサと弄っていた。

「これですよ」

取り出したのは、きっちり封をしたジッパー付きのビニール袋に入った水色のタオルだった。

「何だそりゃ」

「タオルですよ、矢吹さん所のタオル。この前公園を散歩中に見つけたんです」

「警察は公園内を隈無く捜索したんだ。それでも見つからない物をアンタが見つけられる訳ねーだろ」

「僕もそう思ったんですけどね、紫陽花の花の後ろに隠れてたんです。水色の花と完全に同化してたから気が付かなかったんじゃないですかねえ」

うむ、と上屋警部はジッパー袋をシゲシゲと眺め、チャックを開けタオルを取り出そうとした。

くさっ!ツーンと目に来る強烈な刺激臭がスナック桂の店内に立ち込めママは鼻を摘んだ。

「警部!ダメですよ、そのタオル半端なく臭いんですから、署に帰ってから開けてください」

「おおう、すまんすまん」

警部は慌てて袋のチャックを締めた。

「上屋さん、憶測ですが矢吹さんはそのタオルで首を絞められたのではないか、と思うんです」

「確かに、太い紐のような物で絞められた跡があったからな」

「僕、そのタオルに見覚えがあるんです」

「でも、このタオルはサービスで客に沢山配っていた物じゃないのか、誰の物かなど特定出来るのか」

「矢吹クリーニングでは年始にお得意様のご挨拶にそのタオルを配ってるらしいんです。しかも色はその年によって変えてます。水色は今年の色です」

「私も年始に矢吹さんから貰ったわ、同じ色よ、ほら」

ママはカウンターの下から鮮やかな紫陽花色のタオルを取り出して見せた。それはポンタが拾った色褪せたタオルとはかけ離れた物だった。

「今年配ったにしては、このタオルかなり使い込まれてるな、僅か数ヶ月でこんなに色褪せるのか」

「上屋さん、毎日そのタオルを使って、擦り切れる程愛用している人が、クリーニング店に居るじやないですか」

「おお!アイツか!」

上屋警部はしばらく考えた後、声を上げた。

ポンタが真犯人ではないかと疑っていたのは矢吹クリーニングの番頭として働いている金田だった。

金田は高校生の頃に、まだ創業間もない一店舗だけの小さなクリーニング店だった矢吹さんの店にアルバイトとしてやって来た。そして卒業と同時に矢吹クリーニングの社員となった。

素直な性格で、仕事をスポンジの様にぐんぐん覚えて行く金田の事を、息子のいない矢吹さんは実の息子の様に可愛いがった。金田も矢吹さんの期待に答え、一人前のクリーニング師として成長した。

刃物の様に鋭い折れ目の金田のアイロン掛けは評判となり、矢吹クリーニングの顧客は激増した。

金田は、落とせない物は無いと言われる染み抜きの名人としても名が知れ、全国から難しい染み抜きの依頼も来る様になった。

僅か一店舗からスタートした矢吹クリーニングが、都内に何店舗も構える大きなクリーニング店となれたのは金田の力も大きかった。

経営者に専念する矢吹さんは、金田に全幅の信頼を置き、店や工場など現場の仕切りは全て任せていた。金田も矢吹さんの事を親父さんと呼び、二人の信頼関係はとても密で深い物に見えていた。


「矢吹さん、良く金田さんを連れて飲みに来たわね。かね坊、かね坊、って金田さんの事を親しみを込めて呼んでた。金田さんだってもう五十超えてるのに、矢吹さんからしたら、いつまでも子供の様な存在だったのかもね。そんな金田さんが矢吹さんを殺すなんて考えられないわ」

「ママ、あのタオルは金田さんのトレードマークだよ。僕は金田さんのアイロンが気に入ってて、ワイシャツはいつも矢吹クリーニングに出していたんだ。金田さんはいつもあのタオルを頭に巻いて、店の奥にあるアイロン台に向かって汗だくでアイロン掛けしてましたから」

