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Twitterのこと 3.

※ こちらの内容は、ウェブサイト(現在は閉鎖)にて2016年~2019年に掲載したものを再投稿しています。内容等、現在とは異なる部分があります。ご了承ください。

常時ツイッターをやっている人と、ぼくが呼んでいたものにはちゃんとした呼称があって「ツイッター民」と呼ぶらしい。また一つ勉強になった。
それにしてもネットでは次から次へと新しい言葉が生まれる。
とはいえ、その多くは他人のことを腐すようなもので決して気持ちの良いものではないけれど、それでもその感情とは別に「しかし上手いこと言うなぁ」と感心することが多々ある。

新しいと言葉というわけでもなければネット用語でもないけれど、「承認欲求」という言葉も一時、散見するようになった。
これも揶揄するときに使われることが多い気がするけれど、承認欲求があるのは人として当然だと思うし、主張をしているのがまだ社会においてこれからの若い人だとしたら、彼らがそういった言動やツイートをするのも何らおかしなことでもないと思う。誰だって社会や他人から認められたいといった感情はあるわけだし、それを皮肉る必要もない。
ただ、度が過ぎるとやはり若い人であってもウザい、面倒くさいヤツだと思われるだろうからその辺りのさじ加減は必要なんだと思う。

同じような言動、ツイートであったとしてもこれが社会から既に承認済みなおじさん世代のツイッター民によるものだと受ける印象もかなり変わってくる。
この場合は承認欲求というよりもその多くは自己顕示欲からくるものに見えるし、その手の発言は上から目線で自信に満ち溢れていて自慢だったり、説教くさいものだったりと、そりゃ「ツイッターのFB化」と言われるのも、若い子たちが立ち去るのも頷ける。

ツイッターを眺めていると結構な頻度であちらこちらで燃えているけれど、きっとツイッターには、おせっかいやきな人が多いに違いない。
狙って炎上させるようなものは別として、既に著名だったり賢いと思う人たち同士がやり合っているのを見かけると、どうしてそんなことをやっているのかと不思議な気持ちになる。
もちろん問題提起や意見の対立だというのはわかるけれど、ぼくにはそれが建前にしか思えなくて、本当のところは肥大した自意識や自己顕示欲の競い合いをしているように見えて仕方がない。

賢い人たちのことだからきっとそこには何かしらの狙いがあるだろうし、人によってはそれをエンタメとしてやっている気もする。
こういった名のある人たちの舌戦というのはどちらかが折れる、歩み寄るといったこともまずなくて、そもそもの前提としてお互いが「自分の考えは正しい。よって、あなたの考えは間違えている」といった論理であることがほとんどだから平行線のまま結論なんて出ることもまずない。

それに、「話し合えばきっとわかってもらえる」というのが現実にはそうでもないことや、そう思いたい人、思い込んでいる人を相手に何を言っても無駄だということもある程度の大人なら経験則としてわかっていると思うのだけれど。
バカなぼくが見ていても不毛としか映らないのだから、この賢い人たちはきっとそんなこともわかった上でやっているのだろうとは思う。
だから誰得なのか、何得なのか、といった狙いがぼくにはサッパリわからない。

つづく

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