ポンタは推理の根拠を述べた。

「なるほど、もしこのタオルが金田の物ならば、何らかの証拠が残っているに違い無い。早速署に戻って科捜研に出そう。おい、しんまい!行くぞ」

「ハ、ハイ、警部!百合絵さん、じゃ、またね」

百合絵の事を横目で見ながら水割りをちびちび飲んでいた新米(あらこめ)刑事は、慌ててグラスを置くと上屋(あがりや)警部に続いて名残惜しそうに店を後にした。


翌朝ポンタは矢吹クリーニングを訪れた。

「いらっしゃいませ、あらポンタさんお久しぶり」

接客したのは矢吹さんの三女だった。父の不幸から間もないにも関わらず、明るく接客する三女がポンタは不憫に思えた。

「これ、いつもの様に金田さんのアイロン仕上げでお願いします」

三女はポンタが差し出したコンビニ袋から、皺くちゃの数枚のワイシャツを取り出し広げて検品を始めた。

ポンタは店の奥の金田を見た。金田は今日も水色のタオルを頭に巻いて、一心不乱にアイロンを掛けていた。金田のアイロン仕上げは通常料金より二割増しだが、そのクォリティは割増料金以上の価値がある。

「ありがとうございます。おいちゃん!ポンタさん来たよ」

三女が声掛けると、金田は手を止めてポンタを見て軽く会釈し、再びアイロン掛けを始めた。仕事中の話し掛けるなオーラは、金田のアイロンへに賭ける強いこだわりが感じられる。さすが一流のクリーニング師だ。

ポンタは金田に会釈を返した。金田の頭に巻かれていたのは前回来店した時とは違う色鮮やかな新しいタオルであった事をポンタは見逃さなかった。

「金田さん、久しぶりに一杯どうですか?最近来ないってママが心配してましたよ」

ポンタは手で飲む仕草をした。金田は顔を上げると、右手にアイロンを持ったまま左手でオーケーサインを作りニヤリと笑った。

百合絵は、早々に事務所を出ようとするポンタの落ち着かない様子を察し、何処に行くのかとポンタを問い詰めた。仕方無く、金田とスナック桂に行く、とポンタが明かすと、私も行きたい!と付いて来た。

ママの焼きそばの香ばしいソースの香りが厨房から漂い始めた時、カラン、と店の扉が開き、金田が入って来た。

「あら、金田さん、お久しぶり、いらっしゃいませ」

ママは厨房から百合絵の焼きそばを持って出てきた。

「ハイ、百合絵ちゃん、お待たせ」

「ありがとうママ」

百合絵は黙々と焼きそばを食べ始めた。百合絵はいつも美味しい物を食べる時は無言になる。

「百合絵ちゃんは、いつも美味しそうに食べてくれるから嬉しいわ。そうそう矢吹さんが残していたボトルがあったはず、あったあった」

ママはキープボトルの中から、やぶき、と書かれた高級ウイスキーの瓶を取り出すと、金田の前に置いた。

「はい、このボトルは金田さんが飲んで」

「ま、ママ、私が飲んでもいいんでしょうか」

「いいのよ、きっと矢吹さんもそう言うわ」

「あ、ありがとうございます」

ママと金田の会話はいつもギクシャクしていた。金田は結婚歴が無くクリーニング一筋に生きて来た不器用で生真面目な中年男だった。

「親父さん...」

金田は矢吹さんのボトルを見詰めながら俯き肩を震わせている。そんな姿を見ると誰も掛ける言葉が見つからず、店内は重い雰囲気に包まれた。

これ程までに矢吹さんの事を慕っていた金田が果たして犯人なのだろうか、ポンタは自分の推理に少し自信が持てなくなった。

「さあさあ、今夜は矢吹さんの為に乾杯しましょ、私も飲んじゃうわよ」

静寂を破る様にママが言った。

「すみません暗い雰囲気にしちゃって、ポンタさんお誘いありがとうございます」

「いえ、こちらこそ、今夜は矢吹さんの為に楽しく飲みましょう!」

ポンタが今夜金田を誘った目的は、タオルの件を聞く事が目的だったが、この状況でその話はさすがに野暮だと思い、しばらく飲みに徹する事にした。

会話は矢吹さんの思い出や取り留めない話題ばかりで、いつまでも核心に触れないポンタにイラついた百合絵は時折肘鉄をして来た。だがポンタはそれも無視していた。

事件の事に話が移った時、今がチャンスとばかりにポンタは切り出した。

「金田さん、実は僕この前公園で...」

「カランカラン!」

ポンタが話し始めた途端ドアが開き、声は鈴の音で掻き消された。

「あらお二人さん、いらっしゃいませ」

上屋(あがりや)警部と新米(あらこめ)刑事が入って来た。

「ママ、いつもの、おやおやインチキ探偵さん、今夜も来てるんか、まあ他に行く所無いもんな」

「あら、上屋さん、失礼ね、うちの店じゃご不満?」

「ごめんごめん、そんなつもりで言ったんじゃ無いよ、エヘヘ」

ママに突っ込まれタジタジの上屋警部は頭を掻いた。

金田に本題を切り出すタイミングを二人が入店して来た事で逃してしまったポンタは頭を抱えた。そんなポンタを見てママは苦笑いしている。

自分達が来て、店に微妙な空気が流れ始めたのを敏感に感じ取った新米は百合絵をチラリと見た。百合絵は金田を流し目で見て、新米にその存在を知らせた。

金田が店に居る事に全く気付いていない警部に新米はそっと囁いた。有力な容疑者である金田が店に居る事に、警部は動揺する気持ちを押し殺しながらカウンターに着いた。

スナック桂で上屋あがりや警部と何度か顔を合わせた事のある金田は、一つ隣の席に着いた上屋に軽く会釈すると、そそくさと席を立ち上がり言った。

「ママ、お会計お願いします」

「あら、もうお帰り」

「ええ、今繁忙期で忙しいんですよ、また来ます」

金田はお金を置くとすぐに店を出て行った。

「もう、さがりやさん、タイミング悪すぎ、金田さん帰っちゃったじゃないですかあ。せっかくこれからタオルの話をしようとしてたのにい」

百合絵が上屋警部にツッコミを入れるのは初めてかも知れない。

「あがりやだよ!でも金田の奴、俺達を見た途端に慌てて帰りやがった、益々怪しい。実はあのタオルを解析した結果、金田のDNAが検出されたんだ。そして何と矢吹さんの血痕も見つかった、となると凶器であった可能性が高い。インチキ探偵さん捜査はいよいよ大詰めだ、余計な事してくれるなよ。間もなく金田に逮捕状が出るだろう、後は俺達に任せとけばいい」

警部は意気揚々と語った。

「うーん」

ポンタは何か言いた気だったが、その言葉をぐっと飲み込んだ。


ポンタは上屋警部の忠告を無視し、金田をアスカルゴ山頂駅の見晴台に呼び出した。

かね坊、親父さんと呼び合い、まるで本当の親子の様に見えた二人の間に一体何があったのだろう。殺すほどの理由とは何だったのか。逮捕状が執行される前にどうしても金田に聞きたかった。

ポンタは見晴台に先に着き、道路を走る都電を眺めていた時、背後から声がした。

「ポンタさん」

振り向くと金田が立っていた。

「金田さん、繁忙期でお忙しいのに、お呼びたてしてすみません」

ポンタは金田に頭を下げた。

「ここは、親父さんか一番好きだった場所です。ここから都電を見下ろして、俺は本当は都電の運転士になりたかったんだ、昔は都電があちこちで走っていたのに、今じゃ道路を走る都電が見られるのはここだけになってしまった、と親父さんいつも口癖の様に言ってました」

金田はポンタの隣に立ち、暮れなずむ道路を車のヘッドライトと並走しながら坂を下って行く都電を見詰めた。

「金田さん、実はこの前スナック桂で言い損ねたんですが、僕この公園であなたのタオルを拾ったんです」

「そうですか」

「上屋警部に既に渡してあります。そのタオルからあなたのDNAと矢吹さんの血痕が見つかったそうです。間もなくあなたに逮捕状が下りるでしょう」

「捜査の手がいよいよ私に及んでいる事は何となく勘づいてました。物証もある以上、もう言い逃れ出来ないのはわかっています」

「金田さん、あんなに慕っていた矢吹さんを何故...」

金田は覚悟を決めた様子で事件の真相を語り始めた。


◇金田の告白

幼い頃に両親を亡くした私は、親戚の家を転々とさせられ、中学を出ると同時に家を出ました。

矢吹クリーニングでアルバイトを始めた身寄りの無い私の為に、親父さんは自分の書斎だった部屋を開け、そこに私を住まわせてくれました。家族と同じ食卓で三食食べて、衣食住全て面倒見てくれました。当時食べ盛りだった私に遠慮するなといつも自分のおかずを分け与えてくれました。

夜間高校にも通わせてもらった私は、高校卒業と同時に矢吹クリーニングの正社員となり、それから四十年間一筋で働いて来ました。

赤の他人の私を、親父さんは実の息子の様に可愛がってくれました。感謝の気持ちはもう言葉では言い表せません。

親父さんは良く仕事が終わってから「かね坊、散歩行くぞ」とここに私を連れて来てくれたんです。

ここから都電を見ながら私にいつも言いました「かね坊、お前は俺の息子だ、矢吹クリーニングはお前に任せる、よろしく頼む」って。

その時私は思ったんです。こんな自分でも生きてる意味がある。誰かの役に立つ事が出来る。生きてて良かった、と。

何も良い事が無かった人生、こんな人生もう終わりにしたいと思い続けていた私に、親父さんは生きる希望を与えてくれました。こんな私でも存在価値がある事を親父さんは教えてくれたんです。

親父さんの為、矢吹クリーニングの為、私は身を粉にして働きました。クリーニング師の資格を取り、誰にも負けない程アイロン掛けや染み抜きの研究もしました。親父さんの為に自分の人生を捧げようと決心したんです。

私はあの日、ここで親父さんが男に石で頭を殴られる所を目撃しました。いつもとは違う時間に散歩に出た親父さんを見て、私は胸騒ぎがして後を付けて来たんです。

僕は殴られてしゃがみ込む親父さんに駆け寄りました。親父さんは頭から血を流しながらも意識はハッキリしていました。直ぐに救急車を呼ぼうとしたのですが、大丈夫だから呼ぶな、と親父さんは止めました。

「これはおそらく長女の差金だろう、救急車を呼ぶと事件になる、娘を犯罪者にしたくない」と親父さんは言いました。長女はあの通りのジャジャ馬娘です、それでも親父さんにとっては可愛い我が娘なのでしょう。

頭を押さえながら親父さんは私の肩を借りて立ち上がりました。そして都電の走る姿を見下ろしながらこう言ったんです。

「かね坊、矢吹クリーニングをよろしく頼む。三女の事を助けてやってくれ」

私はその言葉に耳を疑いました。矢吹クリーニングの後を継ぐのは私では無いのか、私はそれを思い続けながら仕事をして来たのです。

私が跡継ぎでは無いのか、と私は親父さんを問い詰めました。すると親父さんはこう言い放ったたのです。

「何だと!丁稚の分際で思い上がるな!跡継ぎだと!拾て犬のお前をどんだけ可愛がってやったと思ってるんだ、会社は娘の三女に継がせる。当たり前だ」

「丁稚」「捨て犬」親父さんは私の事をそんな風に思っていたのか、私はこの人の為に人生の全てを捧げて来たのか、その言葉、余りにも酷い、酷すぎる、許せない、絶対に許せない!

私は掛けていたタオルを両手で持ち、背後から親父さんの首に巻き付け、思い切り締め上げました。

「かね坊、おまえはおれの...」

親父さんは振り返り、私に手を伸ばしました。ほんの数秒で親父さんの身体の力が抜け膝からガクリと倒れ落ちました。

私はそれでも全身の力を込めて首を締め続けました。そして親父さんの体を崖から蹴り落とし、その場から駆け出しました。

何処をどう走って帰ったのか全く記憶にありません。

「親父さんのバカ野郎!やっぱり俺なんて産まれて来なければ良かったんだ、こんな人生もう嫌だ!畜生!」

私は泣き叫びながら走っていた様に思います。

凶器のタオルは公園の何処かに投げ捨てました。気が付けば私は一人で真っ暗な店に居て、アイロン台の前に立っていました。

私は何十年もの間、来る日も来る日もアイロンを掛けて続けて来た。年季の入ったアイロン台のシミ一つ一つにクリーニング一筋に生きて来た私の人生が詰まっています。

目を閉じると親父さんとの思い出が走馬灯の様に駆け巡りました。思い出すのは何故か優しい親父さんの顔と、共に過ごした楽しい出来事ばかりでした。

でも全てが偽りだったのです、親父さんは私の事を、捨て犬の丁稚、とずっと思っていたのです。私は、私は、畜生、ちくしょう...

金田は膝からガクリと崩れ落ち、土下座する様に頭を擦り付け、泣きながら拳で地面を何度も殴り付けた。

「おいちゃん!それは違う」

背後から三女の声がした。ポンタが振り向くと三女と百合絵が立っていた。ポンタは百合絵に三女を此処に連れて来る様に言っておいたのだった。

「これを読んでみて!」

三女は蹲っている金田に近づき、白い封筒を差し出した。金田は涙で腫れた目で三女を見上げた。

「それはお父さんの遺言状よ、もし自分にもしもの事があったら開けなさい、と言って私に貸金庫の鍵をくれたの、その中に入ってたの」

金田は「遺言」と書かれた封筒から四枚の便箋を取り出し読み始めた。一枚目には妻と家族への感謝の言葉、二枚目には財産目録、そして三枚目は財産の分配について書かれてあった。

「矢吹クリーニングが有する資産及び経営に係る一切の権利は、三女と金田の二人に平等に分配する...」

三枚目の便箋の冒頭の文を、金田は声を震わせながら読んだ。

「そんな馬鹿な!親父さんは矢吹クリーニングをお嬢さんに継がせると言ったんだ!捨て犬で丁稚の俺なんかに継がせる訳ない!とこの場ではっきりと言われたんだ」

「おいちゃんのバカ!お父さんはずっと私とおいちゃんに継いで欲しいと思っていたんだよ!私は、小さい頃からおいちゃんに憧れていた、毎日汗だくになりながらアイロン台に向かっているおいちゃんはとてもカッコ良かった!小学校の卒業文集に、私はクリーニング屋さんになりたいって書いた事知ってる?私の夢はおいちゃんと二人で店を継ぐ事だったんだよ」

三女は金田の腕を両手で掴んで揺らした。

「私、おいちゃんと結婚したいって何度も言ったのに、おいちゃんは全然相手にしてくれなかった。子供だと思ってたのかも知れないけど、私は真剣だったんだよ」

「お嬢さん、私の様な馬の骨とでは不釣り合いです。あまりに身分が違い過ぎます。歳も離れていますし、親父さんは反対したに決まってます」

金田は三女の手を振り払った。

「金田さん、遺言状の最後の一枚を読んでみてください」

ポンタは静かに言った。

◇矢吹さんの遺言状 四枚目

かね坊へ

かね坊、お前に出会えて本当に良かった、お前のおかげで本当に幸せな人生だった。

かね坊に初めて出会ったのは、お前がまだ十五歳の時だったね。少し伸びた坊主頭のまだあどけなさの残る姿は、まるで少年時代の自分と瓜二つだった。

息子のいない私に神様が息子を授けてくれたと思った。お前の不運な生立ちを知り尚のこと可愛いくなり、できる限り力になってあげたたいと思った。

定時制高校を主席で卒業し、先生は大学進学を勧めたがお前は矢吹クリーニングの社員になると言って聞かなかった。推薦を貰っていた大学が何校もあったにも関わらず。

社員になってくれるのは嬉しいが、大学を出てからでも遅くないだろう、と進学を勧めても君の意思はとても固かった。早く一人前のクリーニング師になって親父さんに恩返ししたい、と言う言葉を聞いて私は涙が出たよ。

かね坊、お前が居なければ矢吹クリーニングはこれ程大きな会社になる事は無かっただろう。お前が身に付けたアイロンと染み抜きの技術がここまで会社を成長させたんだ。

だからかね坊、矢吹クリーニングはお前に継いでもらいたい。ただ私の遺言として一つだけお願いを聞いてくれないか。

かね坊、三女と一緒になってやってくれないか、そして二人で矢吹クリーニングを継いでくれたら、こんなに嬉しい事は無い。

三女はお前の事を好いている、だが、何度告白しても相手にしてもらえない、とずっと三女は嘆いていた。あの子はお前に一途で、それ故未だに独身だ。

身分が違う、釣り合わない、と言うのがお前が断る理由だそうだが、そんな事は全く無い。

自分の不幸な生立ちからつい臆病になってしまうのもあるだろう。でもお前はそんな運命から自力で這い上がり、全国屈指の立派なクリーニング師となった。

これからお前は矢吹クリーニングの後継者になる。それは一社員では無く経営者になると言う事だ。経営者に必要な物は揺るぎない信念と自信。お前には強い信念はあるが自信と言う部分が少し足りない。

お前はもっと自信を持って正々堂々と生きて欲しい。お前はそれだけ価値のある人間なのだから。

親バカで申し訳ない、どうか三女を幸せにしてやってくれ、後は頼んだぞ。

我が愛する息子へ 親父より


「ならば親父さんは何で俺にあんな酷い事を言ったんだ!」

最後の便箋を読み終えた金田が叫んだ。

「わからないの!お父さんはわざと言ったんだよ!おいちゃんにもっと自信を持って欲しくて、それに気付いて欲しかった、でもおいちゃんはいつもみたいに卑屈になって...」

三女が言い返すと、ハッと気付いた様に金田は膝からガクリと崩れ落ちた。

「親父さん、俺は、おれは、なんて事を...」

「バカバカバカ!おいちゃんのバカ!」

地べたに疼くまる金田の背中を、三女は泣きながら何度も叩いた。


都電と並走しながら数台のパトカーがサイレンを鳴らしながらやって来た。しばらくすると警官達を引き連れた上屋(あがりや)警部と新米(あらこめ)刑事が階段を駆け上がって来た。

「矢吹さん殺害の容疑で逮捕する!」

息を切らして上屋警部が金田に逮捕状を突き付けた。金田が力無く立ち上がり両手を差し出すと、新米刑事は慣れない手付きで手錠を掛けた。

「おいちゃん!私待ってるからね」

項垂れながら連行される金田の背中に向かって三女が叫んだ。

「お嬢さん、もう私の事は忘れて下さい、どうかお幸せに...」

「何でそんな事言うの!おいちゃんが嫌でも私会いに行くから!おいちゃんに教わりたい事まだまだ一杯あるんだよ」

「お嬢さん...」

金田は三女とポンタ達に深々とお辞儀をし連行されて行った。


「ちょっと切ない事件だったわね...」

房美ママがしんみりと言った。ポンタと百合絵は今夜もスナック桂にいた。

「カラン!カラン!!」

「よう!インチキ探偵さん、またアンタに美味しい所持ってかれちまったな!」

勢いよくドアが開き、上機嫌の上屋(あがりや)警部と新米(あらこめ)刑事が入って来た。

「すみません、落としの名手さがりやさんの出番奪っちゃって」

「あがりやだよ!全くあんたはいつも余計な事してくれやがる。これで俺が運転免許試験場送りになったらアンタの責任だからな」

「免許更新の時は、お手柔らかによろしくお願いしまーす」

「るせー!まあアンタが見つけたタオルあっての事件解決だ、今夜は祝杯と行くか」

「今夜は私も飲んじゃうわよ、みんなカンパーイ!」

房美ママがグラスを高々と上げた。

「百合絵さん!事件解決したからデートOKですよね!」

新米は意気揚々と百合絵に迫った。

「はあ?何言ってんの、アンタ何もしてないじゃん」

「そんなあ...」

「しんまい君、男は自信よ!がんばれ」

「ハハハハハ」

房美ママの茶々に笑いが起きた。

『フフフ、全て上手く行ったわ、男ってみんな単純ね』

はしゃぐ男達を房美ママは微笑んで見ている。


目に微笑みを携えてはいるが、その奥に怨恨の炎が垣間見える。それに気付いたのは百合絵ただ一人だった。

「まさか、ママも矢吹さんを殺したいと思っていたのかしら...」

般若の様なママの薄笑いにゾッとした百合絵は、焼きそばを食べる箸の手を思わず止めた。

スナック桂から聞こえて来る賑やかな笑い声は、夜更けまで路地裏に響き渡っていた。












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